バギオの歴史 :   郡司忠勝著より その4


思い出はマニラの海に」  郡司忠勝著 三月書房より抜書き

(注:はブログ管理人のコメントです。)


p138
邦人青年の現地徴兵のための検査に立ち会うため、兵団徴兵官に随行して
北部ルソン一周の旅に出た。 ・・・バギオ在住の二世たちも含めて、
三十名ばかりの邦人青年が3日間の特訓を受けた。
・・・・マンション・ハウス(総督官邸)の人工池では胸まで水に浸かって
渡河訓練をした。
(注: マンション・ハウスは夏の大統領官邸にもなりました。
    マルコス大統領が失脚した後は、廃屋状態になりましたが、
    その後観光名所になっています。)

p147
(バーンハム公園の)周囲の丘陵には市庁舎をはじめ士官学校、大聖堂、
国立総合病院、大統領別邸、公会堂、ホテル、別荘などが箱庭のように、
緑のなかに色とりどりの色彩で点在していた。
池をめぐって小さなゴルフ・コースがあり、ローラ・スケート場、テニス・
コートや華僑の青年たちがよく遊ぶサッカー広場などもあった。
(注: 士官学校は現在はPMAとしてロアカン空港の隣にあります。
    国立総合病院は現在のBGHバギオ総合病院かと思われます。)


p148
池の南側の芝生のなかに緑色の公会堂がある。
・・・公会堂から池に沿って西に歩くと、公園のはずれに木造二階建の
小さい建物が目につく。 いまは共同住宅になっているが、かつての
日本人小学校である。・・・・・新校舎の建設が進んでいた昭和十一年
十月、村井熊雄校長が家族とともに赴任してきた。三十歳を出たばかりの
若い校長は長崎県出身の九州男児である。
(注: 元々バーンハム公園の西隅にあった日本人小学校は
    新校舎の完成に伴って ロクバンに移りました。)

p151
バギオ大聖堂の裏手の丘を左に下りて行くと小さな森がある。
その森の中を曲がりくねった一本の細い道が通っている。 いくばくも
なく木造二階建の大きな建物に行きあたる。 それがノートルダム病院である。  ・・・カトリック教系の病院で、・・・・病院の中庭には
小さな礼拝堂と聖母マリヤ像が立っていた。
(注: 森があったところは現在はセントルイス大学附属高校辺りか。
    ノートルダム病院は現在のバギオ大学の隣にあります。)

p164
海抜1,500米のバギオから一気にラ・ウニオン州のバワンに下るこの
ナギリアン道は、かつてロング・ビーチの海岸によく遊んだ道である。
・・・やがて山を下りきった報道車は急造の小さな飛行場のそばを通る。
・・・小型の連絡機が一機忘れられたように片隅にあった。
ここまでくればもうバワンである。 北・サンフェルナンドまで
南へ約10キロの道のりである。
(注: バワンからサンフェルナンドまで「南へ」と書いてあるが、
    これは「北へ」の間違いではないかと思われる。)

p165
(サンフェルナンドで)・・・私を見ると
「なんだ、まだ来るのがいるのか」とあきれ顔である。
「早く逃げろよ、アメリカが来るぞ。」
と背の高いほうが、足早に通り過ぎながら言った。
「マニラ行きの連絡車が十九時に着く、それが最後だ。」

p166
敵に追われて砂浜に乗り上げたと見える日本の貨物船が二つに裂けて
船首を高く青空にもたげていた。 日の丸の船体に鉄錆が浮き、汚物が
波に洗われていて哀れであった。
(注: ラ・ウニオン州のサンフェルナンドの港は、日本軍が最後に
    上陸した地点となり、アメリカ軍の再上陸前には多くの
    日本艦船が沈められた。)


p173
マニラを捨てた方面軍司令部は年の改まった昭和二十年一月三日
山岳都市バギオに移転した。 日本軍の戦況は悪化の一途をたどり、
南部の島々を攻略した米軍のルソン島上陸は、早時間の問題となっていた
ようである。

p174
一月七日、リンガエン湾深く進攻した米艦隊は北・サンフェルナンド
一帯を猛砲撃し、九日には上陸を敢行した。


p175
B24の<じゅうたん爆撃>でカバナツアンは瞬時にしてこの世から
消え去った。 振り返りもせずに飛び去った敵機のあとには、阿鼻叫喚の
地獄絵だけが残った。 ・・・死体がごろごろと転がっていた、
首が離れ、手足が散らばっていた。 そのなかを私は方向も分からぬまま
同じ流れに乗って走った。
「へいたいさん、連れていって・・・」
道端で懸命に助けを求める日本女性の声がした。・・・・・
(注: カバナツアンはターラックの東にあり、ヌエバ・エシハ州の
    都市である。)

 
 
 
 
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by janlbaguio | 2011-01-21 11:54 | History バギオの歴史
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