2010年 05月 30日 ( 1 )

バギオの歴史コーナー - 戦時編 <その3>


この「バギオの歴史」コーナーでは、シリーズとして、「続 イフガオの墓標」 (宍倉公郎著 昭和55年 育英印刷興業 発行)からの抜書きをご紹介しています。

今回は、バギオの目抜き通りであるセッションロードなど町の様子のくだりです。

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p14-19

メーンストリートのセッションロードは勾配の急な坂道で、その両側には二階が歩道にまで張り出したエキゾチックな家並みの店舗がひっそりと立ち並び、人通りもまばらで清掃のゆきとどいた街路には紙切れ一つ落ちていなかった。 セッションロードの坂をおりてゆくと、つきあたりに大きなマーケットがあってバナナ、パパイヤ、マンゴーなど南国の果物が縁台にあふれ、缶詰や食糧品などが山積みとなって、買出しの人達でにぎわっていた。 内地を出発する頃、東京ではジョッキー一杯のビールを飲むのにビヤホールの前に行列をつくっていたが、バギオではビールなどは街にあふれていたし、少尉クラスの安月給(六十円)の吾々にとって、たまに飲む一本四円のホワイトホースは手頃な飲みものであった。

(中略)

朝、六時になると丘の上の教会の鐘が鳴り響いた。 早起きの私はよくローラースケートを持って眼下のスケート場に出かけていった。 (中略) 宿舎の裏から細い小径を下り、アスファルト道を横切って露深い草叢を駆け下ると公園の片隅に出た。 バギオの街は、まだひっそりと深いねむりに沈んでいて人っ子一人歩いていない。
(中略)
1時間ほど滑って帰りは露にぬれたアスファルトの本道を帰ると、マーケットに行くカリトンによくすれちがった。 カリトンというのは小さな低い木製の車で、後に荷物を積む浅い箱がついたものである。 バギオはアスファルトの坂道が多いせいか、郊外の人々は市場の買い出しや野菜、果物の売り込みなどによくこれに乗ってやってくる。 

(中略)

・・・・外出をしては映画を見たりボーリングをやったりした。
セッションロードの坂の上にあったアルハマルチアターのもぎり嬢は美しいミスティサー(混血娘)であり、坂の下りくちにあったパインスチアターのもぎり嬢も色白のミスティサーであった。 またマーケット裏のバギオチアターのもぎり嬢は、・・・・

(中略)

映画が終わって外に出ると宵闇がせまっていた。 高原の都の夕暮れは霧が街角の外燈をぼんやりと包んで、そぞろにロマンチックであった。 街には華僑の経営する大きな中華料理店や日本人経営のレストランがいたるところにあった。
セッションロードの坂の途中から左に入ると小肥りの日本人マダムが経営する松屋食堂があったし、マーケット前の広場に面してアディン(イロカノ語で妹の意)の住み込む日の出食堂があった。 ・・・・出てきたのは年の頃六十くらいアッパッパー姿の日本人の婆さんで、それこそ西部劇に銃でも構えて出てきそうな一くせも二くせもありそうな面構えで吾々を一瞥した。

(中略)

広場の露路を入ると東洋堂ベーカリー、憲兵隊裏にはサツキ食堂、マーケット前の坂道を上るといかにも強者らしい女将の経営する富士食堂など、それぞれに在留邦人が活躍していた。

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これを読んでいると、昭和18,19年ころのバギオの目抜き通りであるセッション・ロードから、シティー・マーケット周辺の雰囲気が活き活きと浮かび上がってくる。
それにしても、その当時から少なくとも3つの映画館(チアター)があったとは驚きである。 当時のことをよく知っている方に聞いた話では、その頃は子供が親と一緒に映画館に行く時などはかなりのお洒落をして外出したという。
今のバギオの街角を歩きながら、これらの映画館や食堂などがどこにあったのかを探し回ってみるのも楽しいかもしれない。
そして、それらの繁栄を全て奪ったのは何だったのか・・・・
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by janlbaguio | 2010-05-30 23:33 | History バギオの歴史