「図南遊記」 に見る100年前のフィリピン・バギオ市 

「図南遊記」 に見る100年前のフィリピン・バギオ市 

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梶原保人著 民友社 大正2年(1913年)発行の「図南遊記」は、
当時の台湾新聞(日本語新聞)の主筆であった筆者が、植民地経営の実際を
見て廻るために東南アジア諸国を旅した見聞録であるようです.
(尚、同書の本文は当時の古い漢字、文体であるため、下記の引用は
 漢字などがことなる表示となっているものがあります. ご了承ください.)

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なんと この本の「序」には、新渡戸稲造が

「南方経営に着眼するもの輩出するに至らば・・・・」と寄稿しています.
当時の欧米諸国の植民地支配から学ぼうとする世相が見えるようです.
ちなみに、この本の発行の翌年1914年 第一次世界大戦が起こり、日本も参戦しています。
又、日清戦争は1894-1895、日露戦争が1904-1905に起こっています.
なお、日本の植民地として台湾が1895-1945、 韓国は1910-1945と、
この本の当時はすでに日本が統治していました.

ここで、著者が シンガポール、ジャワ、マレー半島、仏領インドシナ、フィリピンを
1912年9月から視察したことが述べてあります.

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この本は台湾から香港へ行くところから始まり、の第七章にフィリピンの記録があって、
その一部にバギオ訪問時の記事がありましたので、ご紹介します.

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第七章の第六節 「比島の大避暑地」というところが バギオ市について書いています.
避暑地というものに対する日本の一般的な考え方は 贅沢であるとの背景が
あったようで、それに対し著者は 植民地経営にとっては なくてはならぬものである
と意見を述べています.



ここからバギオ市関連の部分を拾い読みしてみましょう.
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p414
マニラからダバン迄、約百二十里の間は、西班牙(スペイン?)時代より汽車が
運転したので、呂宋中最も進歩したる地域である・・・

(120哩というのは 193キロ・メートルであるので、ダバンとは ダグーパンのことか?)

パムパンガ州は、呂宋糖の産地で、その製品はネグロス糖に及ばず、
多くは島内需要に供給せらる、
アンゼルス及びフエルナンドは同州の首都にして、砂糖の中央市場たり・・・

(アンゼルスは アンヘルス、フエルナンドは サン・フェルナンドと思われる)


走ること四時間にして、山や岡が近づき、荒蕪地もあったが、
要するに鉄道沿線は、殆んど開墾されて居る・・・・

汽車はパムガシナン州に入ったので、同州の一港サンーファビンより分岐して、
バギオ道に入り、午後三時十五分 キャンプ ワンに着き
、此処で降りた、・・・


(p413に 一月二十五日午前六時二十五分の汽車に塔じ、視察の途に就いた、
 同避暑地は、イゴロットと称する蕃族の生息する山中にありて、
 バギオ避暑地と称す・・・とあるので、 マニラからバギオの麓まで
 9時間ほど掛かっている計算になります.)

(キャンプ・ワンは CAMP1で、ベンゲット道路を建設するときの飯場が山の麓から
 山上のバギオへいたる沿線に キャンプ1から8まであったことの名残です)


p415
弁当売りは現れず、同乗の米人なども土人のパンを買って、・・・僕等も
十銭を投じて、土人パンを買ったが、非常の美味で、頭大のパンを喫し・・・

マニラのトンド停車場から、キャンプ・ワン迄 百四十三哩・・・

(マニラは あのトンドから汽車が出ていたんですねえ・・・143マイル=230キロ)


汽車から降りれば、左側に一等、二等、三等の自動車が、三台、ブッブ・・云って
待っている、僕等二人の外に、米人六名、それに駅長と自動車の運転手、
・・・駅長は米人、運転手は土人である、・・・

川に沿うて、山の麓に設けられた、完美なる道路を疾走し始めた、
是が即ちベンヂット道と称して、比律賓政府が多大の経費を惜しまず、
絶大の困難を排して、開墾した所の有名な道路である・・・・

