カテゴリ:History バギオの歴史( 80 )

「フィリピン北部高地の日本人開拓者たち」から、 ある移民の記録

JAPANESE PIONEERS IN THE NORTHERN PHILIPPINE HIGHLANDS
(フィリピン北部高地の日本人開拓者たち)

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随分前にこの本を北ルソン比日基金(通称:アボン)で購入しては
いたのですが、分厚い本に恐れをなして、パラパラとページを
めくり、貴重な写真に見入るだけでした.
たまたま、この本の中に記述されている方の映画を制作すると
いう話があり、この際、じっくりと読んでみることにしました.

拙い一部分の翻訳ですが、ご参考としていただければ幸いです.
(文中の ・・・・は 省略された部分です)


======

第十章
チャールズ・ムネオ・寺岡
バギオの建築請負人

Charles George Muneo Teraoka (寺岡宗雄)は、1926年頃から
1941年まで、バギオ市の総合建築請負業者であった.
第二次大戦を、近隣の人たちや友人によって保管され生き延びた
様々な文書によって、彼の生活や仕事について貴重な詳細の一部
を垣間見ることができる.
寺岡宗雄は、1900年に山口県大島郡に生れ、三人の兄弟と
四人の姉妹の長男であった. 彼の両親と兄弟姉妹が迫村家の
養子となる中で、宗雄一人が寺岡の名字を残すこととなった.
その当時、長男が家に残るという事実もこの話を尋常ではない
ものとしているが、しかし、寺岡は16歳で日本を離れ、マニラの
大工見習いになったのである.
宗雄の子供たちは、父がそのように若い歳で、将来を異境に
求めたのは、その家が極貧にあったためではないかと信じている.

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(上の右の写真は セント・ルイス・ハイスクールの建物とあります)



寺岡は、彼の妻である アントニナ・バウティスタ にマニラで
出会った. 彼女はトンドにある軽食屋に雇われており、
多くの日本人経営の小さなビジネスのひとつで、もんご屋と
してよく知られていた.
アントニナは、1902年にターラック州カミリンに生れ、
寺岡と彼女は、1924年8月にトンド・カトリック教会で
結婚した. それから間もなく、二人はバギオへ向かったが、
それは、寺岡が病気がちであり、医師が彼の健康のために
バギオ行きを勧めたからであった.

山岳地帯への転居は神の恵みであることを証明した.
何故ならば、寺岡の呼吸器系の問題にもかかわらず、彼は建築
請負人としての多忙な仕事を始めたからである.

1920年代に、フィリピンの観光の拠点としてバギオが
発展していくに従い、ホテル、宿泊所、そして個人の邸宅も
建築され、建築ブームとなった.
この10年間、様々なカトリック宣教師の注文で、バギオに学校、
礼拝堂、そして休暇静養所が建て始められた.
寺岡は早い内にカトリックに改宗していたため、これらの事業
への参入を約束されていた.
記録によれば、彼は、ホーリー・ファミリー大学、アポストリック・
パーフェクト・ビル(1938年)、ホーム・スイート・ホーム、
そして、セント・ルイス大学となるいくつの建物の建築の仕事
をした. ・・・・・・

1931年から1933年まで、寺岡は南イロコス州の仕事に
ほとんどの時間を使い、ビガンの四梁のバナオアング橋(後に
エルピディオ・キリノ大統領の名前で名付けられた)を建築した.
これは、彼の非常に多忙な仕事の中でも、最大の建築事業で
あった. ・・・・・・
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(このキリノ橋の最近の写真はこちらのサイトにあります:)
http://nanaybelen.blogspot.com/2008/11/vigan-tour.html
                               

寺岡の常連客は、個人の家の所有者、劇場、病院、学校、事務所
そしてカントリー・クラブまで広がっていた.
その10年間の中頃に、バギオで鉱山業が始まるにつれ、
彼は利益の多い鉱物加工設置の仕事に乗り出した.
日本人会は、学校の幼稚園棟の建築で、1936年に彼を
契約者として選んだ.

この時期に、彼はしっかりした家族の家をアッパー・ギサドに
建築し、鉱業株に投資し、家族用と業務用に自動車を数台
購入した. 彼は、セッション通りの一番上、今日のファーザー・
Carlu通りとの角附近に、金物工具店を開いた.
その店は、バギオ・ハードウエア・アンド・ペイント・
ディストリビューターと呼ばれ、彼は、Sherwyn-Williamsペイント
の代理店であった. 
アメリカ人実業家の ジョー・ライスと、寺岡は、バギオ西部
イリサン地区での石灰ビジネスのパートナーとなった、・・・・・


結婚後早い内から、チャールズ寺岡は、子供たちをフィリピン人と
して育てる決心をしていたことが明らかとなった.
彼は、子供たちに、フィリピンでも一般的な英語名を与えた.
ほとんどの日系フィリピン人とは異なり、日本人名は持たなかった.
寺岡は、独立準備政府時代に、フィリピン国籍を申請しており、
それは、彼が死亡した年に認められている.

彼の子供たちは、日本人学校に入り、PTAにも全面的に
参加し、日本人会にも参加している.
彼の日記に、興味深い記載がある. 日本での水害への
支援として44ペソを寄付しているのである.
彼の仕事人生の間、寺岡は、山口県の迫村家の彼の家族
にも多めの金額を送っている.


寺岡家には、6人の子供たちがいた;
ビクター、シクスト、カルロス、マリエ・ドロレス、
カタリナ、そして エドワードである.
チャールズは、1941年8月31日に、バギオで
病に倒れた.  長男と次男は第二次大戦初期に命を落とした.
妻のアントニナと下の二人の子供たちは、1945年の
バギオ日本人コミュニティーの人々が北へ向かって逃避行
している間に命を落とした.

それぞれ14歳と11歳の時、カルロスとドロレスは、
8歳の従兄弟と一緒に、日系フィリピン人の子供たちの
小さなグループに加わり、日本に送還され、父の家族と
共に生活することとなった.


二人は1950年代にフィリピンに戻った.
今日、カルロス・B・寺岡は、バギオに於ける日本国の
名誉総領事であり、卓越した実業家である.
マリエ・ドロレスは、夫である地質工学技師のレオポルド・
S・エスカニオと共に、北ルソン比日基金の役員を務めて
いる.

======

この書籍は、フィリピン・ルソン島北部の日本人移民の歴史
1903年から2003年までの100周年を記念して、
発行されたものです.






