Rudy Furuya "Home" (ふるさと) 古屋英之助 個展

古屋英之助氏の個展 「ふるさと」 が以下のとおり開催されます。

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期間: 2013年8月17日ー9月15日
会場: BenCab美術館 (バギオ市アシン・ロード)


パンフレットを以下に掲載します。(一部を下に翻訳しております。)

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上記の一部を以下に翻訳しております:

写真展のパンフレットより:

ルディー・フルヤ(古屋英之助)は1933年11月にバギオ市で生まれ、
第二次大戦が1941年に勃発した時にはバギオ日本人学校の生徒でした。

1930年代にバギオで成長し、バギオ市が高原の首都として栄え、またベンゲット州
の短い探鉱ブームの中心地であった頃の当時を身を以って知っています。

幼いルディーにとって、その当時、バギオ市全体が彼の遊び場であったことは純粋に歓びでありました。 セッション通りからバーンハム公園の一帯は、彼のご近所だったのです。
数十年の後も、その子供の頃のふるさとバギオでの楽しい思い出は、今でも彼を慰め、心を暖めてくれるのです。

1945年の終戦の時に、家族が日本へ送還された後も、ルディーにとって、バギオを
離れることは母親から引き離されるようなことであったのです。
「バギオが私のふるさとなんです。 日本には私のふるさとはないのです。」

幼い頃のバギオの想い出は、ルディーの心に深く刻まれ、芸術家・写真家としての
彼の現在の感受性の重要な一部となってきたのです。

ルディーの心は決してバギオを離れることはありませんでした。 ですから、横浜の
彼の窓から、彼はその月を見上げ、そしてその夕刻の空の鏡の中に、彼はそのふるさとを
観るのでした。 そして、ふるさとを偲ぶ時にはいつも、痛むような哀しみがつきまといました。 - しかし、有り難いことに、ふるさとバギオに戻ってくると、それが癒されるのでした、たとえそれが心の眼の中のことであっても。

月を観ると、いつも、ふるさとバギオへ戻ることができるのです。



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英之助(ロドルフォ フランシス)古屋は 1933年11月に バギオのノートルダム
病院で生まれ、第二次大戦の終戦の時にはバギオ日本人学校の生徒でした。
父、古屋正之助、は1910年代にマニラに着き、フィリピン大学の美術科に在籍しました。  1920年代、古屋一家は、セッション通り沿いに住み、正之助はパイン・スタジオのマネジャーとして働きました。 1930年代、一家はバラトック鉱山に住み、そこでゴールデン・ライト・スタジオを開業しました。

1945年の初期に連合軍がバギオへの爆撃を始めた頃、古屋一家は決断し、ほとんどの民間の日本人と一緒に、バギオ市から日本帝国軍の北方への避難に加わりました。
その危険極まりない逃避行の間に、ほとんどのバギオの日本人はベンゲット州やイフガオ州の山々の中で、病気や飢餓で亡くなりました。 古屋一家を含む生き残った人たちは、米軍に投降し、戦争捕虜となりました。 そして、1945年の終わり頃に、日本へ送還されました。

ルディー古屋は、父の例にならって、芸術家・写真家の道を歩きました。 彼は東京と横浜で商業写真家となりました。

1990年代に、ふるさとバギオへの旅を始めました。 旧友に会い、子供時代の場所を訪れ、そして、彼のアートの新しい方向性を見つけたのです。 彼は横浜から、単独で小さなニューズレター「パンデサール」を発行しました。それはバギオ日本人学校の同窓生家族に送られました。 

以下、省略

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又、上記の個展以外にも、グループ展として、以下の写真展が開催されます。
戦前のバギオ市の写真、葉書などが一堂にかいして。

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期間: 2013年8月24日ー11月17日
会場: メリノール・エコロジカル・サンクチュアリー
     (バギオ市カンポ・シオコ - マルコス・ハイウエイ沿いにあります)

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by janlbaguio | 2013-08-12 21:16 | Neighbers ご近所情報
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