12月8日に寄せて ・・・ 現場にいた少年からの便り


1941年12月8日のバギオ。
その当時 バギオの日本人学校の生徒であった方から下のようなお便りをいただきました。

―― 引用 ――

昨日は、私の忘れることのできない12月8日でした。
さて、1941年の12月8日、ジョンヘイに日本軍の空爆があったのは確かです。私の同級生が、その日の朝、学校の窓から、日の丸の付いた飛行機が飛んでいたということを私に話してくれました。しかし、本(注: バギオ100年祭委員会が出版した本)に書かれている17機の爆撃機というのは、少しおかしいと思います。同級生の見たのは、たしか数機ほどだったのですが・・・しかも、「250の爆弾」とは250k級の巨大な爆弾なのか、それとも250発の爆弾なのか、どちらでしょう? ジョンヘイに落とされた爆弾は、並みのもので、せいぜい数発だったはずです。(ジョンヘイは米軍の施設でした。フィリピン軍を攻撃したのではないはずですが・・・)

バギオ周辺に在住の日本人は警察隊に集められ、成人男性は、ジョンヘイ内に収容されましたが、婦女子はロクバンの新校舎に集合しました。あわただしい中でも、整然と無事故で。(当時の日本人会は、開戦を予想していましたから、事前に校舎の一室に、秘かに食料を大量に貯蔵し、緊急時には学校に集まることになっていたのです。そして、日本のラジオ放送は短波ラジオで受信していました)

バギオに一番最初の日本軍の小隊?が、ナギリアンロードから上がってきて、墓地(バギオ・セメンテリオ:バギオの市営墓地、クイサンホテルの隣)に隠れていると、日本人に知らせてくれて、貴方たちが迎えに行きなさいと言ってくれたのは,バギオの知り合いのポリスでした。私も同窓生たちと一緒に、マグサイサイ通りの途中まで迎えに行きました。そのときの日本の兵隊さんたちが、緊張していてニコリともしないでいたのが、印象に残っています。

更に正確で詳しい開戦当時のバギオの話は、残された資料で調べる必要はあると思いますが、当時小学生だったとはいえ、私が知る限りでは、その本の記述は、かなりいい加減なところがあるといえなくもありません。因みに、世に知られている歴史書等は、案外そんなものかもしれませんね。

余計なことですが、ひとこと述べさせていただきました。お許しください。

古屋英之助

―― 引用終わり ――

古屋英之助氏は、戦前のバギオにご家族でお住まいだった方で、現在は日本在住ですが、「バギオ・ボーイ」として頻繁にバギオを訪問されている写真家です。
このお便りは、古屋氏のご了解をいただいて掲載しております。
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by janlbaguio | 2009-12-10 00:04 | History バギオの歴史
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