                  



                  


  
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by janlbaguio | 2014-03-23 15:54 | History バギオの歴史

真珠湾攻撃の日、バギオ市で平和を祈る映画祭、慰霊祭、フォーラム

The 4th Asia Pacific International Peace Memorial & Forum
( 第四回 アジア太平洋国際平和慰霊祭・フォーラム) in Baguio city


ハワイ時間12月7日、日本・フィリピン時間12月8日に勃発した真珠湾攻撃の日に合わせて、バギオ市では平和を祈るイベントが開催されました:

インクワイアラー紙に 以下の記事が掲載されました:
http://newsinfo.inquirer.net/543421/flowers-new-song-for-72nd-year-of-baguio-war-bombings

Flowers, new song for 72nd year of Baguio war bombings

The soldiers, former Baguio Mayor Virginia de Guia and Baguio-based
Japanese filmmaker Koji Imaizumi gathered with a handful of Baguio
pioneers to commemorate the day the first bombs struck the place
at the start of the Pacific war on Dec. 8, 1941.

The summer capital was one of the first Asian cities to be attacked
by the Japanese immediately after Japan bombed Pearl Harbor in Hawaii
in December 1941.

Jose said Baguio was already a cosmopolitan city before the outbreak of
the war. In 1939, the city’s population count was 24,000.
About 22,000 were Filipinos while the rest were Chinese, Japanese,
Americans, Spanish, British and Germans.

Jose said the 500 Japanese residents of Baguio gave rise to
conflicted sentiments after the Philippine military ordered their
internment because of the Pacific war.


BAGUIO CITY—War veterans and peace advocates launched a new
Joey Ayala song on Saturday at Camp John Hay’s Bell
Amphitheater here to promote a 4-year-old crusade that hoped to
transform the brutalities of World War II into lessons that would inspire
a new generation of Filipinos to renounce violent conflicts.

The song, “Open Hands,” was written specifically for the
4th Asia Pacific International Peace Memorial. It was played at
a ceremony attended by three uniformed Igorot members of the 66th
Infantry Regiment and the city’s first female mayor.

(上記の新聞記事の日本語訳が こちらのサイトにあります:
 http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/12/post-07af.html )

Joey Ayala 作詞・作曲 「 OPEN HANDS 」 こちらでお聴きいただけます:
http://soundcloud.com/joey-ayala-bagong-lumad/open-hands



   
12月6日には、平和映画祭が、フィリピン大学バギオ校で開催され、
アメリカ、日本、フィリピンで制作された日本・フィリピン戦に関する映画、及び、元日本兵やフィリピンの戦争被害者たちのインタビュー映像などが上映されました.

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12月7日の午前中には、真珠湾攻撃と同日に フィリピンで最初に日本軍の爆撃を受けたとされる 米軍保養地 キャンプ・ジョンヘイで 平和慰霊祭の式典が実施されました:

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又、同日の午後には、 フィリピン大学バギオ校にて、 平和フォーラムが開催され、
戦争体験者、 フィリピン山岳民族ゲリラ部隊、中国系フィリピン人、日系人、日本人などの発言を元に、大学生との質疑応答が実施されました.

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上記のイベントに関して、下記のように 新聞に掲載されました:
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http://baguiomidlandcourier.com.ph/benguet.asp?mode=archives/2013/december/12-15-2013/beng5.txt


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マニラ新聞
  

さらに、12月8日には、地元のNGOなどが国際交流基金との共催で、
Travel for Joyful Way - Shaman Art Performance が 同じく キャンプ・ジョンヘイの野外円形劇場で 開催されました.

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尚、キャンプ・ジョンヘイのホテルの横には、下のような 12月8日に日本軍により最初に爆撃されたことを記憶に残す記念碑が建てられています:
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ところで、このバギオの Camp John Hay が日本軍の爆撃機によって爆撃された時間ですが:

真珠湾攻撃の ハワイ時間と 日本時間と フィリピン時間は ???

   ハワイ時間   12月7日 日曜日 午前7時10分 - 7時53分 奇襲に成功
   日本時間    12月8日 月曜日 午前2時40分 - 3時23分
   フィリピン時間 12月8日 月曜日 午前1時40分 - 2時23分

バギオでの爆撃 
    フィリピン時間 12月8日 月曜日 午前8時19分  
    

真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、英語:Attack on Pearl Harbor、日本時間1941年12月8日未明、ハワイ時間12月7日)は
(Wikipedia 「真珠湾攻撃」 )

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE%E6%94%BB%E6%92%83


ハワイは現地時間12月7日日曜日の朝だった。7時10分(日本時間8日午前2時40分)に、アメリカ海軍の駆逐艦DD-139
「ワード(ウォード)」がアメリカ領海内において国籍不明の潜水艦を発見し、砲撃によりこれを撃沈した(ワード号事件)。

7時49分(同3時19分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田美津雄海軍中佐が
各機に対して「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・のト連送)を下命した。7時53分(同3時23分)、淵田は旗艦赤城に対して
「トラ・トラ・トラ」を打電した。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する符丁である。


キャンプ・ジョンヘイへの爆撃については、このサイトに記事があります:
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Hay_Air_Base

Camp John Hay may have been the first place in the Philippines bombed by Japan in World War II. At 8:19 a.m.

on December 8, 1941 – December 7 on the Hawaii side of the International Date Line – seventeen
Japanese bombers attacked Camp John Hay killing eleven soldiers, American and Filipino, and several
civilians in the town of Baguio.[1]


・・・・当時 バギオにあった、北部ルソン島日本人会の会計役員であった
郡司忠勝氏が著した 「思い出はマニラの海に」 によれば、以下のように書かれています.

「開戦の日」

1941年(昭和16)12月8日、・・・・
私は薬局のペドロを相手に大きなショー・ウインドのガラス磨きをはじめていたし・・・

西の空から爆音が聞こえた. ・・・今朝は音も様子も何となく違っていた・・・

私は脚立の上からジョン・ヘイ米軍基地の方角へ一直線に丘をかすめて飛んで行く数機の黒い影を見た.
・・・私が目をガラスにうつした途端、遠くで数回の爆発音がして、部厚い大きなウインドのガラスがびりびりと波を打った.

・・・20分ほど経ったころ、街中が騒然となった・・・・







   




      




       


     









     
    



     




      




          


  
   
  
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by janlbaguio | 2013-12-09 23:41 | History バギオの歴史

古い資料に見る フィリピン・バギオの歴史


中部大学 青木澄夫教授からいただいた フィリピンの在留邦人団体に関する年鑑のようなものから・・
記事の内容から1935年ころに書かれたものと思われます.



「卅四 (=34)、 高原都市バギオ」 より抜き書き

p385
ベンゲット道路・・・最初の技師は米人ノーマン・ホームス氏であったが、比人労働者
を使用した為工事遅々として進まず、1903年改めて邦人移民千五百名を招き
工事費六百万比を投じケンノン少佐を工事主任として着手されたもので
実に邦人移民が比島に大量渡来した最初のものとして注目されている.

難工事で邦人中人柱となるもの実に七百数十名、血と涙の移民史を出現したのであった.

