これで あなたも バギオ通 !! アメリカとのつながり

これで あなたも バギオの物知り、 免許皆伝!?

バギオに住むこと 既に20年以上という JANLの副代表YSさんが あなたを一気にバギオ通にしてくれます。 元々 アメリカ軍の保養地、避暑地として造られた計画都市バギオ。 まずは、バギオとは切っても切れないアメリカとの関係からご紹介します。

バギオとアメリカの
つながり



1.キャンプ アレン

ヘンリー アレン(Henry Tureman Allen)はフィリピン レイテ州の最初の知事であり、フィリピン国家警察を組織、指揮した人物。 1904年、日本軍のオブサーバーとして日露戦争中の韓国に行った経験を持つ。 
バギオの裁判所の正面、消防署の隣にあるフィリピン国軍所有地の名前はCamp Henry
Allenという。 現在の場所に移る前はここにフィリピン国軍士官学校/フィリピンミリタリーアカデミー(PMA)があった。 

現在のキャンプ アレンは軍人の住宅地?となっている、ナギリアン通りに面している石垣は雨季のたびに壊れ、修理するのが年中行事だったが1990年の大地震の前後にナギリアン通りを広げる工事と同時に本腰をいれ修理され、現在のかたちになった。

狭かったナギリアン通りの名残は道路に残る電柱をきった後で知る事ができる。見つけられた人 いるかな?

2. バーンハム公園

ダニエル バーンハム(Daniel Hudson Burnham)。  バギオではおなじみのバーンハム公園の名前の由来になった人物。 シカゴの超有名設計士 及び都市計画者。ロハス通りを含むマニラの設計、バギオの設計をした。ワシントンDCのユニオン駅、シカゴ市の都市を設計したのも有名。ちなみにバギオは3万人都市として設計されたので、現在の30万人以上の人口はちょっと窮屈。 当時は市役所、公園をはさんで国の役場(現在のSMの正面側辺り)、そこから東がアメリカ人、お金持ちの住宅、その他を一般庶民の住居と住み分けされていた。 知られていないが、清水建設3代目は当時日本になかった鉄骨建築の図面をバーンハムから譲りうけた人物として記録が残っており、日本の高層建築の歴史とも深いかかわりがある。日本橋丸善本店ビルはその設計図を参考に建てられ日本初の帳壁式鉄骨煉瓦造の建物で関東大震災にも耐えた。


3. ハリソン通り

バーンハム公園の横を通っている大通りの名前 フランシス ハリソン(Francis
Burton Harrison)は ハリソン通りの名前の由来になった人物。 アメリカでの下院議員の経験を経て、1913年から21年までフィリピン総督府の総督となる。 レオナルド ウッド氏の前任者。 コモンウェルスのフィリピン人大統領になってから大統領アドバイサーとして呼び戻され以後4代大統領までフィリピンの為に働く。 ちなみに離婚再婚を繰り返し6番目の最後の奥さんはフィリピンの女性 マリア テレサさん、ニュージャーシーで亡くなった後フィリピン マニラに埋葬された。

ハリソン通りにはバギオ パークホテルという4スターホテルがあり、マカティーのインターコンチへの直行便が出ていたこともあり観光客でにぎわっていたが、1990年の地震で崩れてしまった。 また現在のBPI銀行の辺りはダンワバスの停留所がありボントック方面に行く乗客でにぎわっていたそうだ。

4. キャンプ・ジョン・ヘイ

ジョン ヘイ(John Milton Hay) はアメリカの政治家、外交官、作家、ジャーナリストとして活躍。 アブラハム リンカーンの私設秘書を務めた人物。 後に12代目国務長官に任命され1898年から1905年までマッキンリー大統領、ルーズベルト大統領にも仕えた人物。 この名前がつけられたのは基地創設当時の国務長官だったからです。

