カテゴリ:History バギオの歴史( 78 )

フィリピン・バギオ市の歴史とその周辺の日本人・日系人に関する論文、記事、小説など

Japanese community in the History of Baguio City, Philippines



バギオ市の歴史は、1901年に始まったケノン・ロード(当時のベンゲット道)
という山岳道路の建設に始まったと考えても良いでしょう。
1903年には日本人労働者が工事に参加し、その後の戦前・戦中・戦後の
日本人、日系人の歴史が刻まれています。

ここでは、バギオ市と日本人・日系人の歴史を踏まえ、インターネットで
検索できた論文やメディアの記事、推薦したい書籍などをリストアップ
してみます。

皆様のお役に立てば幸いです。



(1) Japanese Pioneers in the Nothern Philippine Highlands
http://nbdb.xeozone.net/national-book-award/japanese-pioneers-in-the-northern-philippine-highlands/

敢えて訳せば「北部フィリピン高地に於ける日本人開拓者たち」でしょうか。

1903年の日本人移民開始から2003年までの、日本人・日系人の
100年間の歴史を集大成した貴重な書籍です。
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(2) 大学などの研究者による論文


京都大学 小島勝
南方関与の多重性と教育の論理
- フィリピンとバギオ日本人学校の混血二世教育 -
1996-11-30
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/187643/1/ias_027_075.pdf



九州産業大学 森谷裕美
フィリピン・北部ルソン社会における日系人のアイデンティティ
2014年
http://repository.kyusan-u.ac.jp/dspace/bitstream/11178/99/1/kokubun57-3.pdf



上智大学 飯島真里子
九州大学 大野俊 
フィリピン日系「帰還」移民の生活・市民権・アイデンティティ
2010年?
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/16966/p035.pdf
日本には現在、40万人前後の外国籍の日系人とその家族が暮らしているが、この中には近隣アジア諸
国から「帰還」した日系人もいる。その中でも近年、急増したフィリピン日系人(戦前期フィリピンへ
の日本人移民の子孫) について、筆者たちは2008年12月から2009年3月にかけて、彼らの生活・市民権・
アイデンティティなどを探る質問票配布による全国実態調査を実施した。


九州産業大学 森谷裕美
フィリピン北部ルソンにおける日系人と「イゴロット」の関係性
2013年
http://repository.kyusan-u.ac.jp/dspace/bitstream/11178/73/1/kokubun55-6.pdf



帝京大学 佐々木靖
コルディリエラの日系人
2011年?
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/tandai32-02.pdf
筆者はかつてバギオで、本稿第1 章に登場するシスター海野からフィリピン日
系人の話を聞いたことがある。青年海外協力隊の隊員としてフィリピンに赴任し
ていた1986 年に、ルソン島北部を任地とする隊員たちにより開催された「北部
ルソン大会」に参加したときのことである。


東京財団研究報告書 河合弘之
フィリピン日系人の法的・社会的地位向上に向けた
政策のあり方に関する研究
2005ー6年
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2005/01028/pdf/0001.pdf
フィリピン日系人とは、19世紀末頃から太平洋戦争終結までの間に
フィリピンにわたった日本人移民の子で、戦争によって父あるいは
両親と離れ離れになり、現地に残された人びと、およびその子孫の総称である。



JFE21世紀財団
九州産業大学  森谷裕美子
フィリピンにおける北部ルソン日系人社会の歴史的経験に関する研究

Historical Experiences of Japanese Immigrants and Their Descendants in
Northern Luzon, Philippines
http://www.jfe-21st-cf.or.jp/furtherance/pdf_hokoku/2015/a14.pdf
これまでの日系移民研究のほとんどはアメリカやブラジル、ハワイに
関するものであり、戦前、フィリピン各地にいくつもの日本人の
コミュニティが形成され、その多くが現地の人々と結婚した
り、そこで豊かな生活を送っていたりした。しかし、こうした事実を
知る者はきわめて少ない。





(3) 新聞社などメディアによる記事


マニラ新聞 シリーズ・連載
移民1世紀 第一部・1世の残像
第一回・ 「優しい道」は祖父の道
2003.01.02
http://www.manila-shimbun.com/award/%B0%DC%CC%B1%A3%B1%C0%A4%B5%AA%A1%A1%C2%E8%A3%B1%C9%F4%A1%A6%A3%B1%C0%A4%A4%CE%BB%C4%C1%FC/award130000.html


日経アジア・ギャラリー
フィリピンの高原都市バギオ
日本人街の面影

[文・写真] 澤田公伸 [古写真] 古屋英之助氏提供
https://www.nikkei.asia/gallery/vol79/79_tokushu2.pdf


マニラ新聞 NAVIマニラ
バギオ物語 第2回
フィリピンのスカイランド 高原リゾート バギオ
戦前のバギオに生きた邦人写真師
古屋正之助氏 ~アギナルド将軍とも親交~

http://www.manila-shimbun.com/navi_manila/navi_pdf/vol3/navi0309.pdf


講談社 現代ビジネス
陛下の前で涙を流した彼らは何者か
~放置され続けたフィリピン「無国籍邦人」という問題

北島純
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47673
もともとフィリピンは日本人にとって、最大の移民先の一つであった。
1903年(明治36年)、当時フィリピンを植民地としていたアメリカに
よってルソン島北部にあるバギオが避暑地として開発されることになり、
そこに至る「ベンゲット道路」(ケノンロード)の開発に従事する
ために、2000人以上にものぼる日本人が労働者として移住したのが
その先駆けである。