この道路工事の完成は明治38年1月で・・・

バギオ開発の恩人は動物学者ウスター氏で、・・・・
当時白人中では独逸人オツト・シーラー氏が先住していたと云われている・・・

(ベンゲット道路=ケノン道路、ここには邦人移民だけで完成しているような
 書き方になっていますが、別の資料では多国籍の労働者、技術者が働いた
 となっています)
http://janl.exblog.jp/7076729


p386
1904年には米人技師バーハム氏が都市美化計画を樹て、1909年には市政が
布かれる・・・・

約一千人の在留邦人が盛んに活躍している外 土着人イゴロテの中心市場として
付近の産物を集散している.

(この人数がいつの時点の人数かは不明ですが、この書籍に昭和11年までの
 名簿が掲載されていますので、おそらく昭和初期、1936年ころの人数では
 ないかと思われます.)

山岳避暑地バギオには今や自動車上の安座して登られ、マニラから一時間に
して達しうる航空路さへ設けられるに至っている.

(こんなに早くから飛行機が飛んでいたとは驚きですが、おそらく小型の複葉機
 のようなものだったのでしょう)


バギオ風俗の展覧会の如き観を呈するのは日曜日毎の市場を以てその最たるもの
とされているが、イゴロット土人等xx集して大繁昌している.

又バギオに遊ぶものは米軍駐屯地たるキャンプ・ジョンヘイを見逃してはならない.
米人好みの諸設備完成し、・・・有名なるカントリー・クラブがある.

(ちなみに、バギオ・カントリー・クラブは100年以上の歴史を持つ老舗ゴルフ場です.
 完全な会員制で厳しい審査があります. )
http://bcc.com.ph/#home

p387
自動車で八キロ、山路を上ること七キロにして海抜二千二百五十七米の頂に
達するところ サント・トマスにはホテルの設備もある.


(これには驚きました・・・サント・トマス山の上にホテルがあったなどという
 話は初耳です・・・・ 2257メートルの山頂ですからね・・・・
 初日の出などを拝むには絶好のポイントではありますが・・・ )

近年急進の進展を見せているバギオを廻る各金山への道路は、バギオを中心と
して動脈の如く放射されている. 即ちバギオはあたかも金鉱脈の心臓部
観を呈している.

(バギオの周辺で金が採れるのは事実で、私が日本語を教えた若い女性の
 家族は親子で個人経営の金採掘をやっているとの話でした.
 最近の金価格の上昇で盛り返しているそうです )



「卅五 (=35)、 バギオ日本人会」 の章

p387
バギオ日本人会の創設は大正九年一月で既に十五ヶ年の歳月を閲し、
群島各地の日本人会に比して最も古きを誇っている.

(これによって、この本は 大正9年(=1920年)+15年 = 1935年
 であることが分かりました. なお、日本占領時代には、バギオ日本人会は
 北部ルソン日本人会として改組されているようです.)


・・本会は会員共存共栄を図り、子女の教育陶法の為小学校を経営するを以って
目的とすると明言
してある・・・

現在の会員数は約三百七十余名で会費は一級一ヶ月二十比から 二十級
一比五十仙に至る二十等級に分つているが、一ヶ月最低一比五十仙と云ふ
金額はマニラ及びダヴァオの月五十仙に比較して三倍に当たり、
如何にバギオの在留邦人がよく一致して子女の教育に専念しつつあるかを
如実に現しており、その真摯な態度に対しては自然と頭の下がるを覚える.


バギオ日本人会が小学校を開始したのは大正13年で その当時の会員は
僅かに百二三十名に過ぎなかったとのことである・・・・

バギオ邦人の質実、真摯な気風はその地理的関係に於いて高原都市
としての気品がある上に南国とは思われぬ冷気によって気分を引き締めて
いることに起因すると思われるが・・・・


(この教育熱心というバギオの日本人・日系人コミュニティーの精神は
 シスター海野の献身的な働きにより、
 日本のロータリークラブや国際エンゼル協会などの支援のもと
 今の北ルソン比日基金、通称アボンに受け継がれているように思います.)


p389

このページには 大正9年の創立時から昭和11年までのバギオ日本人会の
会長、副会長、その他役員の指名がリストされています.




「卅六 (=36)、 在外指定バギオ日本人学校」 の章

p391
在外指定バギオ日本人学校は同地日本人会の経営にかかるもので
・・・大正十四年四月一日を以って開校し・・・

創立以来既に十二年を経過し混血児64名、純邦人子弟76名合計140名の
児童を有するに至っている.


p396
開校以来の児童数が表にまとめてありました:

大正14年 尋常科 男 10  女 14  計24
        高等科 男  0  女  0  計 0


昭和11年 尋常科 男 56  女 64  計 120
       高等科 男 9   女 18  計 27

(つまり、昭和11年=1936年の時点で 日本人学校の生徒は 147名になっています)




「卅七 (=37)、 バギオ日本人の発展状態」 の章

比島各地の都市を一瞥すると、商店街の七八十パーセントは支那商人の
勢力に占められているのが普通であるが、バギオの邦商は開発当時より
優勢をたもち現在雑貨商は殆ど日本人がこれを占め
、その多くは食料品店
を兼営している.

一方支那人は食料品店、旅館、レストラン方面に発展している.
其の外ボンベイ人、ペルシャ人等の商人は最近漸く進出して来た有様で
米人の経営する商店は未だ僅かであるが、金鉱会社、銀行、製材、
乗合自動車、タクシー等は殆ど米人の経営である.

(日本人移民は、これらのアメリカ人経営の企業に係る仕事、および建設業で
 成功を収めた人たちが多いようです)

p398
金山方面には現在約百五六十名の邦人大工が働いているが、
何れも優秀な技術と勤勉なる事が認められ、非常に重宝がられて
各会社の頭領株は悉く日本人で絶大な信用をうけている・・・・

ヒールソーミル会社の経営かかる数カ所の製材所は・・・ほとんどこれ等日本人
製材請負業者の手
によって製材される・・・
この下には五六十名の日本人と約六百名の比人が使役されている.



ツリニダード農園の現況
(ツリニダードとは La Trinidad ラ・トリニダッドのことで、バギオの隣町です)

現今ツリニダード農園は比島唯一の野菜生産地となるに至ったが、
その沿革を逆のぼれば約三十年前ベンゲット移民中の数名の日本人に
よって野菜栽培に好適な土地なることが発見せられたのであって、
・・・年に約二千五百トン、価額として約二十五万比の野菜が産出せられる
に至った. 
この内玉葱が80パーセントを占め、ついで白菜、ジャガ芋、芹、ねぎ等である.

(唯一の野菜生産地というのは 温帯野菜という意味でしょう・・・)


p399
これ等の農園は、日、支、比人の内 七割以上を日本人が経営生産している.


