カー・マガジンに バギオと日本人の関わりが



去る3月にトヨタ・プリウスのテスト走行をするチームが
バギオを訪問。
フィリピンの自動車専門誌「トップ・ギア」のスタッフが
バギオ在住の日本人や日系人に戦前のバギオと日本人の関係、
そしてその歴史を聞き取りました。

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「JAPAN IS BACK!」というタイトルの5月号は
日本車復活を特集した内容。

その中に、バギオと日本人の関わりが掲載されたのです。
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(写真の上でクリックすれば拡大できます。)


ベンゲット道路の建設は1900年に始まり、その責任者
はアメリカ人のライマン・ケノンでした。 彼は様々な国籍の
2,000人以上の労働者を雇い・・・・
フィリピン人がその多くをしめていましたが、その次には
日本人のグループがいたのです。 彼らの多くはマラリアや
事故で死亡しました。 しかし、生き残った日本人たちは
結局バギオに定着したのです。 セッション・ロードの
初期の写真は多くの店が日本人の経営であったことを
物語っています。」


ブレント・インターナショナル・スクールのキャンパスでは、
「この場所は、日本占領時代には日本帝国陸軍の主たる病院
だったのです。・・・ルソン島の中だけではなく、アジア
太平洋地域の全域の中での中心的病院だったのです。
歴史の本には、負傷した日本兵たちは日本へは送られず
バギオへ移送されたと書いてあります。それは、日本国民に
負傷兵の数を知られないようにするためだったのです。」


そして、カーサ・バリエホという歴史的ホテルでは、
「カーサ・バリエホも戦時中に日本陸軍によって利用されました。」

このチームは、日系人団体のアボン会館も訪問し、
北ルソン比日基金事務局長から 日本人、日系人の歴史を
聞き取っていました。
「アボンのエスカニオ事務局長から鮮明な戦争の話を聞いた後、
我々は戦争の恐ろしさを今に伝える70年代に建立された
日本平和公園を訪れた。我々にとって、胸の痛む、感動的な、
そして驚くべき午後となった。」
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(この写真の左下に 日本平和公園(日本庭園)の慰霊碑が写っています。)


このトヨタ・プリウスのチームがバギオを訪れることに
なったのは「山下財宝」の話が冗談で出てきたことが
発端だったようです。

しかし、この文章の最後には このようにありました:

「それで、山下財宝はどこにあるのだ? この言葉の響きが
安っぽいものであるように、本当の宝物は我々の過去に関して
我々が持っていた様々な物語にこそあるのです。
もし幸運であれば、その当時にその場所に居た人たちから
このような話を聴くことが出来るのです。
歴史の意味というものはどんな財宝の値打ちよりももっと
貴重なものなのです。」

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(当時のベンゲット道路は 今はケノン・ロードと呼ばれています。)


 
 
 
     
     
     
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by janlbaguio | 2012-06-01 03:07 | History バギオの歴史
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