ヒューライツ大阪
国際人権ひろば
50周年を迎えた「日比国交正常化」の内実を問うフィリピン日系人

大野 俊
http://www.hurights.or.jp/archives/newsletter/section2/2006/09/50.html
日本軍の圧制に苦しむフィリピン人にとっては「ジャパニーズ・
メスティーソ」(日本人の混血)も敵視の対象となった。戦後の
日系人迫害につながるフィリピン人の反日感情は、住民虐殺を含む
日本軍の占領中の行為に起因していることを確認しておきたい。




(4) 取材や体験に基づく小説・回顧録など


バギオ周辺の歴史を知る為の推薦図書です。
(古書の場合は絶版もあります)


バギオの虹―シスター海野とフィリピン日系人の一〇〇年
2003/2
鴨野 守 著
https://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%E3%83%90%E3%82%AE%E3%82%AA%E3%81%AE%E8%99%B9


思い出はマニラの海に 単行本 –
1993/8
郡司 忠勝 (著)
http://janl.exblog.jp/11457127/
https://www.amazon.co.jp/%E6%80%9D%E3%81%84%E5%87%BA%E3%81%AF%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%B5%B7%E3%81%AB-%E9%83%A1%E5%8F%B8-%E5%BF%A0%E5%8B%9D/dp/478260145X/ref=la_B001I7J140_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1489541242&sr=1-1



ルソン戦記―ベンゲット道〈上〉 (文春文庫) 文庫 –
1989/8/10
高木 俊朗 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3%E6%88%A6%E8%A8%98%E2%80%95%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%88%E9%81%93%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%AB%98%E6%9C%A8-%E4%BF%8A%E6%9C%97/dp/416715109X



イフガオの墓標〈続〉 (1980年) - – 古書,
1980/1
宍倉 公郎 (著)
http://library.main.jp/index/jst00025.htm
http://janl.exblog.jp/10620882/
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%AC%E3%82%AA%E3%81%AE%E5%A2%93%E6%A8%99-%E7%B6%9A-1980%E5%B9%B4-%E5%AE%8D%E5%80%89-%E5%85%AC%E9%83%8E/dp/B000J6MZDA/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1489541417&sr=1-1&keywords=%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%AC%E3%82%AA%E3%81%AE%E5%A2%93%E6%A8%99



図南遊記 単行本(ソフトカバー) – 古書,
1913/1/1
梶原保人 (著)
http://janl.exblog.jp/18939480/
https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%B3%E5%8D%97%E9%81%8A%E8%A8%98-%E6%A2%B6%E5%8E%9F%E4%BF%9D%E4%BA%BA/dp/B00G442QK8/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1489541791&sr=1-2&keywords=%E5%9B%B3%E5%8D%97%E9%81%8A%E8%A8%98



BAGUIO PRECIOUS MEMORIES
published by Leonides and Aurora Bautista
(published in 2012 ? )
http://janl.exblog.jp/17573251/
http://janl.exblog.jp/17888942/

 
A Century of Being Baguio
バギオ100年祭委員会 
http://janl.exblog.jp/9348137/


City of Pines
The Origins of Baguio
as a Colonial Hiss Station and Regional Capital

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(「松の都市 
  ― 植民地の高原避暑地及び地域の主要都市としてのバギオの起源」)
Robert R. Reed 著
http://janl.exblog.jp/6223626/



北ルソン日本人会のサイトの内「バギオの歴史」の索引はこちらです:
過去の記事の一覧
http://janl.exblog.jp/i10/8/


==ご注意==

この情報は 2017年3月15日現在のものですので、
リンク切れの場合はご容赦下さい。

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by janlbaguio | 2017-03-15 11:27 | History バギオの歴史

バギオ市で歴史遺産指定、保存活動の動き  Heritage Mapping Project

先日2017年1月25日に このような会議が開催されました。
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「バギオ歴史遺産マッピング・プロジェクト」の関係者が集まっての会議です。

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進行役は フィリピン大学バギオ校の教授の皆さん。
バギオ市における歴史文化遺産の調査をされた教授から発表があり、関係者の間で意見交換がされました。

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参加者は、パイン・コーン・ムーブメントという団体、バギオ市の市議会議員、観光省、バギオ歴史遺産財団、バギオ博物館、学校関係、など、バギオの歴史的遺産の保存と観光資源としての活用に関係のある皆さんが勢ぞろいされました。

(以下の英文は FACEBOOKからの引用です)

Baguio heritage mapping project validation and consensus on
what sites and structures to protect, thanks to very useful insights
from all. Kudos Pine Cone Movement for supporting the initiative.
We appreciate City Mayor's office, CEPMO, DOT-CAR, SP members Fianza/Datuin/Yaranon/Yangot, Div of City Schools, Roger Sinot,
March Fianza, Vicky Makay, UP Baguio students and history instructors,
Karminn Daytec Yangot, UB, Baguio Museum's Stella de Guia, Precilla
Balacio, Nonnette C. Bennett, Erlyn Alcantara, Monin Navarro,
Laida Lim and Ron Paraan for BHFI, Mita Angela M. Dimalanta,
Melle Bisnar, June Brett, Chat Delos Reyes, Edcel and Maria Guadalupe
and Ambet and other guests. Thank you to Dr Rowie Boquiren for
spearheading this project and unifying all sectors towards heritage
mapping of Baguio City!