(この本は、いささか日本人の肩を持つような感じの表現もありますが、
 全体の中での割合などを数値で書いてところは理解が助けられます.
 バギオの中国系のコミュニティーでは 同じように「中国人が一番貢献した」という
 ような書きぶりです )




・・・・・この後の章に 断片的に興味深いところがありましたので、
それを拾ってみます.


p399

バギオ青年団は昭和4年2月11日建国祭当日の佳節をとして創設された

(講演会、映画大会、修養座談会、武道・相撲大会、演芸会、陸上大運動会、
野球大会などをやったと書いてあります.)


一方、国際親善の立前から米国独立祭等には日本人代表の山車を出し、
バギオ市より度度賞品を獲得している.

(青年団の役員リスト、昭和11年度の中に日本人会の会計役で
 「思い出はマニラの海に」を著した 郡司忠勝氏の名前があり、
 常任顧問及び歴代団長として 写真家の 古屋正之助氏の名前もみえます.)
http://janl.exblog.jp/11940343
http://janl.exblog.jp/18343794/

p401
現在ダヴァオ州には邦人一萬四千、支那人一千五百名居住するが、
キリスト教比人は十萬七千、非キリスト教は八萬余である

(非キリスト教というのはイスラム教のことでしょうか・・・・)


邦人のダヴァオに移住を始めたのは、明治37年(1904)の事で、
ベンゲット道路工事終了と共に激増し、故太田恭三郎氏の先見の明により
麻栽培地として異常の発達を示している



(以上のとおりで、ベンゲット道路建設の後、仕事を求めてダバオへ渡った
 日本人労働者が多かった中で、バギオ市の建設にその後も貢献した
 人たちが戦前は日本人学校の建設にも尽力し、成功したようです)
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by janlbaguio | 2013-11-10 21:48 | History バギオの歴史

「図南遊記」 に見る100年前のフィリピン・バギオ市 

「図南遊記」 に見る100年前のフィリピン・バギオ市 

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梶原保人著 民友社 大正2年(1913年)発行の「図南遊記」は、
当時の台湾新聞(日本語新聞)の主筆であった筆者が、植民地経営の実際を
見て廻るために東南アジア諸国を旅した見聞録であるようです.
(尚、同書の本文は当時の古い漢字、文体であるため、下記の引用は
 漢字などがことなる表示となっているものがあります. ご了承ください.)

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なんと この本の「序」には、新渡戸稲造が

「南方経営に着眼するもの輩出するに至らば・・・・」と寄稿しています.
当時の欧米諸国の植民地支配から学ぼうとする世相が見えるようです.
ちなみに、この本の発行の翌年1914年 第一次世界大戦が起こり、日本も参戦しています。
又、日清戦争は1894-1895、日露戦争が1904-1905に起こっています.
なお、日本の植民地として台湾が1895-1945、 韓国は1910-1945と、
この本の当時はすでに日本が統治していました.

ここで、著者が シンガポール、ジャワ、マレー半島、仏領インドシナ、フィリピンを
1912年9月から視察したことが述べてあります.

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この本は台湾から香港へ行くところから始まり、の第七章にフィリピンの記録があって、
その一部にバギオ訪問時の記事がありましたので、ご紹介します.

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第七章の第六節 「比島の大避暑地」というところが バギオ市について書いています.
避暑地というものに対する日本の一般的な考え方は 贅沢であるとの背景が
あったようで、それに対し著者は 植民地経営にとっては なくてはならぬものである
と意見を述べています.



ここからバギオ市関連の部分を拾い読みしてみましょう.
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p414
マニラからダバン迄、約百二十里の間は、西班牙(スペイン?)時代より汽車が
運転したので、呂宋中最も進歩したる地域である・・・

(120哩というのは 193キロ・メートルであるので、ダバンとは ダグーパンのことか?)

パムパンガ州は、呂宋糖の産地で、その製品はネグロス糖に及ばず、
多くは島内需要に供給せらる、
アンゼルス及びフエルナンドは同州の首都にして、砂糖の中央市場たり・・・

(アンゼルスは アンヘルス、フエルナンドは サン・フェルナンドと思われる)


走ること四時間にして、山や岡が近づき、荒蕪地もあったが、
要するに鉄道沿線は、殆んど開墾されて居る・・・・

汽車はパムガシナン州に入ったので、同州の一港サンーファビンより分岐して、
バギオ道に入り、午後三時十五分 キャンプ ワンに着き
、此処で降りた、・・・


(p413に 一月二十五日午前六時二十五分の汽車に塔じ、視察の途に就いた、
 同避暑地は、イゴロットと称する蕃族の生息する山中にありて、
 バギオ避暑地と称す・・・とあるので、 マニラからバギオの麓まで
 9時間ほど掛かっている計算になります.)

(キャンプ・ワンは CAMP1で、ベンゲット道路を建設するときの飯場が山の麓から
 山上のバギオへいたる沿線に キャンプ1から8まであったことの名残です)


p415
弁当売りは現れず、同乗の米人なども土人のパンを買って、・・・僕等も
十銭を投じて、土人パンを買ったが、非常の美味で、頭大のパンを喫し・・・

マニラのトンド停車場から、キャンプ・ワン迄 百四十三哩・・・

(マニラは あのトンドから汽車が出ていたんですねえ・・・143マイル=230キロ)


汽車から降りれば、左側に一等、二等、三等の自動車が、三台、ブッブ・・云って
待っている、僕等二人の外に、米人六名、それに駅長と自動車の運転手、
・・・駅長は米人、運転手は土人である、・・・

川に沿うて、山の麓に設けられた、完美なる道路を疾走し始めた、
是が即ちベンヂット道と称して、比律賓政府が多大の経費を惜しまず、
絶大の困難を排して、開墾した所の有名な道路である・・・・

(ベンヂット道は ベンゲット道のことで、現在はケノン・ロードと呼ばれています)



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p416
開墾後も、渓は急流で、山はxxxxとして居るから、一旦雨降らば、渓流は、
猛烈なる威勢を以て、山壁を削り、巨岩を転ばし、橋を流し、道路を損ずるから、
其の維持には、年々多額の経費を投じているが、・・・・・

・・・恰も名門富豪の、奇麗に掃除された門内を歩く如うである、
注視すれば、到る所に掃除人夫が居って、掃除又は修繕を仕て居る・・・・


(当時のベンゲット道路のメンテナンスの難しさを語っている部分ですが、
 地盤がもろいため、現在でも台風や大雨の時には落石や崖崩れなどが
 発生しやすいため、たびたび通行が制限されることがあります)


道路の完美なるは、特に此の避暑地の山道のみならず、比島到る所然りで、
マニラ附近の田舎道でさへ、東京、大阪の道路より、遥かに優良で、自動車でも
馬車でも、ガタっとも音する様な事なく・・・・・


