バギオの歴史 : 郡司忠勝著より その2


思い出はマニラの海に」郡司忠勝著 三月書房より抜書き

(注:はブログ管理人のコメントです。)


p49
バギオはさながら夏季の首都の感を呈する。 別荘やホテル、それに
ロッヂまでも満員となって、英語やスペイン語がこの小さな町に
氾濫する。 ・・・ケソン大統領がトレード・マークとなった白の
乗馬姿で、手の鞭を軽く振りながら令嬢と朝の散歩を楽しむ姿は、
この町ならではのことである。
(注: バギオは別名サマー・キャピトルと呼ばれ、夏の間は
    マニラの首都機能をバギオに移していました。)

p50
避暑客は一度は必ずといってよいほどジャパニーズ・バザーを
訪れる。 ジャパニーズ・バザーはバギオを代表する店の一つで、
ミニ・デパートといった構えで、薬局から自動車部品まで、一般雑貨
からスポーツ用品、楽器、呉服、酒類、貴金属に時計や写真機、
靴それに写真スタジオなどと、食料品と機械類を除いてはほとんど
この店だけで用が足りた。
(注: 当時のセッション・ロード周辺には多くの日本人経営の店が
    立ち並んでいました。)

p59
(ジャパニーズ・バザーの)西側はフォート・スタジオで、
その下には暗室と作業室があり、それにつづいて写真部長の
古屋正之助さん、副支配人の秋吉さん、・・・の住宅が噴水の上がる
中庭を中心にして囲むように棟つづきで建っていた。
(注: この古屋正之助さんは、古屋英之助さんの御父上です。)

p65
ダモルティスはマニラから北サンフェルナンドに至る鉄道の駅の
一つで、山岳の町バギオへ上るベンゲット・ロードの乗り継ぎ地点で
ある。
・・・・両親とともにバギオに住み、日本人小学校へ通学した。
(注: 北サンフェルナンドはラ・ウニオン州の州都のサンフェルナンド
    である。日本人によって南サンフェルナンドと呼ばれたのは
    パンパンガ州のサンフェルナンドである。
    この当時、バギオには日本人小学校があった。
    小学校の跡はマグサイサイ通りの緑色の門だけとなっています。)

p70
シティ・マーケット広場の東裏通りに富士ホテルがある。
市内の会合に、また山奥で働く木材業者や金山会社の邦人が
おもに利用していた。
(注: 現在のピープルズ・パークの東側付近と思われる。)

p72
サント・トーマス山はバギオの南方に位置する標高1,000米の
峻峰である。 山頂からはコルディレラ山脈に連なる山々の嶺が見え、
遠く西方にリンガエン湾がひらけていた。
山頂には石室があって風雨がしのげ、ご来光を拝むにはかっこうの
場所と邦人間の評判がよかった。
(注: サント・トーマス山の標高は1,000米ではなく
    2,000米です。)

p80
1941年(昭和16)十二月八日、・・・・
西の空から爆音が聞えた。近ごろになってバギオの空に時おり
訓練機が飛来したが、今朝は音も様子も何となく違っていた。
私は脚立の上からジョン・ヘイ米軍基地の方角へ一直線に丘をかすめて
飛んで行く数機の黒い影を見た。異質の爆音が重く耳に残った。
再び私が目をガラスにうつした途端、遠くで数回の爆発音がして、
部厚い大きなウインドのガラスがぴりぴりと波を打った。
・・・・ 二十分ほど経ったころ、街中が騒然となって顔見知りの
警官が緊張の顔付きで店に飛び込んで来た。
「日本人は一歩も外出せずに、次の指令を待て」と外出禁止令を告げ、
日本人会長の早川さんに、命令の徹底と自重を促して足早に立ち去った。
(注: これがハワイのパール・ハーバーの奇襲と同日に行われた
    日本軍によるフィリピン攻撃の開始です。)
 
 
 
 
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by janlbaguio | 2011-01-18 21:47 | History バギオの歴史
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