バギオの歴史を学ぶコーナー (3ページ目)

CITY OF PINES 「松の都市」
著者: Robert R. Reed

バギオのイメージ



p45
第一に、そして彼らの報告書の前文という形で、その三人の行政長官らは、次のような言葉で高原保養地に対する公共の要求を認め、これを支持したのです。

フィリピンに於いて長い間必要と感じられていたものは保養地の建設であります。 その保養地では、病状を回復させるイベリア半島の気候、叉は日本の気候、そして中国の海岸などを求めて、国を去ることを余儀なくされた数え切れない患者が、彼らの病気を癒し安心することを得られるかもしれないのです。 提案されているフィリピンの保養地は、医療・病院のサービスを補完することになるでしょう。 それは叉、病気の兵士、元気づかせるような気候の特性を必要とする病気の兵士、が完全に回復するでしょうし、長く深刻な病気で弱った者たちが回復期にあって、身体に滋養が必要な者たちが、徐々に蝕まれた力を取り戻すための適切な保護施設を設けることにもなるでしょう。


p47
<第二に・・・・・>
これらの<病気療養などの理由で海外に行かねばならない外貨の損失を減らすことが出来ると言う>高原保養地プロジェクトの予測される利益のほかに、スペイン人行政長官らは、もっと広範囲にわたる重要性から開発を考えていました ― つまり、山の住民のすみやかな近代化です。 ベンゲットと低地の間にしっかりした道路を建設することを通して、スペイン化されたフィリピン人の流入を促し、イゴロットを文化的、社会的、政治的、そして経済的に変えていく効果を期待したのです。  山岳地帯中心部に大規模な保養地兼リクレーション・センターを作ることによって、スペイン人は同時に、忠実な軍人に道徳的負債を返すこと、フィリピンからペソが流出するのを少なくすること、そして、ルソンの高地民族の近代化に資する事を提案したわけです。


第三に、これが一番重要なのですが、ベンゲット委員会が考慮していた問題は、フィリピンの高原避暑地をどこに置くかという選択の問題でした。 ラ・トリニダッドの多くの快適さは認めてはいましたが、その行政長官らは最終的に、究極の開発の可能性という点から、隣接するバギオの村の方がもっと優れた立地であることが証明されたと結論づけたのでした。 大規模な高原保養地の開発可能性にとって重要と考えられるあらゆる観点 - 健康によい気候、充分な水の供給、農業の将来性、燃料の入手可能性、リクレーションの可能性、そして低地との通信の繋がり - から、バギオが第一位にランクされそうでした。 このベンゲットの村の健康によい環境に関する長々とした解説と、多湿な熱帯地方における他の成功を収めた高原保養地との類似性にしたがって、スペイン人の行政長官らは、現在のバギオの立地場所に大規模な政府の病院を早急に建設するよう強く支持しました。



第三章  バギオの起源
      フィリピンの環境についてのアメリカの認識



p57
フィリピンの大多数のアメリカ人が、熱帯地方での帝国の冒険的試みには健康障害は付き物だと充分理解していたことは、ほとんど疑いありません。 実際、初期の植民地の記録 - 公的なものであれ、私的なものであれ - 何度となく、フィリピン群島の自然や病気の分布に関する長々とした解説が、強調されたのです。 
米国の陸軍がマニラの拠点から突然進出し、フィリピン群島の全域を征服しようと軍事作戦を開始して ほんの4ヶ月ほどすると、アーサー・マッカーサー司令官(ダグラス・マッカーサーの父)は、 「私の軍は 体調が崩壊に向っている。」としぶしぶ認めたのでした。  アメリカの兵隊は、赤痢、腸チフス、マラリア、そして他の多くの病気に襲われていたのです。  植民地全域における遠隔地のアメリカ人の病気や死亡率を大幅に減少させた公衆衛生の手法を医師団が開発し始めてから およそ二年後に、米国フィリピン委員会は、次の言葉で島国の健康状況について表明しました。

これらの島々において、整備された公衆衛生部門が出来れば、衛生条件の総合的な改善が図れることは自信をもって予測出来るかもしれないが、 湿地の低地で作戦を強いられる部隊や、あるいは 駐屯地を作るべきではない状況の中で出来た駐屯地の部隊は、 多かれ少なかれ、下痢、赤痢そしてマラリアにひどく悩まされるのは、疑いのない事実として残るだろう。



p63
残念なことに、頻繁に休暇を取るというのは、大抵は、裕福なビジネスマン、陸軍や海軍の仕官、そして地位の高い植民地官僚に限られていました; ほとんどの熱帯地域の西欧人はただ単に、ヨーロッパやアメリカに長期帰省する膨大な費用を払えなかったのです。
それに、植民地政府も、定期的に家族連れで西欧に帰省したいと願っている何千人もいる平均的公務員や軍人に、交通費や給料を支払うだけの財源を持ってはいなかったわけです。
有給休暇は、実際にほとんどのビジネスマンや政府職員に認められてはいたのですが、これらの休暇の頻度や報酬の形態は、常に、その地位、雇用年数、そしてもちろん、個々人の健康状態によって決まっていたのです。 しかしながら、植民地政府がいかに良く取り扱おうとしても、戦争中や伝染病が蔓延している間は、本土での休暇を取ることが認められる病人であっても、その膨大な人数を支援する充分な財源を確保することは出来ないことがしばしばあったのです。
アメリカがマニラを占領してほんの2年後に、米国フィリピン委員会は、この長引く苦境に関して、次のような論評をしたのです:

熱帯地域では、ひどい負傷や衰弱する疾病からの回復というのは、ゆっくり起こります。
これまでに、膨大な数の傷病兵を日本叉はアメリカへ療養のために送り出さなくてはならないと判明しました。 これには、極めて多くの費用と生命が頻繁に失われることも含まれます。 なぜなら、最も完璧な輸送船と病院船であったとしても、荒波の中での航海では、陸上では可能な病人への看護は 不可能だからです。

結果的にアメリカ人は、熱帯アジアのどこにでも居る西欧人と同じように、健康のための第五番目の処方 - 高原保養地 - を採用したのです。
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by janlbaguio | 2007-10-08 00:19 | History バギオの歴史
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