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プログラムにあるように、この会議では、
ー 文化遺産・歴史遺産の定義の確認
ー 歴史遺産保存の方法
ー バギオ市における現状
などの研究報告があり、参加者の様々な意見交換が進められました。

・・・・・

そのプレゼンテーションの中に いくつかの興味深い資料がありましたので、
一部を御紹介します。

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時代区分は:
ー スペイン植民地以前
ー スペイン植民地時代
ー アメリカ植民地時代

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そもそも、バギオ周辺の土地には その初期に、どのような人たちが定住していたのか。

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そして、その人々は どこに定住していたのか。

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昔からの地名や定住していた部族名などが紹介されました。
(撮影の都合で順番が前後しています。)

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具体的にはどのような建築物などが候補にあがっているかも紹介されました。

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多くの候補地の中で、日本人が関係しているものはこの3つがノミネートされています。
まず 「バギオ日本人学校」。

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二つ目は 「ケノン・ロード」(当時の名称は「ベンゲット道路」)

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三つめは 「山下奉文大将の降伏文書署名式が行われた現在のアメリカ大使公邸」。


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今後は8月まで 上記のようなスケジュールで このプロジェクトクトが進められるそうです。

・・・・・

今回のこの会議に、バギオ博物館とフィリピン大学バギオ校からお声が掛りまして、
以下の 「バギオ歴史探訪アート・マップ」を JANLの分科会から参考資料として
提出致しました。

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このアート・マップは、JANLの分科会活動として 1年ほど前から進められて
いたもので、多くの皆様の御協力を得て この最初の1枚が この会議に
間に合いました。

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表面には1930年代のバギオ市の街並み、ジャパニーズ・バザールなど、を再現し、
裏面には現在のバギオ市にある 歴史遺産の場所を アートで表現した地図になっています。

本日現在はまだ印刷中で、2月22日(水)に Casa Vallejoホテルの建物の中にある
Mt. Cloud Bookshop で販売開始の予定になっています。

図らずも、バギオ市全体の歴史文化遺産を守ろうという動きに呼応するタイミングに
なったことを有難く感じております。

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(photo by : Pine Cone Movement Inc.)
このアートマップ制作をお願いした フィリピン大学バギオ校美術学部のOGにも
この会議にご参加いただきました。
   


=====

この会議の主催者のひとつである The Pine Cone Movement, Inc. (PCMI)は
以下のような団体です:

http://pcmibaguio.wixsite.com/pineconemovement

Mission – The Pine Cone Movement, Inc. (PCMI) will work towards a commitment in realizing this vision primarily through protecting and preserving the environment, in gratitude to its past heritage and sustainable future, by raising funds, accpeting donations, by cooperating with national and local government agencies and other activities that will promote it, conducting information drives and organizing forums to discuss issues.



             
   

     

  
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by janlbaguio | 2017-01-28 12:50 | History バギオの歴史

「第7回・アジア太平洋国際平和慰霊祭」 -- 抗日ゲリラの拠点の町で開催

毎年12月に 映画監督の今泉光司氏のNPOとバギオ市の隣町のNGOが協力して
「アジア太平洋国際平和慰霊祭」が開催されていますが、
今年は12月4日に ベンゲット州カパガン町の町役場の協力を得て実施され、
その模様がラジオ番組としてルソン島北部一帯に生放送されました。

バギオ・ミッドランド新聞でも報道されました:
http://www.baguiomidlandcourier.com.ph/life.asp?mode=%20archives/2016/november/11-20-2016/life7-Kapangan-to-host-7th-Intl-Peace.txt

The 7th APIPM will be held aired through a special program in DZWT on
Dec. 4 form 11 a.m. to 1 p.m. with Mayor Manny Fermin, Cristy Aban
of Iyaman, Jimmy Fong, Koji Imaizumi of Salubong-Tokyo, and local
singer Sendong. After an offering of prayers, war stories of elders and
reactions from the youth will be told.


====

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今年は その第七回で、戦時中は抗日ゲリラの拠点として日本軍と闘った町での開催でした。

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ステージには、AMラジオ局 DZWT540の担当レポーター、ラ・トリニダッドのNGO、
今泉監督、日系人二世の女性、フィリピン大学バギオ校の教授などが登壇し、
ラジオ番組に参加しました。

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まずは 開会のお祈りとフィリピン国歌です。

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カパガン町役場の方々や日系人などの参加者全員で 全ての戦没者の慰霊式典があり、番組が進みました。

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北ルソン日本人会からは 代表と副代表の二名が参加致しました。

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町役場の前に立つ バド・ダンワ少佐の像。

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このダンワ氏は、ルソン島北部山岳地帯一帯の抗日ゲリラを束ねるゲリラ指導者の一人として有名で、この通りこの町のヒーローと認められています。

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そのゲリラ部隊 第66歩兵部隊の研究などをしている若い男性から、
この地図が参考資料として回覧されました。


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抗日ゲリラ部隊が拠点としていた「キャンプ・ユートピア」があった場所の地図です。
この拠点は 会場となったカパガン町の中心部からさらに山の中に入ったところに
あったそうです。