実に難路で・・・運転手がモートルの運転を一分間違ふれば、乗客は自動車と
ともに粉のように砕るるのだから・・・恐ざるを得ぬ

(ベンゲット道路=ケノン・ロードの険しさと運転の難しさを語っています)


此の辺は、全山悉く松林で、恰も日本の山を見る様な思が為る、・・・

(バギオ市は CITY OF PINES 松の都 とも呼ばれていますが、
 ほとんどの日本人が このような感慨を抱くのではないでしょうか)


p417
汽車を降りたキャンプワンから、此所まで三十二基即ち約二十哩半で、
午後六時、松林館と評するホテルに投じた.
パイン・ホテルに着き、僕が便所に行く時、日本の浴衣を着た婦人を、
チラと見たので、嬉しくて堪らず、部屋に帰って、さうと東郷君に告ぐれば
馬鹿云へ、そんな者が此の山奥に居るものか・・・・・


(二十哩半 = 二十・五マイル = 33キロ・メートル)
(当時も バギオに日本人が住んでいるというのは 知られていなかったんですね・・・
 今もバギオという都市の名前すら、日本ではあまり知られていないようですけど)


(ここで松林館と書かれているホテルは、 PINES HOTEL という当時最高級の
 ホテルとして知られ、アメリカ人が建てたそうです.
 第二次大戦当時、日本軍によって統治されていた時代には、
 日本軍の将校などが集うクラブのような場所となったと別の本にありますし、
 当時バギオに住んでいた日本人の記憶によれば、SKDのような日本の少女歌劇団
 が日本軍の慰問に来たこともあるそうです)


(また、このパインズ・ホテルは、戦前は 今のUC大学・選挙管理委員会事務所辺りに
 あったものが 戦争中に焼失し、戦後に 今のSMバギオの場所に再建されたようですが、
 それも火事で失われたそうです)


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p418
該旅館は、客室五十を有し、青々たる松林の際に建てられて下に掌大の平地あり、
向ふには丘陵起伏して、人家点在す、此所は夏期の都なれば、今や旅客少なく、
為に僕等も、上等の部屋に特遇された、山気に冷えた體身を、温湯に温め、
休憩室の椅子にもたれて・・・・


(これは凄いことです・・・・このパインズ・ホテルでは温かいお風呂に入れたという
 ことのようです.  今から10年ほど前であっても バギオのホテルで
 温水が出るお風呂・シャワールームは 特別なことでしたから)

(掌大の平地・・とあるのは、バーンハム・パークのことであろうと思われます.
 向こう側に丘陵があるというのは、おそらく キサド通りやレガルダ通りあたりの
 起伏を指しているのでしょう)

p419
食堂に入れば、メツロボール・ホテルの料理よりも、僕の口に適ひ、
南洋遍歴の疲労、全く醫せられた如うな感がした.

(パインズ・ホテルのレストランの料理は かなり旨かったんでしょうね)


砂漠の様に荒れ果てた、僕の心霊も、何者にか満たされ、嗚々神よと、
首を垂れて訴へざるを得なかった・・・

(かなり大げさな表現ですが、バギオの素晴らしさに魅了されたであろう
ことは私もよく理解できます)


それから、二三十軒から成立した町に行けば、驚いた、日本人の雑貨屋がある、
写真屋がある、大工屋がある、理髪店がある、宿屋がある、半分は日本人の
商店で、聞けば日本人が、此の町に二百五十名も居るそうだ・・・・

(これは驚くべき情報です・・・
 この本が発行されたのが1913年、ちょうど100年前ですが、
 この著者がバギオを訪れた1912年には 日本人が250名ほども
 住んでいたということです・・・
 おまけに、今の目抜きどおりであるセッション通りに20~30軒の店があって、
 その内のおよそ半分は日本人経営である・・ということです)

(戦争直前の1940年ごろにバギオに住んでいた日本人の方の話などを
 今までに伺ったところでは、中国人、インド人、フィリピン人、日本人などの
 経営する店があって、おそらく日本人経営は3割ぐらいだったのではないか
 との情報もあります)

(1940年ごろと思われるセッション通りの地図は こちらでご覧ください)
http://janl.exblog.jp/13504807/

蓋し例の婦女は、楼に六七人で、それも経営難だと・・・

(要するに、パインズ・ホテルで見かけた日本婦人は いわゆる 「からゆきさん」
 だと言うことのようです・・・つまり売春を目的とする商売ですね)



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p420
元来此のベンゲット道路と云ふものは、最初土人を使用して開墾しようと
為たんだが、危険で、困難だから、土人の手では捗取らないから、
是は日本労働者を容るるの外なしと一時に多勢の日本人を入れた
或いは曰く一千人と、或いは曰く四千人と、精確なる事は、官府に聞いたが
不明であった、
兎に角に、明治三十五、六年の間に、多勢の日本人で、
一気呵成に遣つ付け、今は前記のように、自動車で愉快に交通さるる・・・・


(明治35年 = 1902年 ですが、別の本では 日本人が来たのは1903年から
 道路が完成した1905年までとされています. .
 こちらの参考ページをご参照ください)
こちらのページでは、ケノン少佐が1903年から道路建設に就いたことが分かります.
http://janl.exblog.jp/6619636/
こちらのページで、日系人団体が1903年を移民開始の年としています.
http://janl.exblog.jp/7246960/

彼等労働者は、或いはマラリヤに襲われ、或いは負傷して、犠牲となったもの
少なからぬと聞いては、暗涙禁じ難くなった、其の残徒が即ち此の避暑地附近に
居るのだ・・・

(ベンゲット道路の工事が終わった後、多くの日本人労働者は仕事を求めて
 マニラへ向かったものの、その当時には仕事がなく、マニラ麻で有名と
 なったダバオへ移住したものが多かったとされています)

比律賓に於ける、三千人の日本人は、多くは労働者だから、妻を本国より
呼ぶなどは、却々の困難で、土人と雑婚した者が、六十四人ある、
之は帝国領事館に届けた分で、此の外にも少なからずあるだろうが、
此のバギオには、蕃人の娘と結婚した者が十三人ある、
其の中には、イゴロット蕃の頭目の娘と結婚した者もあるが、・・・・

(このバギオの日本人については、日系人団体の北ルソン比日基金が発行した
Japanese Pioneers in the Northern Philippine Highlands という本に詳しく
記録されています)


p421
ベンゲット道路を登る時・・・・痩せた體の小さい犬を連れて、山を登って居る
のに会った、何だと聞けば、明日バギオに催さるる犬市に出すのだと・・・
犬市を見んと、バギオの市場に行けば、市場の裏の空地に、犬の市が
設けられ、約三四百匹の犬が居る・・・・

(この地方には今でも犬を食用とする習慣があります. バギオ市の条例では
一応禁止されているそうですが、実際にはいくつかの店で食べることができます)



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p422
之れは此等に住むイゴロット蕃人の為めに設けた市で、台湾生蕃そっくりの
男女が、三々五々各地より集まり、・・・・
・・・一疋の価は、七十銭から二円まで、蕃人最上の馳走だと.

