バギオ歴史探訪シリーズ (10)  市役所周辺

このお話は、戦前のバギオ日本人学校で、当時小学生であった写真家の古屋様から
の情報を元にしております。

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この写真は、右側の建物がバギオ市役所で、左は歩道橋です。
この青空・・・戦時中の古屋様のお話です。

1941年12月8日、バギオ市のジョン・ヘイに 日本軍の爆弾が投下されました。
その時、バギオ日本人学校で授業中だった子供たちは、先生たちから何も
知らされず、ただ親が学校に来るのを待つように指示されたのだそうです。

その当時 日本人会の会計担当であった郡司忠勝氏の著書「思い出はマニラの海に」
には次のように描写されています:

「西の空から爆音が聞こえた。 近ごろになってバギオの空に時おり訓練機が飛来
したが、今朝は音も様子もなんとなく違っていた。 ・・・ジョン・ヘイ米軍基地の方角へ
一直線に丘をかすめて飛んで行く数機の黒い影を見た。 ・・・・
遠くで数回の爆発音がして、分厚い大きなウインドのガラスがびりびりと波を打った。
・・・二十分ほど経ったころ、街中が騒然となって・・・・」

しかし、当時ロクバン地区にあった日本人学校に居た古屋さんには、その爆撃
の音は聞こえなかったそうです。

そして、その時から、日本人学校は「日本人収容所」となります。
その日の夕方、日本人が溢れた小学校から、男たちは、ジョン・ヘイの中に作られた
別の収容所へ移されます。


1941年12月25日午後、日本軍がバギオに入城します。
収容所から解放された日本人家族は、当面の居住のためにホテルなどに入った
のだそうです。

その時、古屋さんの家族が泊まった場所かここだったのだそうです。
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バギオ市役所のすぐ前にある この保険会社の建物。
ここに 古屋さんの家族が一時的に入ったホテルがありました。

そんなある日、古屋少年がホテルから外に出て、市役所の方角の青空を眺めて
いると、そこに一機の日本軍の戦闘機が 低空飛行で現れます。

古屋少年の目に 戦闘機の日本人パイロットの顔が はっきりと見えたと言います。
そして、思わず 古屋少年は ペコリとお辞儀をしたそうです。

すると、そのパイロットは、古屋少年に戦闘機の中から 敬礼を返してくれた
とのことです。

・・・・

1944年9月21日、アメリカ軍機およそ500機による マニラ大空襲。

1945年1月、 古屋少年の家族は、バギオを抜けだし、ラ・トリニダッド、ハルセマ道路の
21キロ地点を過ぎる辺りまでバスで避難。 
その後は徒歩で、 山下道路 - ソラノ - キャンガン まで、おおよそ1ヶ月かかって
移動したそうです。

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その ラ・トリニダッドでは、今のベンゲット州の州庁舎のすぐ斜め前に川があって
橋が架かっているのですが、この橋が米軍の集中的な砲撃、爆撃を浴びて
破壊され、避難する日本人がばたばたと倒れ、死体が累々としていたそうです。
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その後は、キャンガンからアシン河沿いに上流へ向かい、北西の「バクダン」と呼ばれる
村の辺りから、さらに北西の方面で、アメリカ軍による爆撃からの逃避行を繰り返す
毎日となったのだそうです。
この周辺には、マニラから逃げてきた日本人が多く、 バギオからの避難組は
キャンガンから南西方面の「ホヨ」という名前の村周辺に多かったそうです。











 


   
    
   
    
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by janlbaguio | 2012-09-27 15:52 | History バギオの歴史
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