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番組の中で 事前に収録された地元の人たち5名の戦争体験のインタビュー
流され、その話に参加者の皆さんたちも聴き入りました。

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地元 山岳民族出身のシンガー・ソングライターの歌は、戦争中の日本兵の行動を
コミカルに歌った曲もあり、会場を沸かせました。

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なお、ラジオ番組は当初予定の11AMを前倒しで10AM過ぎからスタートし、
1PMまでの3時間弱で放送されましたが、JANL代表のスピーチも20分間流されました。

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(photo by : Gal-ad Macsimo)
この番組で収録された内容は、ほとんどが地元の言語でしたので、
後日 英語版および日本語版を書面で作成する予定だそうです。


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カパガン町役場。
バギオ市からはハルセマ・ハイウエイの料金所手前を左に入り、
車で2時間ぐらいの会場でした。

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キャンプ・ユートピアは この山向こうにあったそうです。

  
毎年、バギオおよび周辺地域での歴史を学ぶ機会を与えていただき
感謝致します。

・・・・・ ちなみに、昨年のラジオ番組の内容は、こちらでご覧になれます:
https://d1b80iuu8a36ja.cloudfront.net/bbs/bbs/data/magsalitayo/img/187_7cba62ff62.pdf



                 
The 7th Asia Pacific International Peace Memorial was
held at Municipal Hall of Kapangan, Benguet,
where Camp Utopia located during WWII as the
base of Anti-Japan guerillas...
this event was broadcasted thru DZWT540 AM radio.

========

The below is a message by Mr. Koji Imaizumi, from facebook:


Thank you to all the listeners of DZWT 540kh during the airing of the 7th APIPM in Lomon, Kapangan. APIPM is a voluntary effort conducted yearly to shed light to WWII events that we may achieve healing from the brunt of war.

Event Proponent & Organizer: Mr. Koji Imaizumi

Program Hosts:
Mr. Aljun Fermin & Co.
Ms. Cristy Segnaken-Abad
Mr. Jimmy Fong

Venue & Sound System: LGU-Kapangan

Resource Persons:
Mr. Samuel Dangwa
Mr. Pio Lano Doro & Ms. Mary Yap
Mr. Domedio Sipol & Ms. Loreta Sipol
Mr. Kiban Billy
Mr. Bilas Wallak
Mr. Katano
Mr. Hidenobou Oguni
Mrs. Flora Calsi
Mr. Dave Bastian Montes

Performer: Mr. Rosendo Salvacio aka Sendong

Documentation:
alvin b. アルヴィン
Gal-ad Mcsimo

Assistant:
Ray Jordan Bastian Montes

Driver: Mr. Al Gomez

Special thanks to Sons and Daughters Asso. Inc.(SDAI-Benguet Chapter)

                         
    
=============== End ==============
    
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by janlbaguio | 2016-12-05 13:21 | History バギオの歴史

「フィリピン残留日本人」 船尾修写真集 : 歴史を形にした作品の御紹介

フィリピン・バギオ市とも大いに関係がある素晴らしい写真集が出版されました。

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この写真集は 写真家 船尾修氏の作品で、この「フィリピン残留日本人」を作る為に、フィリピン各地を取材し、バギオ市にある日系人会館「北ルソン比日基金」(アボン会館)などでも調査をされました。

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御存じのとおり、1900年代の初期に、ベンゲット道路建設や多くの建物の建築に携わった日本人移民。
戦前のバギオ市は、在留邦人が目抜き通りのセッション通りに様々な商店などを出し、また、隣町のラ・トリニダッドでは高原野菜を作るなど、高原避暑地バギオの都市建設に大いに貢献していました。

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また、バギオには日本人学校や多くの日本庭園なども 日本人の手で造られました。
バギオで成功を収めた日本人は、日本の親戚に仕送りをするなど、大いに繁栄していました。

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しかし、その繁栄をすべて破壊したのは 第二次大戦でした。
日本人、日系人は 家族と離れ離れになり、フィリピンに取り残された人たちは
迫害を逃れて山奥にひっそりと隠れ住む生活をつづけました。

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そして、ルソン島北部山岳地帯一帯には、今 7千人以上の日系人が数えられています。
日本人移民の研究については、こちらをご覧ください:
http://janl.exblog.jp/23148027/

    

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そこへやってきたのが船尾修氏でした。
元々は世界遺産の撮影でやってきたフィリピン。
偶然にも そこで上記のような出来事があったそうです。

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重厚な写真集には、巻末に ひとつひとつの写真の簡潔な解説が掲載されています。
戦後70年ともなる現在、歴史の中に埋もれようとする日本人の営みを記録する
貴重な一冊であることは間違いありません。

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Descendants of Japanese immigrants to the Philippines displaced by war.

