バギオの歴史コーナー - 戦時編 <その5>


この「バギオの歴史」コーナーでは、シリーズとして、「続 イフガオの墓標」 (宍倉公郎著 昭和55年 育英印刷興業 発行)からの抜書きをご紹介しています。

今回は バギオの北方、ラ・トリニダッドからボントックへ向う ボントック道(ハルセマ・ハイウエイ)沿いをひろってみます。

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p198
第一線がきれれば敵は一気に市内に突入するし、バギオから北方山岳地帯への唯一の撤退路ボントック道は、それに呼応するゲリラの蜂起によって遮断されてしまうであろう。
それらを併せ考えると一刻も早くバギオは去るべきであった。

p199
バギオ郊外六キロのところにトリニダッド農園といわれた農場があった。
ここは昔、湖だったところへ土砂が流れ込んで沃野となったのだそうで、周囲十キロ、耕地面積六百ヘクタールといわれ、その真っ只中を直線道路が延々二キロも続いていた。
その昔、ベンゲット道を開拓した日本人が工事完成後入植し、現在に到ったもので、戦前、戦中を通じてバギオへの野菜供給を一手にまかなっていた所である。 比島にはめずらしいキャベツやタマネギ、ミツバなどまで栽培をしていた。

p203
午前三時半、ようやく二十一キロ地点に到達した。 昼間は行動が出来ないので、ここで大休止することにした。 この二十一キロ地点は三叉路になっていて真っ直ぐゆけば吾々の目指す九十キロ地点を経てボントックに到り、右折するとインチカクアリタオバヨンボンを経てカガヤン平野に到るのである。
(中略)
そして第五日目にようやく九十キロ地点に到着、付近の松林に退避した。
(略)
この九十キロ地点で本道を別れ、右に折れて・・・・
山道を二キロほど入ったところがバクロガンといわれた地域であった。

p205
バギオ撤退の模様は、・・・・
この頃、敵の砲撃に対応して味方の高射砲陣地からは零距離射撃がおこなわれていた。 
(略)
特に、爆破されたトリニダッドの橋梁付近に対する敵の砲撃は激しく、路上には自動車がいっぱいつまって、敗走する兵や邦人でごったがえしていた。
(略)
この頃から重症患者の中には歩行不能となり落伍する者が続出しだした。 このような状況下における落伍、それは即ち死を意味した。

p206 
私は(バクロガンから)五、六キロほど山奥のイフガオ族の部落に前進を命ぜられた。
カモテ(さつま芋のようなもの)畑の確保のためである。
(略)
部落といっても、それは広いコーヒー園に囲まれた数戸の土人小屋と、二、三百メートル離れた山合の高台に二、三の小屋が見えるだけであった。

p213
バギオ、ボントック間を結ぶこの本道は山岳地帯の山の尾根を通るもので、道端に夏草が生い茂る静かな田舎のジャリ道を思わせた。 しかし、いま見るこの道路は、つい一か月バギオから先遣隊として北上したときとはその様相を一変していた。
道路の両側には雨に打たれて夜目にもそれとわかる行倒れの屍体がごろごろと転がっていた。 水を飲みにきて、こと切れたものか、渓流の水溜り付近には必ず五、六体かそれ以上の死体がうつ伏せになっていた。

p219
五十六キロ地点、四十キロ地点、三十一キロ地点の宿営地はバギオからの撤退部隊や邦人達が宿営したため、籔かげなどは荒らされており、草むらも、丸はだかとなってしまっていた。 (略) つい一か月前バギオからの先遣隊として北上したときは道路の両側は鬱蒼として潅木の茂みや深い籔陰などがあったが、今は見るかげもなく・・・・

p236
九十キロ地点から、バクロガンを経てカガヤン平野の辺縁キャンガンに行くには、北部ルソンの山岳地帯を東西に縫って流れるアシン川の渓谷に沿った険しい土人道を行かねばならなかった。 ・・・・トッカンバクロガンから此の土人道を二十キロほど奥地に入ったジャングル地帯にあった。

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上記のボントック道(ハルセマ・ハイウエイ)の21キロ地点や、その先のアトック(Atok)の交差点付近には 今も戦没者慰霊碑があります。
詳しくはこちらのページをご参照ください。
http://janl.exblog.jp/10662498/

次回は、終戦前に飢餓地獄となったイフガオの山奥の記述を拾ってみます。

 
 
 
 

 
 
 
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by janlbaguio | 2010-06-13 11:14 | History バギオの歴史
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