ハリソン通りを 今のコーディリエラ大学(University of the Cordilleras)の
方へ登って行きましょう。
途中には、ハリソン通りからセッション通りへ ガソリンスタンドから斜めに
登っている道がありますが、それを左に見ながら真直ぐ行きます。
これは 戦前の「パインズ・ホテル」を バーンハム公園側から見た
当時の絵はがきの写真です。
これも同じく、戦前のセッション通りを描いた絵はがきの写真です。
この絵の中で、右上に描かれている建物が 「パインズ・ホテル」です。
ちなみに、この絵はがきは、当時のセッション通りにあったジャパニーズ・バザーで
20枚1組で販売されていたものだそうです。
これから判断すると、手書きの地図にあるように、戦前のPines Hotelは
今のコーディリエラ大学やその隣りにある選挙管理委員会(COMELEC)の敷地の
辺りにあったことが分かります。
「思い出はマニラの海に」という本があります。
この本は当時の北部ルソン日本人会の会計役であった郡司忠勝氏が
書かれた本で、ジャパニーズ・バザーで働いていた時の思い出や、
戦前、戦中、そして敗戦のことなどが詳しく描かれています。
パインズ・ホテルは1920年代にアメリカが建設したそうですが、
この本の中に、以下のような記述があります:
「(セッション通りの一番上から)台湾銀行の前を通って枝道の一本道を
行くとバギオ第一のホテル<パインズ・ホテル>がある。
いまは軍政監部に接収されて<松雲閣>と名を変え、軍関係者の
宿泊施設や兵団の高級将校の夜のクラブとなっていた。」
戦時中のバギオを知る、当時小学生だった日本人の方の話では、
この松雲閣に 宝塚歌劇団か松竹歌劇団の女性たちが軍の慰問に
来たこともあったそうです。
このバギオ一番の高級ホテルも、戦火の中に焼失しました。
そして、戦後に再建されたのですが、その場所は 今のSMバギオのある
場所に移っています。
戦後生まれの地元の人たちの間でさえ、この歴史はあまり知られていないようで、
ほとんどの人たちが 「パインズホテルは 今のSMバギオの場所にあった。」
と言います。
しかし、SMの場所に再建された名門ホテルのパインス・ホテルも
1984年に火災で焼け落ち、多くの宿泊客が犠牲になったとのことです。
この戦前の二つの絵はがきから 戦前のバギオの姿を見ると、
セッション通りの一番上に現在建っているSMバギオの辺りは
一面の松林であったことが分かります。
では、次回 その5では、コーディリエラ大学から バス・ターミナルを
抜けて、SMバギオの下の交番辺りから セッション通りを下って行きましょう。
その5は
こちら です。