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JAPANESE REMNANTS OF WAR IN PHILIPPINES
BY : OSAMU FUNAO


この写真集については、新聞でも報道されました:
毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160218/k00/00m/040/018000c


大分合同新聞
https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2015/12/26/131335912

             
この写真集は、amazonでも購入ができます:
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E6%AE%8B%E7%95%99%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA-%E8%88%B9%E5%B0%BE-%E4%BF%AE/dp/4887731671



写真家 船尾修氏の 公式サイトはこちらです:
http://www.funaoosamu.com/





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by janlbaguio | 2016-11-28 12:40 | History バギオの歴史

バギオの歴史: 110年前の日本人移民と日系人社会

フィリピン・バギオ市は 1901年に始まった ベンゲット道路(現在のケノン・ロード)建設を
皮切りに、アメリカ植民地政府が 「保養地」として開発した計画都市ですが、
その開発に 1903年から日本人労働者が携わっています。

その端緒となった「ベンゲット移民」から 現在に至るまでの 日本人、日系人の
バギオを中心とするルソン島北部山岳地帯での歴史を 九州産業大学の森谷教授が
研究され、その論文が公開されていますので ご紹介します。

http://www.jfe-21st-cf.or.jp/furtherance/pdf_hokoku/2015/a14.pdf#search='日系人会+アボン歴史'

「これらの移民たちは、「移民」と一言でいっても、移住先となった社会でそれぞれに
異なる経験をしているのであって、本研究でとりあげるフィリピンもまた、北米、中南
米の移民とは大きく異なる。こうした多様な国際移民の実情を把握し、それを経済的側
面だけでなく社会的影響と併せて考察することは、海外からの研修生の研修期間延長や
家事労働者の受け入れなども検討されている昨今、グローバル化された世界における日
本の今後の見通しを立てるうえで重要な意味をもつに違いない。」

・・・・・・・・・・・

また、これとは別に、日本本土からの移民と 沖縄からの移民について、
大変興味深い情報があり、上記の「ベンゲット移民」の中に 一年遅れの1904年に
労働者として参加した沖縄からの360名がいて、ケノン・ロードに 道路建設犠牲者の
慰霊碑があることが分かりました。

以下のサイトに沖縄からの「ベンゲット移民」の記事がありますのでご覧ください。

沖縄県の歴史学習 「海外移民」
http://www.cc.u-ryukyu.ac.jp/~yamauchi/08-fuzoku02.pdf

「(8)幸地伸氏(沖縄フィリピン協会会長)との対話

フィリピンへの沖縄移移民第1号は1904年(明治37年)、ルソン島中部の高原都市バギオと低地を結ぶベンゲット道路の建設工事に雇われ、バシー海峡を渡った出稼ぎ労働者360人。翌年道路の完成にともない、移民らは新天地を求めてミンダナオ島のダバオへ流れ、マニラ麻栽培の開拓に乗り出す。言葉や習慣の違いよる現地人との衝突、マラリア風土病などに戦いながらの開墾であった。」

・・・・・・

さらに、上記の沖縄からの移民に関連して、以下のサイトに当時の本土からの移民と
沖縄からの移民の間にあった歴史に根差した違いがあったことが述べられています:

「琉球国の滅亡とハワイ移民 (歴史文化ライブラリー)」
http://kousyou.cc/archives/11106

「1944年の部外秘とされた米国海軍省資料の記述が興味深い。・・・・・
『日本人と琉球人(沖縄人)とのあいだの、たいへん近い民族的関係や、言
語の類似性にもかかわらず、琉球人は日本人からは民族的に平等だとはみなされていない。
・・・・ところが一方、琉球人の方は、自分たちが劣っているとは全然感じておらず、
自分たち自身の伝統や、中国との長期にわたる文化的紐帯に誇りをもっている。」

・・・・・・・・・・・・・


「ダバオ国」の沖縄人社会再考 -本土日本人、フィリピン人との関係を中心に-」
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp:8080/bitstream/123456789/6447/1/No2p001.pdf

「ダパオに定住する最初の邦人移民のコア集団は,いわゆる「ベンゲット移民」である。ベンゲット移民とは,バギオというルソン島中部の高原の避暑地(夏の首都)に通じる「ベンゲット道路」工事のために導入された日本人建設労働者のことで,1903年から道路が完成する1905年初めまでの間,一説には延べ約2,800人が工事に従事した(東亜経済調査局1936:212)。この中心は,沖縄人と九州人だった(米田1939:31)。沖縄からのベンゲット移民は,本土日本人移民より1年遅れの1904年4月に現地入りした。」

・・・・・・・・・・・・

さらにご興味をお持ちの方は、こちらのサイトをご参照ください:
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/08/post-44c5.html


ケノン・ロードにある 北ルソン比日基金が管理している展望台と記念碑については、
こちらのページでご参照ください:
http://janl.exblog.jp/7076729/

                 

以上、ご参考まで。




                     

                
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by janlbaguio | 2016-08-22 14:58 | History バギオの歴史

バギオの歴史写真展 : What Photographs Tell Us About Baguio's Past 開催中

バギオ市の歴史を振り返る写真展が 6月17日から8月20日まで開催中です。

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会場は メリノール・エコロジカル・サンクチュアリ。

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マルコス・ハイウエイから カンポ・シオコに入ったところにあります。

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6月17日のオープニング式典の模様を ご報告します。

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式次第。

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NCCA(日本の文化庁に相当?)メンバーの挨拶。

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フィリピン大学バギオ校 人類学名誉教授から、歴史的写真が持つ学術的な意味についての講演。

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今回の展示会の主催者である 歴史家でキュレーターの アルカンタラ女史。

同女史は バギオの歴史書 「CITY OF PINES」の出版にも関わった方で、
お話の中に、日系人会・北ルソン比日基金が 移民100年を記念して制作した書籍
「JAPANESE PIONEERS IN NORTHERN PHILIPPINE HIGHLANDS」
のことなどもありました。


