バギオの歴史コーナー - 戦時編 <その6>


この「バギオの歴史」コーナーでは、シリーズとして、「続 イフガオの墓標」 (宍倉公郎著 昭和55年 育英印刷興業 発行)からの抜書きをご紹介しています。

今回は ボントック道(ハルセマ・ハイウエイ)の90キロ地点から東に入った、イフガオの山奥、それも1945年終戦間近の日本軍、在留邦人の飢餓地獄の状況を拾ってみましょう。

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翌朝、九時、・・・トッカンに向って出発した。
(略)
道は次第に険しくなってきた。 天候の変化も急激となり、時おり横なぐりの雨に交じって暗黒な雷雲が吾々を押し包んだ。 目のくらむような稲妻と同時に、山も裂けるばかりの轟音で右に左に落雷し、四囲の山々もまた無気味に共鳴しとどろき吾々のどぎもを奪った。 それはあたかも、人跡未踏の聖地を血なまぐさい吾々の泥靴が犯すことを阻止するかのように思えた。
(略)
「山蛭だッ!」と二、三の兵が口ぐちに怒鳴った。 その声に、あたりを見廻すと、誰もが、頸筋から頬にかけて梅干大の黒い塊を四ツ五ツぶらんぶらん成らせて歩いている。
よく見ると血を吸った山蛭である。

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午後二時頃、吾々はトッカンに到着した。 ここは別称二RH(第二レストハウス)ともいうべき地点で、道端の比較的広くなっていた所は休憩所跡らしく、一坪ほどの土台跡らしいものがくずれ残っていた。 この道の四、五キロ先には三RH(この対岸が、後には山下軍司令部の終焉の地となった)、更に四RHを経てフンドアンからキャンガンに到るのである。

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ここは獰猛なイフガオ族の本拠である。 突然侵入してきたよそ者の吾々に対して憎悪にみちた目で、どこで毒矢の狙いをつけているかわからなかったし、そこから投槍が飛んでくるかわからなかったので、吾々は八方に目を配ってあたりを警戒しながら進んだ。
沢を渡り、崖を攀じ、谷に下り、ようやく広いコーヒー園のある土人部落に到着した。

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そんな或る日、私の病床に悲報がもたらされた。 ブギヤスでO軍曹やM上等兵らがイフガオ族の襲撃をうけて殺されたというしらせであった。 彼らは兵数名でブギヤスの山中にバボイ(豚)を徴発に行き土人小屋で酒盛りをしていたところを多数のイフガオ族に包囲され、防戦及ばず射ち殺されたものである。 S上等兵はその時、傍の深い渓谷に飛び込み、九死に一生を得てジャングルの中を放浪、二日後にへとへとになってようやく部隊にたどりついたとのことである。

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六月に入ると戦況は悪化していた。 西部戦線では優勢なる米軍に押された旭、盟兵団は三十一キロ付近の峠に後退し、虎兵団も九十六キロ付近の東方高地に退って激しく抵抗していたし、一方、東部戦線でもバレテ、サラクサク峠は撃、鉄、勤兵団の奮戦空しく六月一日遂に米軍に奪取された。 そして、敵機からは盟邦ドイツの敗北を告げる伝単(ビラ)がトッカン一帯に撒かれ、ベルリンの陥落が知らされた。
(略)
このような戦況の悪化と、食糧の極端な欠乏は、一部前線兵士の間に軍紀の低下をもたらせた。 そして、トッカン地区には戦線を離脱した兵による徒党を組んだ追剥が出没するようになったのである。
(略)
・・・それは連絡兵の持っている糧秣や装具、靴などが目的の狙撃であったが、飢餓の狙撃兵によるものは死骸の肉体まで喰われた。 彼等は三人五人徒党を組んで谷間やジャングルを根城とし、初めは行倒れの屍体の大腿部の肉を削いでとる程度であったが、次第に生きている者を狙うようになり、・・・・
(略)
“日本軍下士官にして、兵数名を率いて好んで邦人婦女子を喰べて歩く者あり、十分注意を要す” この頃、連絡会報に出されたもので、部隊の看護婦達は大恐慌を来たしたものであった。

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イフガオ州のキャンガンには 小学校の片隅に 山下奉文の写真などが収められた小さな博物館があります。
昔は家庭科教室だったというその小屋は、山下大将が1945年9月2日に投降した時の様子を示すものが展示されています。
その翌日9月3日に、山下大将はバギオのジョン・ヘイで 正式な降伏文書に署名したとされており、バギオでは その9月3日が記念日となっています。

次回 <その7>も、今回の「飢餓地獄」の続きを拾い集めてみます。
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by janlbaguio | 2010-06-20 23:57 | History バギオの歴史
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