服装は、台湾生蕃よりも、少し上等で、上には多くxx衣又は古洋服を纏い、
下には反物を其儘巻いて居る、刺墨は男子に見ず女子は手に刺墨して居る、


彼等は豚を飼い、馬を養うて居るそうで、・・・・・犬の外に、或いは毛布、木綿、
其他種々の買い物をしていたが・・・


p423
彼等の経済状態は、余程進歩して居る、・・・・既に全く農業時代に進んでいる・・・
此のイロゴットは、往時は兇猛な蕃族であったが、今は従順になった


マニラの総督府は、三月から六月迄、此所に移り上は総督より下は重なる
書記まで、此の仮の都に雪崩れ来て、官吏の数のみで約二千と称す

(少なくともアメリカ統治時代には、バギオがまさに夏の首都とされていたことが
 わかります. マンション・ハウスは今は観光施設となっていますが、
 総督や大統領の官邸とされていました)


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p424
・・・官吏の住宅も設けてある、而して毎年全島の教師の夏期講習会が
此地で開催さるるが、彼等は総て天幕生活である・・・・

(これは今 Teachers' Camp と呼ばれる地区のことだと思われます.
 今でも公務員や様々な人々の為の研修の会場となっています.
 この当時は フィリピン人教師はテント合宿だったのですね)

一月下旬で、最も良好の節、米人は暖炉を焚き、其の周囲に団座して、
談笑xxxxなりしが、熱帯に於いて、暖炉の辺の趣味に飽くなど、
羨ましき次第である.


(これは正に、一大避暑地での醍醐味とでも言うべきことでしょう.
 私も1992年頃、初めて出張でバギオに来た時には、キャンプ・ジョンヘイの中にある
 アメリカ式のコテッジで、暖炉に薪を焚いて皆で酒を酌み交わしたものです)

p425
政府は、マニラ鉄道会社をして、登山鉄道を敷設せしむる事となり、同会社は既に工事に着手したるが、新線路は、マニラ鉄道、現時の終点たる
サン・ファビアンよりアリンガイに出て、バギオに達するものにして
此の方面に、今も人道は存し、バンゲット道路に比すれば、行程却て短しと云ふ・・・

(この登山鉄道は、結局は出来なかったのですが、
 今のバギオ市からアシン温泉に下るアシン道路が予定されていた路線だと
 聞きました. 又、今のバギオとマニラを結ぶビクトリー・ライナーのターミナルの
 付近が この鉄道路線の終着点として敷地も用意されていたそうです)


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p427
比律賓に来りて、最も旅行家の耳目をxx動するは、其の土人教育の盛大なる
にあり、爪哇、印度支那に於いては、吾人は容易に学校を見ず、学童に接せず、
馬来半島でも・・・・比律賓に来りて、吾人は学校と学生の多きに、今更の如く感じたり・・・

(爪哇=インドネシア・ジャワ島、印度支那=インドシナ、馬来半島=マレー半島)
 

p428
十五歳より二十五歳まで位の女子の学校に、往来する事なるを聞き、
一驚三嘆せざるを得さりき・・・・


比律賓を自治国たらしめんと欲せば、自治国民たるの資格を比律賓人に
与へざる可からず、・・・・

(この当時の日本の教育制度がどのようなものだったかはわかりませんが、
 アメリカがフィリピンで実施していた教育のありように、驚きを隠せない記述と
 なっています.
 考えてみると、現在でも、女性大統領を出したフィリピンと、女性の社会進出が
 世界の中でも大幅に遅れている日本は、フィリピンから学ぶべきことも
 ありそうですね)


p429
右の如き政策を樹てて、占領早々より、米国より一千名の教師を招聘し、
学務部を置き、全島を三十七学区に分かち・・・

小学校は四学年にして四千四百校、中等学校は三学年にして百九十三校、
高等学校は四学年にして三十七校、・・・・・又 大学もありて、・・・・
此の外に宗派に依りて設立されたる数多の大学あり・・・・
サンタイサベル大学の如きは、1594年の創立にして・・
アテネオ大学の博物館は、熱帯の貝殻類を蒐集したるを以て、その名宇内に
輝けり・・

(100年前に 4-3-4制の教育があって、大学もあった・・・)

(1594年と言えば・・・・
 1594 秀吉が全国にわたり検地を行う(太閤検地) という時代なんですねえ)


その教師は、米人百十八人、比律賓人七千六百九十六人にして、・・・・
九割以上は比律賓の教師にして・・・・

(これらの米人教師が おそらくバギオの Teahers' Camp の宿舎に泊まり、
 テント合宿のフィリピン人教師たちをトレーニングしたんでしょうね)

(日本の教育制度の歴史については、こちらをご参照ください)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%88%B6%E5%BA%A6%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7
「師範学校令(1886年)、実業学校令(1899年)、中学校令(1899年)、専門学校令(1903年)、
小学校令改正(1907年)、高等学校令(1918年)、大学令(1918年)によって確立された学制
が以下のものである。戦前の教育課程は、概ね以下の4段階からなる。現在の学制とは異なり
複線型教育の特色がかなり強い。」

(ちなみに、現在の日本は 6-3-3-4制ですが、
 フィリピンでは 6-4-4制だったものが現在 6-6-4制に変更されつつあります)

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p434
比律賓政府の歳出は・・・・其の教育費は ・・・約四分一は教育費たり・・


p435
愛国心の盛なる、南洋随一にして、而して南洋人としては、気骨あり、
慷慨悲歌の情あり、且つ相当の思慮あり、技術あり
、何れの役所に於いても、
米人は少数にして、大多数は土人なれば、若し将来南洋に於いて、自治的
国家を建設し得るものありとすれば、第一は、正に比律賓なるべし.

(おおお~~、物凄い褒めようですね. 東南アジアをあちこち見聞して
 廻った新聞社の主筆たる著者が このように褒めちぎっているんですからね・・・・
 いつからフィリピンは政治不信の国になってしまったのでしょうか.
 アメリカ統治時代の話とは言え、同時は多くをフィリピンから学ばなくては
 ならない日本だったようです.
 もちろん、日本から多くの出稼ぎ者がフィリピンに渡っていた時代であった
 ことも記憶しておかなければなりません.)

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=====

この書籍の存在については、東南アジアでの調査研究をされている
中部大学の青木澄夫教授に教えていただきました.
貴重な資料をいただきましたことを、ここに感謝申し上げます.

尚、この書籍は 極一部で「古書」としての取り扱いがあるようです.

=====

上記は100年前に発行された本ですが、
その当時から戦前までのフィリピンと日本の関係の中でもっと客観的な視点から
バギオにも触れてある本も紹介していただきました. 