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テープカットの後、展示室が公開されました。
戦前の日本人在住者に関わる写真も ここそこに展示されています。
当時の バギオ日本人学校の写真もあります。

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来場者の中には、日系人会の事務局長ほかスタッフの姿もありました。

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北ルソン日本人会の分科会で、「戦前のバギオ探訪マップ」を作ろうという
企画が進められていますが、この写真展は大きな参考資料となりそうです。

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写真の中には、北ルソン日本人会の名誉会員のお一人である写真家、戦前のバギオ生まれである古屋英之助様の写真も展示されていました。

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期間中のご見学を お勧め致します。


   

     
    
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by janlbaguio | 2016-06-17 22:41 | History バギオの歴史

1950年代の フィリピン・バギオ市の映像



1950年代の フィリピン・バギオ市の映像を紹介していただきましたので、
ご参考までに掲載いたします:

https://vimeo.com/121960862


この動画に含まれているのは、以下のような場所です:

ー ケノン・ロード 
ー キャンプ・ジョンヘイ
   (今のマノール・ホテルの敷地にあったメイン・クラブなど)
   (ベル野外円形劇場)
ー 戦車の残骸
ー マンション・ハウス (夏の大統領官邸)
ー パインズ・ホテルと思われる建物
  (今のSMバギオの敷地に戦後再建されたものと思われます)
ー バギオ大聖堂
ー バギオ市の市街地(爆撃の跡が残っているように見えます)
ー バーンハム・パーク
ー イースター・スクールの機織りと思われる場所
ー バギオ・シティー・マーケット (石造りの建物?)
ー ローデス・グロットのマリア像
ー 木彫りの様子
ー フィリピン・ミリタリー・アカデミー (日本の防衛大学に相当)
ー 戦争で廃墟となった建物 ?


この映像は戦後5~10年ぐらいの時に、米軍兵士の家族が撮影したもののように見えますが、
この時代には バギオ市の山々には 今のように住宅は建っていないようです・・・

今のどこの場所に当たるのか 明確でないところもありますので
間違いがありましたら お知らせいただければ幸いです・・


  
  
  
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by janlbaguio | 2015-03-13 23:23 | History バギオの歴史

バギオの歴史: VINDICATED  ある日本人家族の戦争体験ドキュメンタリー  

元名誉総領事のカルロス寺岡氏が ご自身の戦争体験を語る 短いドキュメンタリー映画が出来ました.

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制作者は お孫さんである レイモンド・寺岡・ダコネス氏です.

こちらのサイトの下の方に掲載されているビデオ映画をご覧ください.
http://vindicated-thefilm.com/

関連情報は FACEBOOKでも ご覧になれます:
https://www.facebook.com/vindicatedthefilm


題名の Vindicated は、
「嫌疑を晴らして」「潔白を証明して」とでも翻訳できるかもしれません・・

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大変貴重なドキュメンタリー作品を制作していただき、
寺岡様、ダコネス様 ご家族に感謝したいと思います・・・
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by janlbaguio | 2014-08-31 16:51 | History バギオの歴史

「フィリピン北部高地の日本人開拓者たち」から、 ある移民の記録

JAPANESE PIONEERS IN THE NORTHERN PHILIPPINE HIGHLANDS
(フィリピン北部高地の日本人開拓者たち)

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随分前にこの本を北ルソン比日基金(通称:アボン)で購入しては
いたのですが、分厚い本に恐れをなして、パラパラとページを
めくり、貴重な写真に見入るだけでした.
たまたま、この本の中に記述されている方の映画を制作すると
いう話があり、この際、じっくりと読んでみることにしました.

拙い一部分の翻訳ですが、ご参考としていただければ幸いです.
(文中の ・・・・は 省略された部分です)


======

第十章
チャールズ・ムネオ・寺岡
バギオの建築請負人

Charles George Muneo Teraoka (寺岡宗雄)は、1926年頃から
1941年まで、バギオ市の総合建築請負業者であった.
第二次大戦を、近隣の人たちや友人によって保管され生き延びた
様々な文書によって、彼の生活や仕事について貴重な詳細の一部
を垣間見ることができる.
寺岡宗雄は、1900年に山口県大島郡に生れ、三人の兄弟と
四人の姉妹の長男であった. 彼の両親と兄弟姉妹が迫村家の
養子となる中で、宗雄一人が寺岡の名字を残すこととなった.
その当時、長男が家に残るという事実もこの話を尋常ではない
ものとしているが、しかし、寺岡は16歳で日本を離れ、マニラの
大工見習いになったのである.
宗雄の子供たちは、父がそのように若い歳で、将来を異境に
求めたのは、その家が極貧にあったためではないかと信じている.

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(上の右の写真は セント・ルイス・ハイスクールの建物とあります)



寺岡は、彼の妻である アントニナ・バウティスタ にマニラで
出会った. 彼女はトンドにある軽食屋に雇われており、
多くの日本人経営の小さなビジネスのひとつで、もんご屋と
してよく知られていた.
アントニナは、1902年にターラック州カミリンに生れ、
寺岡と彼女は、1924年8月にトンド・カトリック教会で
結婚した. それから間もなく、二人はバギオへ向かったが、
それは、寺岡が病気がちであり、医師が彼の健康のために
バギオ行きを勧めたからであった.