(ベンヂット道は ベンゲット道のことで、現在はケノン・ロードと呼ばれています)



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p416
開墾後も、渓は急流で、山はxxxxとして居るから、一旦雨降らば、渓流は、
猛烈なる威勢を以て、山壁を削り、巨岩を転ばし、橋を流し、道路を損ずるから、
其の維持には、年々多額の経費を投じているが、・・・・・

・・・恰も名門富豪の、奇麗に掃除された門内を歩く如うである、
注視すれば、到る所に掃除人夫が居って、掃除又は修繕を仕て居る・・・・


(当時のベンゲット道路のメンテナンスの難しさを語っている部分ですが、
 地盤がもろいため、現在でも台風や大雨の時には落石や崖崩れなどが
 発生しやすいため、たびたび通行が制限されることがあります)


道路の完美なるは、特に此の避暑地の山道のみならず、比島到る所然りで、
マニラ附近の田舎道でさへ、東京、大阪の道路より、遥かに優良で、自動車でも
馬車でも、ガタっとも音する様な事なく・・・・・


実に難路で・・・運転手がモートルの運転を一分間違ふれば、乗客は自動車と
ともに粉のように砕るるのだから・・・恐ざるを得ぬ

(ベンゲット道路=ケノン・ロードの険しさと運転の難しさを語っています)


此の辺は、全山悉く松林で、恰も日本の山を見る様な思が為る、・・・

(バギオ市は CITY OF PINES 松の都 とも呼ばれていますが、
 ほとんどの日本人が このような感慨を抱くのではないでしょうか)


p417
汽車を降りたキャンプワンから、此所まで三十二基即ち約二十哩半で、
午後六時、松林館と評するホテルに投じた.
パイン・ホテルに着き、僕が便所に行く時、日本の浴衣を着た婦人を、
チラと見たので、嬉しくて堪らず、部屋に帰って、さうと東郷君に告ぐれば
馬鹿云へ、そんな者が此の山奥に居るものか・・・・・


(二十哩半 = 二十・五マイル = 33キロ・メートル)
(当時も バギオに日本人が住んでいるというのは 知られていなかったんですね・・・
 今もバギオという都市の名前すら、日本ではあまり知られていないようですけど)


(ここで松林館と書かれているホテルは、 PINES HOTEL という当時最高級の
 ホテルとして知られ、アメリカ人が建てたそうです.
 第二次大戦当時、日本軍によって統治されていた時代には、
 日本軍の将校などが集うクラブのような場所となったと別の本にありますし、
 当時バギオに住んでいた日本人の記憶によれば、SKDのような日本の少女歌劇団
 が日本軍の慰問に来たこともあるそうです)


(また、このパインズ・ホテルは、戦前は 今のUC大学・選挙管理委員会事務所辺りに
 あったものが 戦争中に焼失し、戦後に 今のSMバギオの場所に再建されたようですが、
 それも火事で失われたそうです)


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p418
該旅館は、客室五十を有し、青々たる松林の際に建てられて下に掌大の平地あり、
向ふには丘陵起伏して、人家点在す、此所は夏期の都なれば、今や旅客少なく、
為に僕等も、上等の部屋に特遇された、山気に冷えた體身を、温湯に温め、
休憩室の椅子にもたれて・・・・


(これは凄いことです・・・・このパインズ・ホテルでは温かいお風呂に入れたという
 ことのようです.  今から10年ほど前であっても バギオのホテルで
 温水が出るお風呂・シャワールームは 特別なことでしたから)

(掌大の平地・・とあるのは、バーンハム・パークのことであろうと思われます.
 向こう側に丘陵があるというのは、おそらく キサド通りやレガルダ通りあたりの
 起伏を指しているのでしょう)

p419
食堂に入れば、メツロボール・ホテルの料理よりも、僕の口に適ひ、
南洋遍歴の疲労、全く醫せられた如うな感がした.