早瀬 晋三 著
「フィリピン近現代史のなかの日本人 植民地社会の形成と移民・商品」
東京大学出版会

JANLメンバーの個人サイトに記事がありますので、ご参照ください.

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-8c54.html




「世紀転換期における日本・フィリピン関係」
池端雪浦, 寺見元恵, 早頼晋三
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所

「第2章マニラの初期日本人社会とからゆきさん」 寺見元恵 著
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-be3f.html



金ケ江清太郎 著 
昭和43年4月10日発行 国政社
「歩いて来た道 -ヒリッピン物語」  から フィリピン・バギオの昔を垣間見る
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-d022.html


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by janlbaguio | 2013-11-09 15:28 | History バギオの歴史

Sumio Aoki Collection - Postcards of Baguio City

These Postcards are the Collection of
Professor Sumio Aoki
Department of International Relations
College of International Studies
CHUBU UNIVERSITY
Aichi prefecture, Japan

この絵葉書コレクションは
愛知県にある中部大学の国際関係学部で教鞭をとられている
青木澄夫教授の所有であり、同教授の御提供を受けて ここに掲載しております:

これらの絵葉書は、戦前のフィリピン・バギオ市の写真館で印刷あるいは販売をされて
いたもので、1900年代初期のバギオ市の様子を垣間見ることができます.

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1923年 ミス・ベンゲットの候補者
背景にあるのは ベンゲット道路(現在のケノン・ロード)

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バギオ・マーケット
現在のバギオ・シティー市場から セッション通り方面を望んでいるものと思われます.

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バギオ・マーケット
建物の向こう側にセッション通り、そして左上に バギオ大聖堂が見えます.

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ベンゲット道路 23キロ地点
この山岳道路は、1903年から1905年まで日本人労働者が導入され、難工事で多くの
犠牲者が出たことで有名です.
http://janl.exblog.jp/7076729


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ベンゲット道路は 現在はケノン・ロードと呼ばれていますが、
このとおりのジグザグ道路です.

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セント・ルイス・カレッジの建物
現在のSt. Louis University の当時の様子です.

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OBSERVATORY(展望台)と書いてあります.
現在は ローデス・グロットと呼ばれ、マリア像を参拝する場所として、観光スポットとなっています.
http://www.cityofpines.com/lourdesgrotto.html


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ワシントン・ホテル の 写真と絵葉書
セッション通りにあったホテル
現在のプライム・ホテルから少し上った右側に このホテルと青い屋根の映画館があったそうです.

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ガバメント・センター
バーンハム公園を挟んで、バギオ市役所の反対側、現在のコンベンション・センターや
フィリピン大学バギオ校辺りに 政府機関の建物があったようです.

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バギオ病院
現在のBaguio General Hospital (BGH) バギオ総合病院.
マルコス・ハイウエイ沿いの FIL-AM地区辺りから撮影したものだろうとのことです.

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バーンハム公園周辺
現在のフィリピン大学バギオ校あたりから、バギオ市役所方面を望む.
右の方が セッション通りの方角になります.

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絵葉書の裏側には、

ゴルフ・コース及びラグーン と書いてあります.
当時を知る日本人の方によれば、バーンハム公園で日本人学校の生徒たちは遊んだり、ゴルフをやったりしていたそうです.
この絵葉書の左奥に最初の日本人学校があって、現在の中華のファスト・フード・レストラン、チョーキンがある場所だったそうです.

又、 Commonwealth of the Philippines 独立準備政府のフィリピンと書いて
ありますので、1935年ー1941年ごろと考えられます.
1942年ー1945年は 日本軍による軍政となりました.

さらにハガキの裏側の左に縦書きで Japanese Bazar という名前がみえます.
セッション通り一番の百貨店と言われた 日本人経営の商店が販売していたことが分かります.
又、別の絵葉書の裏には、 PINEスタジオや MOUNTAINスタジオなどの名もあります.

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マンション・ハウス
当時の「夏の大統領官邸」です.
今は 観光施設となっていますが、時折 現在の大統領もここに来るようです.

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中部大学の 青木澄夫 教授

青木教授は、100年ほど前の1900年代初期における日本人が 東南アジアの各国で、どのように日本人コミュニティーを形成していたのかを 調査研究されています.
その研究対象の都市のひとつとして、バギオ市を選ばれたそうです.
http://www.chubu.ac.jp/news/detail-2293.html


注意:  ここに掲載されている画像の転載、無断使用は固くお断りいたします.
      必要な場合は直接 青木教授の承諾を得ていただくようお願いします.



又、同教授からご紹介いただいたフィリピン、バギオ関連の資料の一部を掲載したページもご覧ください:



梶原保人 著
「図南遊記」 1913年発行
http://janl.exblog.jp/18939480/

1935年ごろの資料
http://janl.exblog.jp/18946247/


早瀬 晋三 著
「フィリピン近現代史のなかの日本人 植民地社会の形成と移民・商品」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-8c54.html



寺見元恵 著
「第2章マニラの初期日本人社会とからゆきさん」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-be3f.html



戦前のバギオの様子については、
こちらのページにも 「歴史探訪シリーズ」として掲載しておりますので、ご参照ください.
http://janl.exblog.jp/13538369/




   




     



       


     



    
history of baguio city philippines photo postcard before world war II early 1900s
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by janlbaguio | 2013-11-07 22:43 | History バギオの歴史

1909-1941年のバギオの写真と絵葉書展 11月17日まで


VINTAGE BAGUIO
PICTURE-POSTCARDS 1909-1941
MARYKNOLL ECOLOGICAL SANCTUARY
CAMPO SIOCO, BAGUIO CITY

マルコス・ハイウエイからすこし入った MARYKNOLLエコロジカル・サンクチュアリで
「ビンテージ・バギオ」と題して、1909年から1941年までの 戦前のバギオの光景を
今に伝える 写真と絵葉書の展示会が開催されています.

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会場の名前は CAMPO SIOCO の メルノール と言えば分ります.

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会場の入り口にはこの案内があります.
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バギオの市制が始まってから戦前までの古いバギオの町の様子を見ることができます.


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この展示の中には、戦前のバギオ日本人学校で小学生として学んでいらした
バギオ・ボーイの写真家 古屋氏が保存されていた貴重な写真などもあります.

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また、こちらでは、バギオの歴史に関する書籍なども販売されています.
特に 日系人の歴史をつぶさに記録した ジャパニーズ・パイオニアの本は 必見です.