山岳地帯への転居は神の恵みであることを証明した.
何故ならば、寺岡の呼吸器系の問題にもかかわらず、彼は建築
請負人としての多忙な仕事を始めたからである.

1920年代に、フィリピンの観光の拠点としてバギオが
発展していくに従い、ホテル、宿泊所、そして個人の邸宅も
建築され、建築ブームとなった.
この10年間、様々なカトリック宣教師の注文で、バギオに学校、
礼拝堂、そして休暇静養所が建て始められた.
寺岡は早い内にカトリックに改宗していたため、これらの事業
への参入を約束されていた.
記録によれば、彼は、ホーリー・ファミリー大学、アポストリック・
パーフェクト・ビル(1938年)、ホーム・スイート・ホーム、
そして、セント・ルイス大学となるいくつの建物の建築の仕事
をした. ・・・・・・

1931年から1933年まで、寺岡は南イロコス州の仕事に
ほとんどの時間を使い、ビガンの四梁のバナオアング橋(後に
エルピディオ・キリノ大統領の名前で名付けられた)を建築した.
これは、彼の非常に多忙な仕事の中でも、最大の建築事業で
あった. ・・・・・・
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(このキリノ橋の最近の写真はこちらのサイトにあります:)
http://nanaybelen.blogspot.com/2008/11/vigan-tour.html
                               

寺岡の常連客は、個人の家の所有者、劇場、病院、学校、事務所
そしてカントリー・クラブまで広がっていた.
その10年間の中頃に、バギオで鉱山業が始まるにつれ、
彼は利益の多い鉱物加工設置の仕事に乗り出した.
日本人会は、学校の幼稚園棟の建築で、1936年に彼を
契約者として選んだ.

この時期に、彼はしっかりした家族の家をアッパー・ギサドに
建築し、鉱業株に投資し、家族用と業務用に自動車を数台
購入した. 彼は、セッション通りの一番上、今日のファーザー・
Carlu通りとの角附近に、金物工具店を開いた.
その店は、バギオ・ハードウエア・アンド・ペイント・
ディストリビューターと呼ばれ、彼は、Sherwyn-Williamsペイント
の代理店であった. 
アメリカ人実業家の ジョー・ライスと、寺岡は、バギオ西部
イリサン地区での石灰ビジネスのパートナーとなった、・・・・・


結婚後早い内から、チャールズ寺岡は、子供たちをフィリピン人と
して育てる決心をしていたことが明らかとなった.
彼は、子供たちに、フィリピンでも一般的な英語名を与えた.
ほとんどの日系フィリピン人とは異なり、日本人名は持たなかった.
寺岡は、独立準備政府時代に、フィリピン国籍を申請しており、
それは、彼が死亡した年に認められている.

彼の子供たちは、日本人学校に入り、PTAにも全面的に
参加し、日本人会にも参加している.
彼の日記に、興味深い記載がある. 日本での水害への
支援として44ペソを寄付しているのである.
彼の仕事人生の間、寺岡は、山口県の迫村家の彼の家族
にも多めの金額を送っている.


寺岡家には、6人の子供たちがいた;
ビクター、シクスト、カルロス、マリエ・ドロレス、
カタリナ、そして エドワードである.
チャールズは、1941年8月31日に、バギオで
病に倒れた.  長男と次男は第二次大戦初期に命を落とした.
妻のアントニナと下の二人の子供たちは、1945年の
バギオ日本人コミュニティーの人々が北へ向かって逃避行
している間に命を落とした.

それぞれ14歳と11歳の時、カルロスとドロレスは、
8歳の従兄弟と一緒に、日系フィリピン人の子供たちの
小さなグループに加わり、日本に送還され、父の家族と
共に生活することとなった.


二人は1950年代にフィリピンに戻った.
今日、カルロス・B・寺岡は、バギオに於ける日本国の
名誉総領事であり、卓越した実業家である.
マリエ・ドロレスは、夫である地質工学技師のレオポルド・
S・エスカニオと共に、北ルソン比日基金の役員を務めて
いる.

======

この書籍は、フィリピン・ルソン島北部の日本人移民の歴史
1903年から2003年までの100周年を記念して、
発行されたものです.






                  



                  


  
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by janlbaguio | 2014-03-23 15:54 | History バギオの歴史

真珠湾攻撃の日、バギオ市で平和を祈る映画祭、慰霊祭、フォーラム

The 4th Asia Pacific International Peace Memorial & Forum
( 第四回 アジア太平洋国際平和慰霊祭・フォーラム) in Baguio city


ハワイ時間12月7日、日本・フィリピン時間12月8日に勃発した真珠湾攻撃の日に合わせて、バギオ市では平和を祈るイベントが開催されました:

インクワイアラー紙に 以下の記事が掲載されました:
http://newsinfo.inquirer.net/543421/flowers-new-song-for-72nd-year-of-baguio-war-bombings

Flowers, new song for 72nd year of Baguio war bombings

The soldiers, former Baguio Mayor Virginia de Guia and Baguio-based
Japanese filmmaker Koji Imaizumi gathered with a handful of Baguio
pioneers to commemorate the day the first bombs struck the place
at the start of the Pacific war on Dec. 8, 1941.

