Baguio History through Stamps に見るバギオと日本人の関係

2013年に他界された バギオ市のフィリピノ・チャイニーズ・ホスピタルの院長であった
チャールズ・チェン医師が 奥様との共著で書かれた「切手を通して見るバギオの歴史」
Baguio History through Stamps に、日本人とバギオとの関わりに言及した
部分がありました。

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この本は、以前 JANLの分科会活動の中で 「バギオ歴史探訪アートマップ」 を
制作した折に、資料のひとつとして、奥様である Katherine Bersamira様から
お譲りいただいたものです。

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この本のこのページは 「アメリカ植民地時代」の章ですが、右下の方に
このような切手が掲載されています。
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読みにくいのですが、以下のように読めます。

1903 CENTENNIAL 2003
ARRIVAL OF JAPANESE WORKERS FOR THE
CONSTRUCTION OF KENNON ROAD

1903-2003 100年記念
ケノン・ロード建設の為に日本人労働者が到着

・・・・この情報を元にして、インターネットで検索してみましたところ、以下のサイトが見つかりました。

Arrival of Japanese Workers for the Construction of Kennon Road Centenary
http://www.philippinestamps.net/RP2003-Kennon.htm#RP2003-Kennon

このサイトの記事を訳してみますと、以下のようになります:

その歴史的道路の建設は、困難で危険なものでした。
病気やコレラさえも労働者を苦しめました。 そのハイウエイの建設に
労働力として貢献した人たちの国籍のいくつかを挙げると、フィリピン人、
スペイン人、インド人、中国人、日本人、ハワイ人、ポルトガル人、
メキシコ人、イタリア人、フランス人、イギリス人、カナダ人、
ドイツ人、アメリカ人などでした。
1903年にケノン・ロードを建設するために雇用された外国人労働者
の最大の派遣団は日本人でした。

1903年の国勢調査によれば、そこには921人の日本人移民がいました。
これらの内、800人の日本人は沖縄県からの労働者でした。
彼らは、ライマン・ケノン大佐の監督の下でケノン・ロード・プロジェクト
で働いた20カ国以上の国籍の労働者の中にいました。
当初の800人の労働者の内、ほんの300人だけが、1907年に道路が
完成した時に生き残っていました。
その他は、事故や病気の犠牲となって倒れたのでした。

2003年の記念は、歴史的なケノン・ロードの建設に於いて働いた
最初の日本人のグループの到着の、その役割と歴史的重要性の
100周年を祝うばかりではなく、その道路の建設をもたらした
異なる国々の人々の中にあった人間の精神を祝うものでもありました。

(以上、翻訳)

・・・上記リンクのサイトには上の翻訳のように書いてありますが、
ここには他の資料に照らすと、いくつかの疑問な点もあります:

1. 1903年に沖縄県からのグループが800人やってきたとありますが、
   他の資料によれば、沖縄グループの到着は翌年の1904年と
   されています。
   (比較資料: http://rca.open.ed.jp/city-2001/emigration/world/w_10_f.html 

2. 1907年のケノン・ロードが完成したとありますが、
   他の資料では ほとんどが 1905年に完成としています。
   (比較資料: http://janl.exblog.jp/7076729/
   (比較資料: http://janl.exblog.jp/23720168/ )

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Dr. Charles Cheng の本の中でも、 ケノンロードの建設は 1901年に始まり
1905年に完成したとなっています。

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この本に掲載されている切手は、1932年に発行されたものだそうです。


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この本をさらに読み進みますと、第五章に 「日本占領時代」 が出てきます。

このページには、
ー 1941年12月8日、真珠湾攻撃の日に、キャンプ・ジョンヘイに日本軍が
   爆弾を落とした。
ー 1941年12月26日に、日本軍がバギオに到着した。
ー 日本軍は一発も発砲せず、バギオを占領し、マグサイサイ通りにあった
   日本人学校に本部を置いた。
ー 日本の敵性外国人とされた アメリカ人、中国人、イギリス人、インド人、
   その他の外国人は捕虜収容所に入れられた。
ー 中国人とインド人の捕虜は、最初は当時のワシントン・ホテル、今の
   セッション通りのラペラル・ビルに入れられ、その後 キャンプ・ジョンヘイの
   収容所に入れられた。
ー 憲兵隊は、パレス・ホテルに入り、その後 市役所の近くにあった
   インターナショナル・ハーベスター・ビルに移った。

・・・・と書かれています。

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これは、日本軍政時代に、日本で印刷され、フィリピンで使われた切手です。
カタカナで 「センタボ」などと書かれています。

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このページには、
「バギオの解放」 および 「山下大将の降伏」 が描かれています。

ー 1943年9月21日から23日まで、米軍は、日本軍の空港と、ラ・ウニオン州の
   ポロポイントを含む港を爆撃した。
ー 米比ゲリラ部隊の攻撃とともに、アメリカ空軍は、1945年1月15日・16日に
   市役所はその他のバギオ市の爆撃を行った。
ー 3月15日、米軍は繰り返し爆撃を実施した。
   多くは安全な場所に避難したが、それでも、多くが犠牲になった。

ー 1945年8月16日の朝、山下大将は降伏した。
   (この日付は正確ではありません。 9月2日の間違いかと思われます。)
ー 1945年9月3日に、キャンプ・ジョンヘイ(現在のアメリカ大使公邸)にて 
   降伏文書に署名。

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・・・・以上 ・・・・



    


















  
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by janlbaguio | 2017-04-27 01:13 | History バギオの歴史
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