(パインズ・ホテルのレストランの料理は かなり旨かったんでしょうね)


砂漠の様に荒れ果てた、僕の心霊も、何者にか満たされ、嗚々神よと、
首を垂れて訴へざるを得なかった・・・

(かなり大げさな表現ですが、バギオの素晴らしさに魅了されたであろう
ことは私もよく理解できます)


それから、二三十軒から成立した町に行けば、驚いた、日本人の雑貨屋がある、
写真屋がある、大工屋がある、理髪店がある、宿屋がある、半分は日本人の
商店で、聞けば日本人が、此の町に二百五十名も居るそうだ・・・・

(これは驚くべき情報です・・・
 この本が発行されたのが1913年、ちょうど100年前ですが、
 この著者がバギオを訪れた1912年には 日本人が250名ほども
 住んでいたということです・・・
 おまけに、今の目抜きどおりであるセッション通りに20~30軒の店があって、
 その内のおよそ半分は日本人経営である・・ということです)

(戦争直前の1940年ごろにバギオに住んでいた日本人の方の話などを
 今までに伺ったところでは、中国人、インド人、フィリピン人、日本人などの
 経営する店があって、おそらく日本人経営は3割ぐらいだったのではないか
 との情報もあります)

(1940年ごろと思われるセッション通りの地図は こちらでご覧ください)
http://janl.exblog.jp/13504807/

蓋し例の婦女は、楼に六七人で、それも経営難だと・・・

(要するに、パインズ・ホテルで見かけた日本婦人は いわゆる 「からゆきさん」
 だと言うことのようです・・・つまり売春を目的とする商売ですね)



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p420
元来此のベンゲット道路と云ふものは、最初土人を使用して開墾しようと
為たんだが、危険で、困難だから、土人の手では捗取らないから、
是は日本労働者を容るるの外なしと一時に多勢の日本人を入れた
或いは曰く一千人と、或いは曰く四千人と、精確なる事は、官府に聞いたが
不明であった、
兎に角に、明治三十五、六年の間に、多勢の日本人で、
一気呵成に遣つ付け、今は前記のように、自動車で愉快に交通さるる・・・・


(明治35年 = 1902年 ですが、別の本では 日本人が来たのは1903年から
 道路が完成した1905年までとされています. .
 こちらの参考ページをご参照ください)
こちらのページでは、ケノン少佐が1903年から道路建設に就いたことが分かります.
http://janl.exblog.jp/6619636/
こちらのページで、日系人団体が1903年を移民開始の年としています.
http://janl.exblog.jp/7246960/

彼等労働者は、或いはマラリヤに襲われ、或いは負傷して、犠牲となったもの
少なからぬと聞いては、暗涙禁じ難くなった、其の残徒が即ち此の避暑地附近に
居るのだ・・・

(ベンゲット道路の工事が終わった後、多くの日本人労働者は仕事を求めて
 マニラへ向かったものの、その当時には仕事がなく、マニラ麻で有名と
 なったダバオへ移住したものが多かったとされています)

比律賓に於ける、三千人の日本人は、多くは労働者だから、妻を本国より
呼ぶなどは、却々の困難で、土人と雑婚した者が、六十四人ある、
之は帝国領事館に届けた分で、此の外にも少なからずあるだろうが、
此のバギオには、蕃人の娘と結婚した者が十三人ある、
其の中には、イゴロット蕃の頭目の娘と結婚した者もあるが、・・・・

(このバギオの日本人については、日系人団体の北ルソン比日基金が発行した
Japanese Pioneers in the Northern Philippine Highlands という本に詳しく
記録されています)


p421
ベンゲット道路を登る時・・・・痩せた體の小さい犬を連れて、山を登って居る
のに会った、何だと聞けば、明日バギオに催さるる犬市に出すのだと・・・
犬市を見んと、バギオの市場に行けば、市場の裏の空地に、犬の市が
設けられ、約三四百匹の犬が居る・・・・

(この地方には今でも犬を食用とする習慣があります. バギオ市の条例では
一応禁止されているそうですが、実際にはいくつかの店で食べることができます)



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p422
之れは此等に住むイゴロット蕃人の為めに設けた市で、台湾生蕃そっくりの
男女が、三々五々各地より集まり、・・・・
・・・一疋の価は、七十銭から二円まで、蕃人最上の馳走だと.