The summer capital was one of the first Asian cities to be attacked
by the Japanese immediately after Japan bombed Pearl Harbor in Hawaii
in December 1941.

Jose said Baguio was already a cosmopolitan city before the outbreak of
the war. In 1939, the city’s population count was 24,000.
About 22,000 were Filipinos while the rest were Chinese, Japanese,
Americans, Spanish, British and Germans.

Jose said the 500 Japanese residents of Baguio gave rise to
conflicted sentiments after the Philippine military ordered their
internment because of the Pacific war.


BAGUIO CITY—War veterans and peace advocates launched a new
Joey Ayala song on Saturday at Camp John Hay’s Bell
Amphitheater here to promote a 4-year-old crusade that hoped to
transform the brutalities of World War II into lessons that would inspire
a new generation of Filipinos to renounce violent conflicts.

The song, “Open Hands,” was written specifically for the
4th Asia Pacific International Peace Memorial. It was played at
a ceremony attended by three uniformed Igorot members of the 66th
Infantry Regiment and the city’s first female mayor.

(上記の新聞記事の日本語訳が こちらのサイトにあります:
 http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/12/post-07af.html )

Joey Ayala 作詞・作曲 「 OPEN HANDS 」 こちらでお聴きいただけます:
http://soundcloud.com/joey-ayala-bagong-lumad/open-hands



   
12月6日には、平和映画祭が、フィリピン大学バギオ校で開催され、
アメリカ、日本、フィリピンで制作された日本・フィリピン戦に関する映画、及び、元日本兵やフィリピンの戦争被害者たちのインタビュー映像などが上映されました.

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12月7日の午前中には、真珠湾攻撃と同日に フィリピンで最初に日本軍の爆撃を受けたとされる 米軍保養地 キャンプ・ジョンヘイで 平和慰霊祭の式典が実施されました:

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又、同日の午後には、 フィリピン大学バギオ校にて、 平和フォーラムが開催され、
戦争体験者、 フィリピン山岳民族ゲリラ部隊、中国系フィリピン人、日系人、日本人などの発言を元に、大学生との質疑応答が実施されました.

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上記のイベントに関して、下記のように 新聞に掲載されました:
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http://baguiomidlandcourier.com.ph/benguet.asp?mode=archives/2013/december/12-15-2013/beng5.txt


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マニラ新聞
  

さらに、12月8日には、地元のNGOなどが国際交流基金との共催で、
Travel for Joyful Way - Shaman Art Performance が 同じく キャンプ・ジョンヘイの野外円形劇場で 開催されました.

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尚、キャンプ・ジョンヘイのホテルの横には、下のような 12月8日に日本軍により最初に爆撃されたことを記憶に残す記念碑が建てられています:
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ところで、このバギオの Camp John Hay が日本軍の爆撃機によって爆撃された時間ですが:

真珠湾攻撃の ハワイ時間と 日本時間と フィリピン時間は ???

   ハワイ時間   12月7日 日曜日 午前7時10分 - 7時53分 奇襲に成功
   日本時間    12月8日 月曜日 午前2時40分 - 3時23分
   フィリピン時間 12月8日 月曜日 午前1時40分 - 2時23分

バギオでの爆撃 
    フィリピン時間 12月8日 月曜日 午前8時19分  
    

真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、英語:Attack on Pearl Harbor、日本時間1941年12月8日未明、ハワイ時間12月7日)は
(Wikipedia 「真珠湾攻撃」 )

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE%E6%94%BB%E6%92%83


ハワイは現地時間12月7日日曜日の朝だった。7時10分(日本時間8日午前2時40分)に、アメリカ海軍の駆逐艦DD-139
「ワード(ウォード)」がアメリカ領海内において国籍不明の潜水艦を発見し、砲撃によりこれを撃沈した(ワード号事件)。

7時49分(同3時19分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田美津雄海軍中佐が
各機に対して「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・のト連送)を下命した。7時53分(同3時23分)、淵田は旗艦赤城に対して
「トラ・トラ・トラ」を打電した。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する符丁である。


キャンプ・ジョンヘイへの爆撃については、このサイトに記事があります:
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Hay_Air_Base

Camp John Hay may have been the first place in the Philippines bombed by Japan in World War II. At 8:19 a.m.

on December 8, 1941 – December 7 on the Hawaii side of the International Date Line – seventeen
Japanese bombers attacked Camp John Hay killing eleven soldiers, American and Filipino, and several
civilians in the town of Baguio.[1]


・・・・当時 バギオにあった、北部ルソン島日本人会の会計役員であった
郡司忠勝氏が著した 「思い出はマニラの海に」 によれば、以下のように書かれています.

「開戦の日」

1941年(昭和16)12月8日、・・・・
私は薬局のペドロを相手に大きなショー・ウインドのガラス磨きをはじめていたし・・・

西の空から爆音が聞こえた. ・・・今朝は音も様子も何となく違っていた・・・

私は脚立の上からジョン・ヘイ米軍基地の方角へ一直線に丘をかすめて飛んで行く数機の黒い影を見た.
・・・私が目をガラスにうつした途端、遠くで数回の爆発音がして、部厚い大きなウインドのガラスがびりびりと波を打った.

・・・20分ほど経ったころ、街中が騒然となった・・・・







   




      




       


     









     
    



     




      




          


  
   
  
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by janlbaguio | 2013-12-09 23:41 | History バギオの歴史