以前のゲートは現在のパナグベガ パークのところ。 身分証明書があれば誰でも自由に入場することが出来、マノーホテルがある場所はクラブハウスと呼ばれ、両サイドは軍人の宿舎があり 真ん中にバギオで一番美味しいステーキ屋があった。 またその近く(山側)にはハネムーンコテージと言うのがあり、文字通りハネムーンの軍人たちが宿泊した場所があった。

ジョンヘイのなかには19th Teeと言うレストラン、ゴルファーがプレイを終わらせた後一服するところがあり、そこのハンバーガーはまさにアメリカンサイズ、支払いはペソも使えたが基本的にはドルだった。コーラの自動販売機があり中の軍人にペソを50センツに変えてもらいわざわざ自動販売機でコーラを買っていたのは私(著者)です(汗)。


5. ピープルズ パーク ・ マルコム スクエアー

ジョージ マルコム(George A. Malcolm) は1917年、35歳でアメリカ ウィルソン大統領によりフィリピン最高裁判所裁判官に任命された人物。 彼の最大の功績はフィリピン国立大学・法学部の設立、法学部の建物はマルコム ホールと呼ばれる。

現在はピープルズ パークと呼ばれているが 以前はマルコム スクエアーと呼ばれていて、靴磨き、新聞売りとチェスに夢中になっているおじさんたちが共存していた場所であった。 BPIファミリーバンクの隣りに映画館があり、カンフー映画を見るならここ と言う場所だった。


6. レオナルド ウッド通り

レオナルド ウッド(Leonard Wood) は軍人で1903年から1906年までの間、イスラム教の反政府勢力を制圧するのが目的でフィリピン南部のミンダナオ島モロ地区の知事となる。 アッパーセッションからマインズ ビュー パークに行く道の名前。

途中のボタニカルガーデンの奥には日本軍が掘ったとされる洞穴があるので、勇気がある人は懐中電灯を忘れずに。

ちなみにサファリロッジの隣にある家がアロヨ大統領の別荘です。


7. ライト パーク

ルーク ライト(Luke E. Wright) は1904年から1906年までのフィリピン総督。 当時アメリカで一番有名だった設計士バーンハムに フィリピン・バギオを「アメリカ軍人と民間人のレクリエーション施設」というコンセプトを基に都市設計を指示した人物。

フィリピンから日本へ移動1906年から1907年までは駐日大使であった。その後1908年から1909年のアメリカ合衆国陸軍長官(後の国防長官)となる。 なんかバギオってアメリカの偉い人が結構関係してますよね。


8. ガバノール パック通り

ガバノールとは知事のこと、だから日本語だとパック知事通りとなる。この名前はウィリアム パック(William Pack)からつけられた。 彼は1901年ベンゲットの知事として任命され、またマウンテン州の初代知事としても知られる。 この道にはバギオをサマーキャピタル(夏の首都)とした会議(セッション) が行われた場所の跡地がある。
またその会議へ行く途中に使用した道が「会議への道」という意味の「セッション ロード」 です。

ちなみにマウンテン州はフィリピンで唯一の英語名のついた州の名前 って知ってました?


9. メルビン ジョーンズ

メルビン ジョーンズ(Melvin Johns) は子供たちがサッカーをやったり、バギオ市の色々なイベントを行うスタンド付グランド。 実はこの名前は1917年に設立されたライオンズクラブの創立者から取った名前です、シカゴの実業家であったメルビン・ジョーンズの夢は狭い地域に限られたビジネスクラブの活動範囲を、単に事業に関する問題から地域社会や世界全体の福祉の問題にまで拡大するということだった。

このグラウンド、バギオのサッカー少年少女たちの練習場であると共に、バギオでのイベントでは必ず使用されるグラウンドですね。 以前は競馬場もあったことが記録に残っているがはたしてそれはメルビン ジョーンズなのか バーンハムの池の周りなのか? 