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この展示会は 2013年11月17日までとなっています.
お見逃しなく・・・・・




  



    



    



       

 
 
 
 
 
 
 
      
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by janlbaguio | 2013-11-07 22:29 | History バギオの歴史

「日本占領下のバギオ市」 フィリピン大学バギオ校での講演会



バギオ市制104周年記念事業のひとつとして、
フィリピン大学バギオ校の社会学部主催の公開講座が開催され、
フィリピン大学ディリマン校の リカルド T. ホセ博士が
「日本占領下のバギオ市」というタイトルでの講演をされました。

その内容が 聴講した北ルソン日本人会のメンバーのサイトにありますので、
ご参考までにリンクします。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/09/post-fdab.html

バギオの歴史を理解する一助となれば幸いです。

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by janlbaguio | 2013-09-14 18:46 | History バギオの歴史

8月15日 フィリピン・カリラヤでの戦没者慰霊祭に参加しました

少々遅ればせのご報告です。
昨年は台風・洪水の影響で参加できなかった カリラヤでの日本人戦没者慰霊祭。
今年は北ルソン日本人会からは2名が参列させていただきました。

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ラグナ州カリラヤにある広い日本庭園の中に この慰霊碑はあります。

毎年 フレンドシップ・ツアーさんの慰霊祭ツアーに参加。
8月15日の朝6時に マカティにあるDusitホテル前に集合し、小型バスでカリラヤへ向かいます。

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2時間半ほどで カリラヤ会場に到着。
いつも雨の心配がある会場の天候は、今年は強い日差しの晴天でした。
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開会の辞、フィリピン大統領の代読の後、日本人のコーラス・グループの歌を背景に 献花が始まりました。
日本大使ご夫妻などがお参りされました。
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北ルソン日本人会(JANL)のメンバーも献花に参加。

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今年は例年になく 多くの皆さんが参列され、献花の列は長く続きました。

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最後に 卜部大使の言葉で散会となりました。

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JANLの花輪の左には 鹿児島歩兵71連隊の花輪がありました。
ケノン・ロードのCAMP3に立派な慰霊碑を建立された戦友会・遺族会からの花輪です。

昨年は台風の影響でJANLは不参加でしたが、今年の慰霊祭にはフィリピンの方々は参加されていないことに気付きました。
一昨年以前には、コーラス・グループやフィリピン大統領の代読はフィリピン人の方々でしたが、今年は コーラス・グループも日本人の皆さん、 大統領の代読は 大使館の公使が務められました。


慰霊祭は滞りなく終わり、昼食会場へ移動しました。

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フィリピンのあちこちから参加された日本人の皆さんと歓談しながらの昼食会となりました。
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マニラ会や PRA日本人倶楽部などの皆様もいらっしゃいました。

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この昼食会場は カリラヤからマニラへ向かう途中にある 「桜苑」。
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桜苑は 日本人向けの介護付きのケア・ホームだそうです。

昼食後は、他のグループとは分れ、JANLの二人は マニラ近郊の避暑地として有名な
タガイタイの見学に向かいました。


   

   

    
   


    

       
    
  
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by janlbaguio | 2013-08-24 11:52 | History バギオの歴史

Rudy Furuya  "Home" Photo Exhibit  古屋英之助 写真展 9月15日まで

8月17日にオープンされた Rudy Furuya 古屋英之助 写真展「ふるさと」が 
9月15日までの日程で開催中です。
会場のBenCab美術館については こちらのサイトでご確認ください。

http://bencabmuseum.org/

又、写真展の詳しい内容については、こちらのページでご参照ください。

http://janl.exblog.jp/18343794/


以下は 8月17日のオープニングの様子です。

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ベン・キャブ美術館の中のこちらの会場です。
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ベン・キャブ氏の挨拶の後、アルカンタラ女史から古屋英之助氏の紹介がありました。
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ルディー・フルヤ氏にとっては これがバギオに於ける個展の3回目。
1933年にバギオ市で生まれ、1945年の終戦後 戦時捕虜として日本へ強制送還
されて以来、「ふるさと」であるバギオを想い続けてきた心の内を語られました。

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オープニングには、古屋氏の旧友など関係者が集われました。


そして、8月19日。
北ルソン日本人会の有志及び北ルソンで研究などをされている方々が集まり、
「古屋氏のバギオ」、戦前のバギオ市における日本人コミュニティーや街並みの
様子などを語っていただく会をもうけました。

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まずはお鍋を囲んでの懇親会。
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戦前にバギオ市に暮らしていた皆さんから提供された貴重な写真などが
プロジェクターで披露されました。
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そして、話はバギオの平和な時代から、戦争、山岳地帯への逃避行の話にまで
及び貴重な時間を過ごさせていただきました。

お忙しい中、時間を割いていただいた古屋英之助様に 御礼を申し上げます。


 





    




    


      
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by janlbaguio | 2013-08-21 00:09 | History バギオの歴史

フィリピン・バギオ市Camp John Hayの アメリカ大使館 動画

たまたま発見したお宝映像です。
フィリピン・バギオ市の中に、元米軍基地であった キャンプ・ジョンヘイがあって、
この敷地のほとんどは市民および観光客の憩いの場となっているのですが、
この場所だけは一般公開はされていない場所。

バギオ市の中にある 「アメリカ大使館」 の建物です。

こちらのYOUTUBEで 動画での説明がありましたのでご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=wzY4vZD5kdc

この動画の中で、この建物がどのような歴史を辿ってきたかの解説がされています。

なぜこの建物が歴史的な意味を持っているかといいますと、
ここで第二次大戦の 日本・フィリピン戦が 山下奉文大将による正式な降伏文書への
署名によって終結したからです。

山下大将は、1945年9月2日に イフガオ州の山を下りてキアンガンの町で実質的な
降伏を行い、翌日9月3日にバギオ市のこの建物で公式文書に署名したとされています。

第二次大戦中に日本軍によって接収された このキャンプジョンヘイは、
フィリピンにおける日本とアメリカの戦争が始まり、そして終わった場所とも言われています。


貴重な映像を是非 ご覧ください。


キャンプ・ジョンヘイについては、こちらの英文のサイトに解説があります。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Hay_Air_Base

このサイトの情報には、以下のような記述があります:

Camp John Hay may have been the first place in the Philippines bombed by Japan in World War II. At 8:19 a.m. on December 8, 1941 – December 7 on the Hawaii side of the International Date Line – seventeen Japanese bombers attacked Camp John Hay killing eleven soldiers, American and Filipino, and several civilians in the town of Baguio.

<翻訳>
キャンプ・ジョンヘイは第二次大戦において、日本によるフィリピンへの爆撃が最初に行われた場所であったかもしれません。
1941年12月8日午前8時19分ー日付変更線のハワイ側では12月7日ー 17機の日本の爆撃機がキャンプ・ジョンヘイを襲い、米比の兵士11名、及びバギオの町の市民数名が死亡しました。


尚、山下奉文大将については こちらのサイトでご参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E5%A5%89%E6%96%87




    




    




        

     
    



    



     



      

  


   



  
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by janlbaguio | 2013-08-13 23:51 | History バギオの歴史