バギオの歴史コーナー - 戦時編 <その8>


この「バギオの歴史」コーナーでは、シリーズとして、「続 イフガオの墓標」 (宍倉公郎著 昭和55年 育英印刷興業 発行)からの抜書きをご紹介しています。

今回は本文の最終回で、日本軍の武装解除、終戦の部分を読んで見ます。

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p285
(1945年)七月に入ると、勤兵団の死守していたキャンガン戦線が急を告げ、七月十日山下軍司令部は遂にフンドアンを引払って複廓陣地のほぼ中央付近の三RH(レスト・ハウス)の対岸に移動してきた。 七月中旬になると敗戦の様相は更に深刻となった。

バギオ当時、収容患者四千数百名を数えた、吾が第七十四兵站病院も、(略) 推定収容患者は二千名前後に減少していた。
(略)
即ち、このトッカンを中心としてブギヤスチノック、など数キロメートルの範囲に軍医一、二名、衛生兵、看護婦、患者が一グループとなって、(略) 分散してただ生活しているだけとなった。

薬品類はバギオ撤退の際、郊外のトリニダッドの橋が爆破され車両輸送が不能となったため、 (略) 三ヶ月も経たないうちに忽ちに欠乏し、治療不能に陥った。

p290
・・それらの屍体に交じって、大腿部の肉が削ぎ取られた屍体も四、五体転がっていた。
腐りかけた死体の顔や手足には大きな蝿がまっ黒にたかり、白い蛆がところかまわず這い回っていたし、死期のせまったものは群がりたかる蝿さえ追う力もなく、その手はいたずらに空間を払うだけで、死臭を嗅ぎつけた小さな赤蟻が鼻や耳の穴に忙しげに出入りしだしていた。

p292
雨がしとしと降る夜などは、瀬降りのある松林のあちこちに不気味に青白い燐が燃えていた。 (略) 異郷に行き倒れた無数の死霊の叫び声が聞こえてくるようであったーー
p303
やがて、一人が意を決したように火の中に投げ込むと、次々とそれは投げ込まれた。
(略) 内地から遥るばる持ってきた着物であろうが、(略) 飢餓と疲労の極限に耐え、食糧の足しにもならないものを、転進に次ぐ転進にこの険しい山の中を持ち歩いていた“女の逞しさ”と“着物に対する執念”に私は改めて驚異の目を見張ったのである。

p308
終戦という言葉を聞いても、それで生きて無事に日本に帰れるという手離しの安堵感は少しも感じられなかったからである。 それは、家畜や田畑を奪われたイフガオ族が、いつ襲撃してくるかわからなかったし、・・・・

p309
「武器を処分し丸腰になって集結せよ」との指示を受け九月十七日朝、吾々は小銃、弾薬、手榴弾類をひとまとめにしてコーヒー園のはずれに筵に包んで埋め、おりからのしのつく雨の中を万感をこめて工作隊を後にしたのである。

(略)

しのつくあめの中をバクロガンの米軍キャンプに向いトッカンを発ったのである。
それは昭和二十年九月十八日の朝であった。

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次回は、同書に収められた他の戦争体験者の文章から、当時のバギオ周辺の様子を窺わせるものをランダムに拾ってみたいと思います。

この本は、今までよんだ様々な戦記の中でも、バギオ周辺の当時の様子を一番詳しく書いてある本でないかと思います。

この抜書きを読んで、ご興味を持たれた方は、是非 同書を古書店などで手に入れられることをお薦めします。
アマゾンなどのインターネット書店の「古書」コーナーでも取り扱っている場合がございます。
(JANLのメンバーの方には 貸し出しを致します。ご連絡下さい。)
 
 
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by janlbaguio | 2010-07-04 22:39 | History バギオの歴史
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