バギオの歴史コーナー 「戦時編」 <その1>

 
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バギオの歴史 - 戦時編 <その1>


この「バギオの歴史」コーナーでは、しばらくの間シリーズとして、
「続 イフガオの墓標」 
(宍倉公郎著 昭和55年 育英印刷興業 発行)


からの抜書きをご紹介したいと思います。
この本は既に絶版となっているようですが、一部のオンライン書店などで「古書」として取り扱われているようです。
ご興味をお持ちの方は、是非 お買い求め下さい。

この著者である宍倉公郎氏は 大正8年千葉県生まれ。 東京薬学専門学校卒。 昭和17年東部第十二部隊(近衛野砲連隊)に入隊。 昭和18年 陸軍軍医学校卒業。 見習士官(薬剤官)として宇都宮陸軍病院に配属。 その3月、第七十四兵站病院編成要員となる。 終戦後 昭和21年6月に復員、帰国。

フィリピンで所属していた病院が「第七十四兵站病院」であり、その病院の略歴は以下の通り:
昭和18年3月29日 バギオに病院開設
昭和20年4月21日まで バギオ
昭和20年4月19日~21日 バギオからボントック道の90キロ地点、バダヤン、トッカン方面に撤退、トッカンにて終戦。
バギオ駐留の間に、日赤看護婦、朝鮮班、茨城班、東京班、静岡班、滋賀班、福岡班が到着。
昭和18年2月10日宇都宮陸軍病院で編成した折の人員は350名、内将校は36名とされている。

尚、当時バギオには上記「第七十四兵站病院」の他に、「第十二陸軍病院」と「第百二十九兵站病院」が あい前後して運営されていたようです。

第七十四兵站病院は その本院を 現在のバギオ・ティーチャーズ・キャンプに置き、叉 分院を 現在のバギオ・コンベンション・センター辺りに置いていました。
終戦時の位置は、ボントック道の90キロ地点から東におよそ20キロくらいのトッカンとなっています。

(兵站病院の「兵站」とは、戦闘部隊の後方にあって、人員・兵器・食糧などの前送・補給にあたり、また、後方連絡線の確保にあたる活動機能とされています。)


その本院と分院の様子は 以下のように書かれています:

== 以下 引用 ==

本院を開設したティチャズキャンプはバギオ市郊外東側の凹地で、あたり一帯は樹令を経た赤松林が鬱蒼としていた。 ここはもと、フィリピン陸軍士官学校であったもので、広いグランドを囲んで、テニスコートや設備の整った広い体育館、三階建ての大きな建造物が二、三棟と、渡り廊下で結ばれた沢山のコテジ(小屋)が松林の中に散在していた。 ここにはマニラ陸軍病院分院が既に開設されておって本院は設備と患者をそのまま引き継いだのである。

分院を開設したガバメントセンターはバギオ市郊外南側の市街を一望に見下ろす小高い丘で、学校のような大きな木造の二階建ての建物が広い中庭を囲んでコの字型に立っていた。 ここは、その地名が示すように夏季、暑いマニラを避けて政府機関が移転してきたところで、分院は空き家となっていたこの建物を利用したものである。

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次回 <その2> は、まだ平和だった当時のバギオの様子を 抜書きしてみます。


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by janlbaguio | 2010-05-15 17:44 | History バギオの歴史
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