バギオの歴史コーナー - 戦時編 <その9>


この「バギオの歴史」コーナーでは、シリーズとして、「続 イフガオの墓標」 (宍倉公郎著 昭和55年 育英印刷興業 発行)からの抜書きをご紹介しています。

歴史を紐解くことで、地元の方々との交流に 深みが増すことを期待しております。

今回は 同書の中にある 神山信雄著「病院の自活態勢と患者の練成」などの章から、当時のバギオの様子を垣間見てみましょう。

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神山信雄著「病院の自活態勢と患者の練成」の章より

p335
昭和十八年三月第七十四兵站病院がバギオ市に到着、ティチャースカンプに本院を、ガバーメントセンターに分院を開設した頃は、フィリッピンは平和郷であり、森の都バギオは桃源郷そのものであった。
(注:ガバーメントセンターは 今のバギオ・コンベンション・センター付近だったようです。)

p339
分院の裏には五〇米足らずの丘があった。 山の頂上から見渡す、バギオの町は美しく、ボルハンパーク(注:バーンハムパーク)、セッション通り、ハリソン通り、市役所が一望に見える。 この裏山には既に拡大な地下防空壕が構築されていた。

此の山上に神社の建設が開始されていた。 ・・・軽症患者の中より、大工、宮大工、製材者が選び出された。 
(略)
社殿、石垣、柵、表参道、裏参道、一の鳥居から三の鳥居まで建設され、流石の難工事も、昭和十九年三月八日完成した。 同日未明バギオ地区司令官荒木少将列席のもとに鎮座祭が施行された。
当時の模様をマニラ日系新聞は・・・・(略)
バギオ陸軍病院(注勿論兵站病院のこと)の白衣の勇士たちが勤労奉仕によって造営した「神明神社」は・・・・(略)・・・
バギオ市内の邦人も参詣し、勇士達の相撲や演芸なども奉納された。

p340
当時バギオ市及びその周辺には多数の邦人が居った。 市内では大商店を経営し、 トリヌダッドには多数の農業経営者が住んでいた。 日本人学校、日本人墓地はあっても、神社はなかった。


新藤多喜男著 「駿兵団参謀長の追想」の章より

p345
北部ルソン島のバギオという所は・・・(略)
さしたる豪壮な建造物がある訳でもないが、市街至る所に芝生と森や林があって緑滴る中に赤や青色の屋根の家屋が点在している景観は清潔な感じで立派な画題であった。 特に太い松の木が亭々と真直ぐにのびているのは格別我々には印象深いものであったが、それがすべて三本葉の親子松という珍しいものであった。 

(略)
バギオの私の宿舎はキャンプ・ジョンヘイという米軍駐留の跡であったが立派な独立家屋で、バラの垣根、広い庭、庭の先は急な千仞の谷でムクムクと白雲が谷底から昇り上がってくる素晴らしい所。 (略) バギオには山下方面軍直轄の兵器弾薬、自動車、ガソリン、被服食糧、衛生材料等の補給を担当するいわゆる補給諸廠や兵站病院などがあって一応駐屯司令官たる第百三師団(駿兵団)の指揮下にあった。


清水直子著 「比島山中の想い出」の章より

p375
そこには、フィリピンの国花サンパギータを始め、バラ、コスモス、アジサイ、ツツジ、カトレアなど、種々の花が次から次えと年中美しく咲いていた。
私たちの宿舎になった家には、日本趣味の庭園があって、赤い欄干の橋のかかった池には鶴の噴水があり中にあずまやが建てられていた。 その池には日本から持ってきたといわれるドジョウやフナが、フィリピン人にもドジョ、フナとよばれて泳いでいた。
(略)
聞くところによるとこの建物は独逸系親日家が建築したもので、庭園も家も日本より職人を入れて作ったと言う。 特に茶室は日本にあったものを分解この地に再建したそうである。
燈籠も所々にあり、池にはアヒルも遊び、全く日本の家の如くフィリピンにいる事を忘れる程であった。
(注: この家の雰囲気に似た古い大邸宅は かなり朽ち果てながら、今もバギオの某所にひっそりと残っています。)


石塚源助著 「緒戦時バギオ突入の想い出」より

p452
昭和十六年十二月八日未明、ハワイ方面の機動部隊が真珠湾攻撃を仕掛けていた頃、台湾上空には暗雲が垂れ込めていた。 そのため比島空襲を命じられていた第十一航空艦隊は予定の時刻になっても出撃することができなかった。 然し、第五飛行集団のいた佳冬飛行場は霧が薄れてきたので、ここから軽爆撃機二十五機、潮州飛行場から重爆撃機十八機が朝霧をついて比島攻撃の第一陣として午前六時二十分出発した。 この航空部隊はルソン上空に敵影を見ず、午前九時三十分ツゲガラオ飛行場及びバギオ兵営を爆撃した。
(注: この「バギオ兵営」と言うのは、バギオのキャンプ・ジョン・ヘイとされています。)

昭和十六年十二月二十四日、リンガエン湾上陸の一夜をアゴーで明かした私達は翌早朝、バウアンに集結していたビガン上陸部隊の菅野支隊をトラックに乗せていよいよバギオ攻略に向うべくアゴーを出発した。

p453
(略) バウアンに到着して、一個中隊ほどの歩兵を約二十台のトラックに分乗させ、重機関銃を運転台上に固定して敵状の不明なバギオに向って午前十一時頃出発した。

p454
道路破壊が何箇所もあったためナギリアンに二泊して、いよいよバギオを目指して・・・(略)

かくしてようやく二十七日の夕暮、バギオの辻に到着したが、夜目にもわかる松の並木のような処から、この町角が急に明るく見えました。 それは手に手に燈火を持った在留邦人の方々でした。 みんな涙を流して万才、万才と叫んで車のステップにとび乗ってきます。
(略)
一発の弾丸も射たず、叉、部隊は一兵も損せずそして援け出した日本人は五百人とのこと、 夢としか考えられない出来事であった。

p455
米比バギオ防衛司令官が無防備都市を宣言して日本軍入城前にほとんど撤退していたからでバギオは全然戦闘がなかったからであった。

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この回をもちまして、「続イフガオの墓標」からの抜書き、戦争当時のバギオ周辺の模様が描かれた部分の抜書きシリーズを終了致します。

バギオ散策の折にでも、ご参考にしていただき、今までとは違った視点で歴史探訪をしていただければ幸いです。

 
 
 
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by janlbaguio | 2010-07-12 22:19 | History バギオの歴史
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