服装は、台湾生蕃よりも、少し上等で、上には多くxx衣又は古洋服を纏い、
下には反物を其儘巻いて居る、刺墨は男子に見ず女子は手に刺墨して居る、


彼等は豚を飼い、馬を養うて居るそうで、・・・・・犬の外に、或いは毛布、木綿、
其他種々の買い物をしていたが・・・


p423
彼等の経済状態は、余程進歩して居る、・・・・既に全く農業時代に進んでいる・・・
此のイロゴットは、往時は兇猛な蕃族であったが、今は従順になった


マニラの総督府は、三月から六月迄、此所に移り上は総督より下は重なる
書記まで、此の仮の都に雪崩れ来て、官吏の数のみで約二千と称す

(少なくともアメリカ統治時代には、バギオがまさに夏の首都とされていたことが
 わかります. マンション・ハウスは今は観光施設となっていますが、
 総督や大統領の官邸とされていました)


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p424
・・・官吏の住宅も設けてある、而して毎年全島の教師の夏期講習会が
此地で開催さるるが、彼等は総て天幕生活である・・・・

(これは今 Teachers' Camp と呼ばれる地区のことだと思われます.
 今でも公務員や様々な人々の為の研修の会場となっています.
 この当時は フィリピン人教師はテント合宿だったのですね)

一月下旬で、最も良好の節、米人は暖炉を焚き、其の周囲に団座して、
談笑xxxxなりしが、熱帯に於いて、暖炉の辺の趣味に飽くなど、
羨ましき次第である.


(これは正に、一大避暑地での醍醐味とでも言うべきことでしょう.
 私も1992年頃、初めて出張でバギオに来た時には、キャンプ・ジョンヘイの中にある
 アメリカ式のコテッジで、暖炉に薪を焚いて皆で酒を酌み交わしたものです)

p425
政府は、マニラ鉄道会社をして、登山鉄道を敷設せしむる事となり、同会社は既に工事に着手したるが、新線路は、マニラ鉄道、現時の終点たる
サン・ファビアンよりアリンガイに出て、バギオに達するものにして
此の方面に、今も人道は存し、バンゲット道路に比すれば、行程却て短しと云ふ・・・

(この登山鉄道は、結局は出来なかったのですが、
 今のバギオ市からアシン温泉に下るアシン道路が予定されていた路線だと
 聞きました. 又、今のバギオとマニラを結ぶビクトリー・ライナーのターミナルの
 付近が この鉄道路線の終着点として敷地も用意されていたそうです)


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p427
比律賓に来りて、最も旅行家の耳目をxx動するは、其の土人教育の盛大なる
にあり、爪哇、印度支那に於いては、吾人は容易に学校を見ず、学童に接せず、
馬来半島でも・・・・比律賓に来りて、吾人は学校と学生の多きに、今更の如く感じたり・・・

(爪哇=インドネシア・ジャワ島、印度支那=インドシナ、馬来半島=マレー半島)
 

p428
十五歳より二十五歳まで位の女子の学校に、往来する事なるを聞き、
一驚三嘆せざるを得さりき・・・・


比律賓を自治国たらしめんと欲せば、自治国民たるの資格を比律賓人に
与へざる可からず、・・・・

(この当時の日本の教育制度がどのようなものだったかはわかりませんが、
 アメリカがフィリピンで実施していた教育のありように、驚きを隠せない記述と
 なっています.
 考えてみると、現在でも、女性大統領を出したフィリピンと、女性の社会進出が
 世界の中でも大幅に遅れている日本は、フィリピンから学ぶべきことも
 ありそうですね)


