「フィリピン北部高地の日本人開拓者たち」から、 ある移民の記録

JAPANESE PIONEERS IN THE NORTHERN PHILIPPINE HIGHLANDS
(フィリピン北部高地の日本人開拓者たち)

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随分前にこの本を北ルソン比日基金(通称:アボン)で購入しては
いたのですが、分厚い本に恐れをなして、パラパラとページを
めくり、貴重な写真に見入るだけでした.
たまたま、この本の中に記述されている方の映画を制作すると
いう話があり、この際、じっくりと読んでみることにしました.

拙い一部分の翻訳ですが、ご参考としていただければ幸いです.
(文中の ・・・・は 省略された部分です)


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第十章
チャールズ・ムネオ・寺岡
バギオの建築請負人

Charles George Muneo Teraoka (寺岡宗雄)は、1926年頃から
1941年まで、バギオ市の総合建築請負業者であった.
第二次大戦を、近隣の人たちや友人によって保管され生き延びた
様々な文書によって、彼の生活や仕事について貴重な詳細の一部
を垣間見ることができる.
寺岡宗雄は、1900年に山口県大島郡に生れ、三人の兄弟と
四人の姉妹の長男であった. 彼の両親と兄弟姉妹が迫村家の
養子となる中で、宗雄一人が寺岡の名字を残すこととなった.
その当時、長男が家に残るという事実もこの話を尋常ではない
ものとしているが、しかし、寺岡は16歳で日本を離れ、マニラの
大工見習いになったのである.
宗雄の子供たちは、父がそのように若い歳で、将来を異境に
求めたのは、その家が極貧にあったためではないかと信じている.

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(上の右の写真は セント・ルイス・ハイスクールの建物とあります)



寺岡は、彼の妻である アントニナ・バウティスタ にマニラで
出会った. 彼女はトンドにある軽食屋に雇われており、
多くの日本人経営の小さなビジネスのひとつで、もんご屋と
してよく知られていた.
アントニナは、1902年にターラック州カミリンに生れ、
寺岡と彼女は、1924年8月にトンド・カトリック教会で
結婚した. それから間もなく、二人はバギオへ向かったが、
それは、寺岡が病気がちであり、医師が彼の健康のために
バギオ行きを勧めたからであった.

山岳地帯への転居は神の恵みであることを証明した.
何故ならば、寺岡の呼吸器系の問題にもかかわらず、彼は建築
請負人としての多忙な仕事を始めたからである.

1920年代に、フィリピンの観光の拠点としてバギオが
発展していくに従い、ホテル、宿泊所、そして個人の邸宅も
建築され、建築ブームとなった.
この10年間、様々なカトリック宣教師の注文で、バギオに学校、
礼拝堂、そして休暇静養所が建て始められた.
寺岡は早い内にカトリックに改宗していたため、これらの事業
への参入を約束されていた.
記録によれば、彼は、ホーリー・ファミリー大学、アポストリック・
パーフェクト・ビル(1938年)、ホーム・スイート・ホーム、
そして、セント・ルイス大学となるいくつの建物の建築の仕事
をした. ・・・・・・

1931年から1933年まで、寺岡は南イロコス州の仕事に
ほとんどの時間を使い、ビガンの四梁のバナオアング橋(後に
エルピディオ・キリノ大統領の名前で名付けられた)を建築した.
これは、彼の非常に多忙な仕事の中でも、最大の建築事業で
あった. ・・・・・・
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(このキリノ橋の最近の写真はこちらのサイトにあります:)
http://nanaybelen.blogspot.com/2008/11/vigan-tour.html
                               

寺岡の常連客は、個人の家の所有者、劇場、病院、学校、事務所
そしてカントリー・クラブまで広がっていた.
その10年間の中頃に、バギオで鉱山業が始まるにつれ、
彼は利益の多い鉱物加工設置の仕事に乗り出した.
日本人会は、学校の幼稚園棟の建築で、1936年に彼を
契約者として選んだ.

この時期に、彼はしっかりした家族の家をアッパー・ギサドに
建築し、鉱業株に投資し、家族用と業務用に自動車を数台
購入した. 彼は、セッション通りの一番上、今日のファーザー・
Carlu通りとの角附近に、金物工具店を開いた.
その店は、バギオ・ハードウエア・アンド・ペイント・
ディストリビューターと呼ばれ、彼は、Sherwyn-Williamsペイント
の代理店であった. 
アメリカ人実業家の ジョー・ライスと、寺岡は、バギオ西部
イリサン地区での石灰ビジネスのパートナーとなった、・・・・・


結婚後早い内から、チャールズ寺岡は、子供たちをフィリピン人と
して育てる決心をしていたことが明らかとなった.
彼は、子供たちに、フィリピンでも一般的な英語名を与えた.
ほとんどの日系フィリピン人とは異なり、日本人名は持たなかった.
寺岡は、独立準備政府時代に、フィリピン国籍を申請しており、
それは、彼が死亡した年に認められている.

彼の子供たちは、日本人学校に入り、PTAにも全面的に
参加し、日本人会にも参加している.
彼の日記に、興味深い記載がある. 日本での水害への
支援として44ペソを寄付しているのである.
彼の仕事人生の間、寺岡は、山口県の迫村家の彼の家族
にも多めの金額を送っている.


寺岡家には、6人の子供たちがいた;
ビクター、シクスト、カルロス、マリエ・ドロレス、
カタリナ、そして エドワードである.
チャールズは、1941年8月31日に、バギオで
病に倒れた.  長男と次男は第二次大戦初期に命を落とした.
妻のアントニナと下の二人の子供たちは、1945年の
バギオ日本人コミュニティーの人々が北へ向かって逃避行
している間に命を落とした.

それぞれ14歳と11歳の時、カルロスとドロレスは、
8歳の従兄弟と一緒に、日系フィリピン人の子供たちの
小さなグループに加わり、日本に送還され、父の家族と
共に生活することとなった.


二人は1950年代にフィリピンに戻った.
今日、カルロス・B・寺岡は、バギオに於ける日本国の
名誉総領事であり、卓越した実業家である.
マリエ・ドロレスは、夫である地質工学技師のレオポルド・
S・エスカニオと共に、北ルソン比日基金の役員を務めて
いる.

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この書籍は、フィリピン・ルソン島北部の日本人移民の歴史
1903年から2003年までの100周年を記念して、
発行されたものです.






                  



                  


  
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by janlbaguio | 2014-03-23 15:54 | History バギオの歴史
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