ちなみに 日本のライオンズクラブは1952年 フィリピン・マニラのクラブがスポンサーになってあげて認証されたんですよ。先進国フィリピン(遠い昔の話・涙)


10. ブレント通り

インターナショナルスクールであるブレントスクールに行く道は、チャールズ ヘンリー ブレント(Charles Henry Brent)主教からの名前。 ブレント主教は1900年にフィリピンに来 てフィリピン聖公会(Episcopal Church of the Philippines)の初代主教になった人物である。 イギリス国教会としても知られる教会でブレント主教はフィリピンで白人のためのブレントスクール、少数民族のためのイースタースクール(バギオ)を設立し、マニラではセイント ルクス病院(聖路加病院)などを設立した人物。

ちなみにブレントスクール敷地内は電柱がなくすべて地中に埋まっているんですよ、バギオ初 ?

アバナオ通りから移動してきた50’S DINNERは名前の通り50年代のアメリカン イメージ。 ウェイトレスはローラースケートを履き接客する。 古いものが好きな人は近くにある骨董屋さんがお勧め、地下に降りると宝物が見つかるかも・・・。


11. バデン ポウェル イン (Baden Powell Inn)

ロバート バデン ポウェル(Robert Baden-Powell)と言う人物から来た名前ですがご存知ですか?  SMのすぐ下、バスターミナルが続く道、ダグパン バス ターミナルのすぐ近くにあるのがBaden Powell Innです。

名前になじみがないかもしれませんが、彼はボーイスカウトの生みの親でタイトルとはちょっと異なり(汗)ますがイギリス人。 バギオで唯一のイギリス人の名前がつけられた場所かも知れませんね。 上記のバギオをサマーキャピタルとする会議が行われた場所は、この宿にあり、記念碑みたいなのがあります。

バギオでもボーイスカウトは盛んで、よくジョンヘイにキャンプをしに行きました。 皆本格的で インスタント食品は一切使わず、キャンプを張っていきなり地元式ハムつくり(豚肉を保存する)をはじめたのを覚えています。


12. ニードラー通り Kneedler Road.

ニードラー医師は軍医として1900年ごろフィリピンに来た後フィリピンに住みつき、次々と不動産を購入、不動産で富を築いた人物。 1932年ごろはマニラ ベイビュー ホテルのマネージャーをしていた。  バギオ ジョンヘイの近くにあるその道の名がなぜ彼の名前に基づいて命名されたかは不明だが、バギオに住む人にとってもニードラー通りはなじみがないはず。この道はサウスドライブ(ジョンヘイからパクダルに抜ける道)に入り口がある道で、お金持ちの別荘なんかがあるらしい。

13. バギオ・ロアカン空港

1932年3月11日 ロアカン空港に最初の飛行機が着陸した。 このフライトの乗客はアメリカ人のハルセマ バギオ市長。 実はこの空港が出来る前1919年クリスマスの日にアメリカ空軍兵が飛行場ではないバーンハムに着陸している。 同じ日にトリニダッドにも違うパイロットが着陸を試みたが失敗してしまった。 この事故からちゃんとした飛行場建設が必要となり、当初トリニダッドかポロ フィールド(ネイビー ベース)への建設が浮上したが 霧、人口密度の条件により却下された。 バギオからちょっと遠いが天候がよく乾きが速いラウニオン州ロザリオ、もしくはナギリアンへの計画もあったが、結局 当時田んぼだったロアカンを住んでいたイバロイ族から(無理やり)購入し1932年に開港 3月11日に初着陸、これが「アジア初」 民間航空会社(フィリピン エア ライン)によるマニラ-バギオ間のフライトとなった。


バギオの地図へ =>  リンク 1 
                リンク 2 
               リンク 3


(投稿: JANL副代表 YSさん)
[PR]
by janlbaguio | 2008-07-12 15:28 | 会員 エッセイ・コーナー
<< Baguio City Mar... こども達がたくさん集まってくれ... >>