p429
右の如き政策を樹てて、占領早々より、米国より一千名の教師を招聘し、
学務部を置き、全島を三十七学区に分かち・・・

小学校は四学年にして四千四百校、中等学校は三学年にして百九十三校、
高等学校は四学年にして三十七校、・・・・・又 大学もありて、・・・・
此の外に宗派に依りて設立されたる数多の大学あり・・・・
サンタイサベル大学の如きは、1594年の創立にして・・
アテネオ大学の博物館は、熱帯の貝殻類を蒐集したるを以て、その名宇内に
輝けり・・

(100年前に 4-3-4制の教育があって、大学もあった・・・)

(1594年と言えば・・・・
 1594 秀吉が全国にわたり検地を行う(太閤検地) という時代なんですねえ)


その教師は、米人百十八人、比律賓人七千六百九十六人にして、・・・・
九割以上は比律賓の教師にして・・・・

(これらの米人教師が おそらくバギオの Teahers' Camp の宿舎に泊まり、
 テント合宿のフィリピン人教師たちをトレーニングしたんでしょうね)

(日本の教育制度の歴史については、こちらをご参照ください)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%88%B6%E5%BA%A6%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7
「師範学校令(1886年)、実業学校令(1899年)、中学校令(1899年)、専門学校令(1903年)、
小学校令改正(1907年)、高等学校令(1918年)、大学令(1918年)によって確立された学制
が以下のものである。戦前の教育課程は、概ね以下の4段階からなる。現在の学制とは異なり
複線型教育の特色がかなり強い。」

(ちなみに、現在の日本は 6-3-3-4制ですが、
 フィリピンでは 6-4-4制だったものが現在 6-6-4制に変更されつつあります)

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p434
比律賓政府の歳出は・・・・其の教育費は ・・・約四分一は教育費たり・・


p435
愛国心の盛なる、南洋随一にして、而して南洋人としては、気骨あり、
慷慨悲歌の情あり、且つ相当の思慮あり、技術あり
、何れの役所に於いても、
米人は少数にして、大多数は土人なれば、若し将来南洋に於いて、自治的
国家を建設し得るものありとすれば、第一は、正に比律賓なるべし.

(おおお~~、物凄い褒めようですね. 東南アジアをあちこち見聞して
 廻った新聞社の主筆たる著者が このように褒めちぎっているんですからね・・・・
 いつからフィリピンは政治不信の国になってしまったのでしょうか.
 アメリカ統治時代の話とは言え、同時は多くをフィリピンから学ばなくては
 ならない日本だったようです.
 もちろん、日本から多くの出稼ぎ者がフィリピンに渡っていた時代であった
 ことも記憶しておかなければなりません.)

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この書籍の存在については、東南アジアでの調査研究をされている
中部大学の青木澄夫教授に教えていただきました.
貴重な資料をいただきましたことを、ここに感謝申し上げます.

尚、この書籍は 極一部で「古書」としての取り扱いがあるようです.

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上記は100年前に発行された本ですが、
その当時から戦前までのフィリピンと日本の関係の中でもっと客観的な視点から
バギオにも触れてある本も紹介していただきました. 

早瀬 晋三 著
「フィリピン近現代史のなかの日本人 植民地社会の形成と移民・商品」
東京大学出版会

JANLメンバーの個人サイトに記事がありますので、ご参照ください.

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-8c54.html




「世紀転換期における日本・フィリピン関係」
池端雪浦, 寺見元恵, 早頼晋三
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所

「第2章マニラの初期日本人社会とからゆきさん」 寺見元恵 著
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-be3f.html



金ケ江清太郎 著 
昭和43年4月10日発行 国政社
「歩いて来た道 -ヒリッピン物語」  から フィリピン・バギオの昔を垣間見る
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-d022.html


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by janlbaguio | 2013-11-09 15:28 | History バギオの歴史
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