バギオの歴史を学ぶコーナー(6ページ目)

CITY OF PINES 「松の都市」
著者: Robert R. Reed


第三章  バギオの起源
      フィリピンの環境についてのアメリカの認識

(続きです。)


p89
・・・ L.W.V.Kennon(ケノン)少佐は 道路プロジェクトの任務に就き、1905年1月に開通したベンゲット道路のすべての区間に渡って一所懸命に仕事をしたのです。 ・・・・ ケノンは三千人の労働者を数ヶ月で組織しました。 これは本来歴史的な事業であったのです。 なぜなら、その作業チームは46カ国の男たちから成り、多くの言語を話し、様々な宗教を信じ、そして、他の場所の仕事に移動する前に ほんの2~3ヶ月だけここで働きたいと言う者が多かったからです。 ・・・・・


p90
ケノン少佐は、前任者とは違い、さらに 技術や人的組織のすべてに渡って 西欧の方が優れているという観念には囚われない人物でした。 実際のところ、少佐は 建設活動を容易にするものであれば、その技術的な提案を進んで受け入れたのです。
それゆえに、牛馬などの蹄が道路舗装に使われていた鋭い川砂利で薄く磨り減ってしまった時には、ケノン少佐は 日本人の工夫した藁と麻で作った草履を採用したのです。 そして、それが不十分であると分かると、今度はアメリカ南部から来た黒人の馬丁が、牛と水牛の蹄を守る特別な鉄の靴を作ったのです。
それがさらにはっきりしたのは、山の支脈に大きな切込みを入れ、その土を道路に埋め込む場所に流し込むために、ケノン少佐は 山岳民族イゴロットの水車を採用したいと思っていたことです。

   1905年1月29日、ケノン少佐はついにフィリピン委員会に対して、 その全区間のほとんどのところで、「道路は、現状のままで、すべて完成し、線路を引く準備は出来た。」と報告することが出来たのです。
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そのベンゲット道路 - 後日その建設者の名前をとって、ケノン道路と命名されました - は、既に 二百万ドルになろうとするコストと、病気や事故によって数百人の人命を犠牲にしていました。


p91
第三章 <つづき>

一般人向けの保養所: 臨時の中核として

1902年の早期に、行政長官は保養所プロジェクトを開始し、Otto Scheererから かなり広い土地を購入しました。 そこは実質的にパインズ・ホテルの土地に一致する場所です。 <現在のSMバギオの一帯です。>

この取引が行われた時、計画されていた静養患者用の施設の場所には 二つの家屋がありました。 ひとつは米国人のマウンテン州知事に与えられ、より大きな公邸が出来るまで使用されることになり、 もうひとつは新しい一般人向けの保養所の中核となったのです。
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p96
・・・・ 1906年に行政長官は 保養所の本館を C.M.Jenkinsに貸し出しました。 ジェンキンスは、すぐにその家をファースト・クラスのホテルに改造し、一般市民が休養や静養や娯楽の為に使えるようにしました。 近くのいくつかのコテッジは暫定的に、入院患者や外来患者への医療サービスのために確保され、そして、行政長官は間もなく恒久的で大きな病院の建設の為に資金を承認しました。 1907年の この機関の開設によって、保養地としての初期の役割に於いて、完全な分岐点となったのです。
Baguio General Hospital(バギオ総合病院)は マウンテン州に於ける先進的医療施設となり、又、当初の静養患者センターは 北ルソンの中で最も著名なホテル - the Pines(ザ・パインズ)ホテル - となったのです。 バギオの健康とリゾートの機能は、これによって、効果的に二つの独立した、そして今でも名高い機関として位置づけられることとなったのです。


<次回は 第四章 に突入です。 「バーンハム計画」>
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by janlbaguio | 2008-04-30 01:27 | History バギオの歴史
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