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ある日系二世と山下奉文大将 - 河崎明彦著「或る英雄」


知人からお借りした本をご紹介します。

河崎明彦著「或る英雄」の副題は

「日本軍に見捨てられた日系二世」とあります。

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この著者の略歴は下に写真で掲載することにしますが、

1938年から1942年まで兵役を務め、本文には次のような

記載があります。

・・・・

「私と馬の付き合いは、昭和十四年(1939)の新春があと十日

という忙しいときに入隊、機関銃隊に配属されたからである・・・」

「四月、我々初年兵も一通りの戦闘訓練は終了、北支・山西省・

聞喜県に駐留する派遣軍に追及した。」

・・・とありますので、大戦中にフィリピンでの戦争経験が

ある方ではないようです。

・・・・

この本はプロの文筆家が書いたものではなく、自分史として

書かれているものですので、個人的な内容がほとんどで、

過去にバギオ周辺の歴史などを様々な資料で読んだものに

照らしてみると、書いてある内容がやや異なっている部分が

あるのですが、ここにこの本を敢えて紹介するのは、バギオ市

の日系二世の悲惨な人生を取り上げてあるからです。

それは、この本の著者がマニラのキリスト教会・フランシスコ

修道院との交流があって、そこを通じての日系人との接触が

契機になったようです。

・・・

ここには二人の日系二世の戦中・戦後のことが書かれています。

ひとりは「スパイの娘」とされた テレシータ・グスマン

(日本名 椿タツ子)で、タツ子の父は1909年に

フィリピンに渡り北部ルソンのバヨンボンに住んでいた。

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もう一人は、バギオ生まれの日系二世である東地琢磨。

彼は軍属の通訳としてバヨンボンの憲兵隊に配属され、

後に山下奉文大将の通訳となっています。

・・・・

バヨンボンという町は穀倉地帯であり、一時期には

マニラなどからの邦人避難民が農作物をつくり、

日本軍への食糧供給基地としても機能していたようで、

バギオ市の北にあるハルセマ・ハイウエイの21キロ地点

から「山下道」と呼ばれる山岳道路でつなぐ計画でした。

・・・・

椿の家の生活は「裕福で七人の子女に恵まれ平和な家庭を

営んでいた。タツ子もミッション・スクールを卒業し

美しく成長していた」とあります。

・・・

しかし、「ある夜、顔見知りの現地人に父は呼び出された。

父は何の疑いもなくすぐ帰ると言って出かけたまま、

その夜は帰宅しなかった。 翌朝父は惨殺死体で発見された」

これは抗日ゲリラによるものと思われますが、

戦時中の日系人の立場は微妙なもので、フィリピン人の中

でも、米軍寄りと日本軍寄りのグループがあって

フィリピン人同士での憎しみにも繋がった事例があります。

・・・・

「・・・やむなくタツ子は幼い弟妹を連れて人目を避ける

ように山中徘徊がはじまった。」

「東地琢磨はこんな子供達に同情し夜陰に紛れて衣食を

運んでくれるようになった。」

..

・・・・その後、琢磨とも音信不通になるのですが、

その琢磨の方にはさらに悲惨な運命が待っていました。

フィリピンでの戦犯処刑の立会人だったとされる日本人の

方の手紙の文面が紹介してあります。

・・・

「1946年(昭和21)2月23日午前3時、山下大将

(第十四方面軍司令官陸軍大将山下奉文)の処刑が始まり、

三人目の方が東地琢磨さんでした。 私は山下大将の処刑に

立ち合ったのですが、東地さんは、カトリックの信者なので

米軍の従軍牧師が立ち合いました。 刑場の模様、絞首刑の

方法がどんなものであったかはお話できます、無論遺族の

方々にお話しできるようなことではありません」


・・・

では、ここで 東地琢磨さんのことが書いてある部分を

引用します:

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「東地琢磨の故郷バギオは1945年(昭和20)4月23日

陥落した。 それよりさき、戦況を危惧した琢磨は、日系住民

に対し避難を勧めて歩いた。」

「6月に入って第十四方面軍司令部は、アシン川付近の

山岳地帯に集結、複廓陣地を構築し各兵団ごとに自活自戦

を命じ永久抗戦に入った。」

・・・・

「銃火器、弾薬、食糧の尽きた状態は戦うこと自体すでに

限界だった。山岳地帯に辛うじて辿り着いた数万の将兵と

一般邦人の老幼男女はいずれも栄養失調による疫病に罹り

風土病に冒され、つぎつぎ斃れていった。」

・・・

「一方前線では軍司令部左正面陣地を確保する警戦隊

第三大隊に琢磨はいた。・・・・琢磨はバギオ陥落の際、

任務を解いてもらいたかったが上官から「日本軍の敵に

なるのか」といわれ、辞めると殺されると思った。

と後の裁判中に証言をしている。」

・・・

「8月31日、山下大将は副官を帯同して降伏調印の

ため山を下りていった。」

「連合軍法廷は重要戦犯容疑者を指名して来た。

比島憲兵隊バヨンボン分隊通訳、軍属東地琢磨はその内

の一人として指名された。」

・・・

「東地琢磨は1923年(大正12)2月、ルソン島

ほぼ中央にあるバギオ市で、日本人を父、フィリピン人を

母として生まれた。 バギオの日本人小学校を卒業後、

カトリック私立校セントルイス校を働きながら勉学、卒業した。」

...

「憲兵隊での彼は、語学の優秀さを認められ、バヨンボン分駐所

が設立されるや軍通訳としてバギオ分隊から転出していった。

彼の悲運のスタートである。琢磨十九歳の6月だった。」

・・・

「ある日、米比軍ゲリラ三人を捕らえた。 ・・・当然処刑

という問題が生じたが彼は三人の助命を願い、その条件として

彼らを逆スパイとして使うことを具申・・・・」

・・・

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「たった一枚の遺書は父の手に渡った、2月20日付けの

トイレットペーパーに託されている。「大親分(山下大将)

と親分(太田大佐)を案内して行くから自分は満足であるが、

テレシータ(椿タツ子)の行く末が心残りである」

琢磨の遺書は父の手により、彼が見ることのなかった日本の

故郷の墓所に納められた。」

・・・

「バヨンボン分駐所で起訴されたのは二名のみである。

即ち松田分隊長と東地である。 ・・・・(松田分隊長は

無罪の宣告を受け帰国した)。」

・・・

「なぜ? 東地は黙して語らなかった。それは自分に不利に

なることを承知で、彼らを戦犯にしてはならない、故郷へ

帰さねばならなかったからである。 ・・・・

マニラ法廷で東地は松田分隊長と逢ったとき、「隊員の名前は

一切出していません、ご安心下さい」との証言を分隊長に

告げている。」

・・・

・・・

=== 合掌 ===

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by janlbaguio | 2018-03-10 02:29 | History バギオの歴史
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