バギオの歴史を学ぶコーナー(7ページ目)

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第四章
バギオの建設初期


開発のデザイン: バーンハム計画

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行政長官フォーブス(Forbes)は、フィリピンの二つの首都の都市計画を作るために、二十世紀への変わり目にアメリカで最も有名な建築家であり都市プランナーであった チャールズ F.マッキム(Charles F. McKim)と ダニエル H. バーンハム(Daniel H. Burnham)のいづれかを雇えないかと探り始めました。

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1904年10月13日、 ダニエル H.バーンハム と 彼のアシスタントである 
ピアース アンダーソン(Pierce Anderson)は サン・フランシスコを出航し、12月初旬にマニラに到着しました。 六週間の期間中、その二人のアメリカ人プランナーは 多くの政府職員に聞き取りを行い、マニラとバギオの地図を研究し、その二つの群島の首都の多くの側面を調査し、そしてさらに、時間を見つけては現場を見て回ったり多くの人々と言葉を交わしました。

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バーンハムは 1905年1月16日にフィリピンを離れ、直ちに仕事に取り掛かりました。 個人的なメモやフィリピン群島政府から提供された材料を元に、アメリカへの長い航海の間に、その夏の首都のための大雑把な設計を準備することが出来ました。 そして、シカゴにある彼の家に戻ると その都市計画を形にしました。 その成果である「バギオ・プラン」は 1905年10月5日にタフト長官に提出されたのです。

多くの二次的な要素を詳しく述べるまでもなく、バギオの設計の本質はなお要約出来るでしょう。 明らかに重要なのは、バーンハムがバギオの期待された機能をはっきりと規定したことでしょう。 つまり、フィリピンの夏の首都として、主要な保養地として、大規模な市場のセンターとして、そして、レクリエーション活動の中枢として。

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毎年 植民地のエリート達が東南アジアの高原避暑地に詣でるのは、 涼しい環境での静養、くつろぎ、回復、そしてリクリエーションによって促進されていましたので、 バーンハムは カントリー・クラブへ転換できる広大な地域を確保しました。 それは、一流の政府高官、西欧の事業家、そして裕福なフィリピン人に供するために意図されました。
しかし同時にバーンハムは、中流のアメリカ人やフィリピン人のリクリエーションのニーズも無視することはありませんでした。 バーンハムは、少なくとも二つの主要な公営の公園を造ることを強く求め、さらには、「周囲のすべての丘の大部分は公共の財産であり、非公式の公園として保全されると宣言されるべきであり、一方 特に丘の頂上部分は 緑の頂点をしっかり守るために公共の保留地として別途保全すべきだ」と提案したのです。
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by janlbaguio | 2008-05-08 00:27 | History バギオの歴史
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