バギオの歴史 : 郡司忠勝著より その1

「思い出はマニラの海に」郡司忠勝著 三月書房
(1993年発行)

この本を著した郡司忠勝氏は、1935年に南洋協会比島派遣第一回
商業実習生としてフィリピンに渡った。
戦前のバギオで最大級のデパートとされたジャパニーズ・バザーで働き、
北部ルソン日本人会会計役を務め、戦時下では、野戦貨物廠嘱託、
米穀管理協団会計監督官となり、1945年太平洋戦争の終戦により
強制送還された。

著書のタイトルは「マニラ」の名前があるものの、この本には当時の
バギオ周辺の様子を描いた記述が多々みられる。

バギオの歴史を学ぶために この本からの抜書きを紹介したい。
(注:  )はブログの管理人が付け加えております。

尚、この書籍はインターネット書店では「在庫なし」「出版社から取り寄せ」
などとなっていますが、絶版ではないかと思われます。
アマゾンでは「中古品」として取り扱われているようです。

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p13
地獄絵のような戦いの繰り返しが終わったとき、還る道を失った
幾十万の精霊が北ルソンの山野を彷徨った。

p30
下車駅のダモルティスでのバスの乗り替えの・・・
クッションのない木製の座席に馴れない尻が痛かった。
(注: 鉄道のダモルティス駅はバギオの登り口にあるロサリオ
    西の海岸線にあった。)

p31
この駅から出るバスはベンゲット・オートライン社のバギオ行き
直行便で、・・・。 (マニラからの)八時間ばかりの汽車の旅は、・・・。

p33
海に近いダモルティス駅からロザリオまでの道は、舞い上がる砂塵で
先を行くバスが見えない。
・・・・ やがてアグノ川の鉄橋を渡ると、うっそうとしたロザリオ
の森に入る。 ベンゲット・ロードの急坂はもうすぐ目の前からはじまる。
・・・・標高1,500米にある高原都市バギオに至る急坂45キロ
の九十九折りの難道である。


p35
工事を終えた後の日本人労働者は、一部の人たちがバギオに残留して
商業を営み、またバギオの北方四キロほどのラ・トリニダードで農耕を
するようになった。・・・・・
バギオの日本人墓地に建つ<先亡同胞之墓>は当時を物語っていて、
ベンゲット・ロードはフィリピンにおける日本人移民史に、忘れることの
できない犠牲と建設の歴史となった。
(注: 1905年1月に開通したベンゲット・ロードは現在はケノン・ロード
    と呼ばれている。叉、日本人墓地は現在のバギオ市営墓地の
    一画にある。)

p38
道幅の広いセッション・ロードをゆるやかに下る。静かで清潔な街並みで
ある。 ジャパニーズ・バザーは坂のなかほどにあって、白壁の大きな
二階建ての建物である。
・・・明るい内窓を背にして中央に店主の早川さんの机があり・・・
(注: このジャパニーズ・バザーの場所は、現在のPRIMEホテル
    の右側辺りとされています。)

p44
1935年ごろのバギオは人口二万に満たない避暑地で、欧米風の
住宅が色とりどりの緑のなかに点在する箱庭のような町であった。
・・・・
バギオとはこの山岳地帯に住むイゴロット族の<ベギウ>が語源と
いわれ、暴風雨とか嵐という意味だそうである。
(注: これ以外に「苔」という意味だという説もある。)

p45
ラ・トリニダードの邦人農園でも、台風過ぎを待っていっせいに農作業
をはじめる。 ここでは山梨県出身者が多い。

p46
クリスマス・シーズンは・・・・・
イブにはパレードが街を練り歩き、夜は市の主催する野外ダンス・
パーティがシティ・マーケットの広場で催される。
 
 
 
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by janlbaguio | 2011-01-17 23:01 | History バギオの歴史
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