バギオの歴史を学ぶコーナー(5ページ目)

CITY OF PINES 「松の都市」
著者: Robert R. Reed


第三章  バギオの起源
      フィリピンの環境についてのアメリカの認識

(続きです。)



p75
ウォーセスター・ライト委員会と 二人の医療アドバイザーの 正式な推薦に従って、フィリピン行政長官達は 暫定的にバギオの開発を認可したのです。 それは、この開発に於いては、ほんの二つ目の正式な立法措置に過ぎませんでした。 ウォーセスター、ライト 及び 彼らの一行が北方からマニラに戻って一ヶ月も経たない 1900年9月12日に法律となった 法令第2号を通して、植民地政府当局は 提案された高原避暑地と低地とを最終的に結ぶように計画された鉄道網の調査のために 5千ドルを承認したのでした。

これは、しかし、アメリカ支配の最初の10年間に米比委員会によって立法化された バギオ関連のおびただしい法律の最初のものでした;  彼らは マニラにある植民地政府当局の目から見れば主要な山岳都市の無視できない重要性に対して まとまって意見を述べたということになります。
これらの法令によって、行政長官達は 不可欠な道路建設プロジェクトに数百万ドルを投入しました;  健康に良いとされる高地の気候であることを確認する為に測候所を建て; ベンゲット州とバギオ市の両方に 行政機関を組織し; 新しい高地の拠点のための 下水、給水、そして電力のシステムを認可し; ラ・トリニダッドに農業研究所を造り、町の境界内で 数百もの住宅および建物用の土地を公売に出し; 数多くの政府機関の建物や関連する基盤施設を建設し; 健康とリクリエーション増進のために軍用の特別保留地を確保し; バギオの総合的な都市設計を準備するために 著名なアメリカ人都市プランナーである Daniel H. Burnham を雇い入れました。
このようにして、二十世紀の初期に、フィリピンの行政長官達は 東南アジアにおけるもっとも優れた高原避暑地のひとつと言うだけではなく、北ルソンに於いて第一の都市となるべき都市の確固たる基礎を築いたのです。



第三章 <つづき>
ベンゲット道路: その葛藤と成功
p80
ウオーセスター・ライト委員会がマニラに戻って2週間も経たない内に、フィリピン行政長官達は ベンゲットに入る鉄道の建設を推進することを 彼らの中で非公式には 明らかに合意していたのです。  
彼らは -前述の法令第2号―の具体化を 9月の第二週まで実行に移していませんでしたが、面白いことには 少なくとも1900年8月28日頃には鉄道網の調査のための調整は始まっていたのです。
そして、その当日、Charles W. Mead大佐は Arthur MacArthur将軍から、当時のマニラに於ける都市エンジニアの任務を解除し、暫定的に彼を 米比委員会に任命するという命令を受けました。


p82
1900年12月14日に提出された調査隊に関する報告書の中で、ミード大佐は 最短距離で一番安い鉄道のルートは 正に Bued<ブエド>河沿いであると述べています。
<注: この最短ルートは 掲載された地図によれば、ラ・ウニオン州の アゴオとバウアンの間に位置するアリンガイの町から ほとんど真っ直ぐ東へバギオまで向うルートです。>

ミード大佐は、いくつかの短いトンネルが必要であるし、山の支脈に多くの深い切り込みを入れる必要もあると、かなり困難な建設作業の可能性を認めてはいたものの、これらの問題は簡単に乗り越えられるものと信じていました。
実際に、大佐は一年以内なら 鉄道路床のせいぜい3パーセント程度しか完成出来ないだろうと判断していました。 

労賃、建設資材、公道用地購入、鉄道レール、店舗、及び 所有車両の総コストを およそ2百6十万ドルと見積もった後に、ミードは 次のように提案したのです。
計画されている鉄道路線の全線に渡って 普通乗用車向けの仮の道路を建設することを通じて、高価ですぐに必要となる鉄道建設の費用を先送りできるのではないかと。 そしてその見積コストは ほんの7万5千ドルであると。
フィリピン行政長官たちは、植民地政府の他の分野においても重い財政的責任に直面していましたので、 そのような好都合な情報は 渡りに舟だったのです。

行政長官たちは、すぐにベンゲット鉄道延長の開発を数年間延期することを決定し、破格に安い自動車道路を代わりに選んだのです。

p83
建設作業は1901年1月中旬に ベンゲット道路の北と南の両端で急ピッチに開始されました。 総監督は ミード大佐でした。 同年の7月までに、その頃アメリカは雨季の間はすべての建設工事を停止する必要があると分かったのですが、たったの10マイル、つまり 当初計画されていた道路全線の三分の一以下しか完成できなかったのです。
それどころか、この10マイルというのは、ブエド河渓谷の入り口に到る低地の既存の小道を改良したに過ぎなかったのです。
その上、ミード大佐が 建設期間とコストの両方で膨大な過少見積りをしていたことが明白になってしまったのです。  その結果、大佐は以前のポストであったマニラでの都市エンジニアとして戻されてしまいました。

p84
1902年1月1日、ベンゲット道路の仕事は N.M.Holmes主任技師の指揮の下に再開されました。 ホルメスは ブエド河の砕け易い渓谷の壁に路盤をゆっくりと削っていくという報われない任務を引き継ぐことになったのです。
ほんの6ヶ月後に、ホルメスはプロジェクトの完成をあきらめてしまいました。
その後3年間に渡って道路建設プロジェクトを悩まし続ける深刻な問題が既に露呈していたのです。

p85
ホルメスと彼の直属スタッフ、そして およそ2千人の労働者たちの真剣な努力にもかかわらず、道路建設者たちが報告できたのは、1903年6月までに 通行可能な道路をやっと18マイル完成出来たというものでした。

p86
行政長官たちやそのアドバイザー達の第一の、そしておそらく最大の、判断ミスは、ミード大佐の最初のプランを真面目に審査せずに受け入れたこと、あるいは、フィリピンで経験を積んだ技術専門家による二次評価をしなかったことでしょう。
それと同時に、アメリカ人技術者 ―ミードとホルメス― が直接の道路建設の責任者であったため 彼らが工事を行った環境と文化的背景の中で、すべての現実を把握することに単に失敗したと言う事です。

技術的設計における明らかな大失敗に加えて、彼らは 長々と続く雨季の間のタイム・ロスを考慮することを無視し、アメリカ人の労働倫理が必ずしも他の人々には適用出来ないことを理解せず、たった一日の間に何十インチもの大雨をもたらす台風の 路盤や橋梁に及ぼす潜在的影響について判断ミスをしたのです。
そのような河の氾濫時には、渓谷道路の主要な区間は 大きな泥流に文字通りかき消され、 高価な鉄の橋梁も あっと言う間に上昇するブエド河の水流によって 瞬く間に構脚と橋げたがもつれあった固まりに変えられてしまうのです。  


p88
1903年夏、バギオとベンゲット道路開発に対する抗議の声がますます大きくなり、米比委員会は 高原避暑地開発計画をすべて投げ捨てるか、激しい論争をくぐり抜けて推し進めるかの二者択一を迫られることとなりました。


p89
膨らみ続けるコストと抗議の声にもかかわらず、フィリピン委員会は バギオの辺鄙なイゴロットの村は フィリピン群島で最高の山岳都市に必ずや変容し、ベンゲット道路によってマニラと結ばれるであろうと宣言したのです。
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by janlbaguio | 2007-12-30 16:52 | History バギオの歴史
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