バギオの歴史 :   郡司忠勝著より その3

思い出はマニラの海に」 郡司忠勝著 三月書房より抜書き

(注:はブログ管理人のコメントです。)


p81
嗚咽のうちに、夫のジャクソン氏が(ジョン・ヘイ)基地内のゴルフ場で
プレーの最中、日本機の投下した爆弾で大怪我を負ったと涙のなかで語った。
(注: バギオのキャンプ・ジョン・ヘイで戦争が始まり、同じジョン・ヘイで
    山下大将は降伏文書に署名している。)

p82
東京からのラジオはしきりと日米開戦のニュースを強い口調で報じていたし、
サン・フランシスコからは激しい言葉が電波に乗って飛び込んできた。
すでに在留邦人は資産の凍結を受けて、不自由の生活を余儀なくされて
いたが、・・・


p82
午後四時ごろ、警察の命令で在留邦人は身回り品のトランク一個を手に
指定された近くの集合場所に集まった。そこからトラックでロクバンの
日本人小学校に一時収容された。
(注: ロクバンはバギオからラ・トリニダッドに行く途中の地区。
    昭和11年に バギオ日本人小学校は バーンハム公園の一角
    から、このロクバンに移設された。)

p82
ジョン・ヘイ米軍基地に入る。フィリピン国家警察隊の隊員が武装で
哨戒に当たっていた。米軍兵士はすでに移動したと見えて、一人も目に
止まらなかった。・・・・暗くなった。 ・・・押し込めるだけ押し込まれた
私たちは、暗やみのなかで先ず腰を下ろし、両手で膝を抱えた。
体が触れ合っても足も伸ばされない。
(注: キャンプ・ジョン・ヘイは 日本人収容所となりました。)

p88
12月25日午後、ついに日本軍の先遣隊と連絡がとれたとの記念すべき
第一報が飛び込んだ。
(注: 日本軍はナギリアン・ロードを通ってバギオに入りました。)

p89
先遣隊の無血入城となったバギオに、翌日からどっと戦闘部隊をはじめ
通信隊、特務機関、憲兵隊、軍政部要員などが競うように入城してきた。

p103
その日のバギオは朝からうわずっていて、ぎこちない挨拶からはじまった。
去る日、日本軍のキャンプ・ワン分哨を襲って全滅させたというゲリラの
処刑される日なのである。 ・・・処刑場所となった町の中央のシティ・
マーケット広場
に多くの市民が集った。
・・・トラックが到着し、中から後ろ手に縛った五人のゲリラを引き下ろした。
(注: この著書には その時の詳しい様子も描かれています。)

p109
市内を一望できるバギオ大聖堂の丘から、市内中央をゆるやかに下る
セッション・ロードはバギオ唯一の目抜き通りで、台湾銀行はその道の
はじまりにあって大聖堂がすぐ目の前にあった。
この台湾銀行の前を通って枝道の一本道を行くと、バギオ第一のホテル
パインス・ホテル>がある。 今は軍政監部に接収されて<松雲閣>
と名を変え、軍関係者の宿泊施設や兵団の高級将校の夜のクラブと
なっていた。
(注: このパインズ・ホテルは 今のコーディリエラ大学の場所にありました。
    台湾銀行の場所は セッション通りとガバナーパック・ロードの角の
    あたりかと思われます。)

p127
1943年(昭和18)・・・(十月)14日にはフィリピン共和国が
成立した。 ・・・フィリピンの独立とともに開設されたバギオ領事館は
市庁舎の丘の一隅にあって落ち着いた建物である。

p128
泥鰌(どじょう)はマウンテン・バザー<永富商店>の先代が遠い日本を
しのんで気候、風土の似たこの地に桜や果樹を植え、それに鯉などとともに
取り寄せたものだそうで、いまでは北部ルソンの山地や水田地帯まで
広がって、土地の人からは日本語そのままに<ドジョ>とか<ナガトミ・
フィッシュ>と言われて・・・・
(注: 当時植えられた桜が 今も残っているという情報はありません。
    専門家によれば、沖縄近くで育つ種類の桜でなくては
    バギオの気候では難しいようです。)
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by janlbaguio | 2011-01-19 21:43 | History バギオの歴史
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