カテゴリ:History バギオの歴史( 80 )

バギオ歴史探訪シリーズ - 5  Historical Walk in Baguio

シリーズ5では、セッション通りの一番上から ゆっくり下ってみましょう。

シリーズ1で掲載した手書きの戦前のバギオ地図に、郵便局や通信局が書いてあります。
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バスターミナルからセッション通りを見ると、
この辺りが 戦前の通信局ということになりそうです。
今は 銀行やPLDT(フィリピン長距離電話会社)などがあります。

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そして、セッション通りの向い側には 郵便局が 戦前と変わらずにここにあります。

さて、地図を見ますと、通信局の並びに、日本人経営の床屋、カピタルバザー木下、
さらに下には 山本商店があります。
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これが現在のセッション通りですが、この辺りに上記のお店などがあったことになります。
向こう側に見えているビルが PRIMEホテルです。

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戦前のバギオを知る日本人の方にうかがいましたところ、
このビルの VIDEO ONE と書いた看板のあたりに、
「山本商店」があったそうです。

「山本商店」はパン屋さんで、その右隣りにワシントン・ホテルがあり、
さらにその右側に 映画館があったそうです。

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これは 当時のジャパニーズバザーで販売されていた絵葉書の絵です。
ここにその「ワシントン・ホテル」が描かれています。
そして、その右側のドームのある建物が映画館だとのことです。
地図を読みますと 「アルハマル映画館」とあります。

この映画館では、その当時でも カラーのハリウッド映画が上映されていたそうで、
日本国内よりもかなり進んでいたようです。
叉、当時のバギオの日本人家族は、「よそ行き」の服装で映画を見にいったものだ
というお話でした。

しかし、この立派な映画館も、戦時中の絨毯爆撃で焼失したそうです。
映画館は木造の4階建てだったと聞きました。

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さて、この写真ですが、パレードのスナップのようです。
今でいえば フラワー・フェスティバルのようなものでしょう。

飾られた旗にご注意下さい。
アメリカの旗と日本の旗です。
当時は フィリピンはアメリカが統治していたのですね。

写真の右側の建物は 今のプライム・ホテルのあたりで、左側に見えている
建物は おそらくアルハマル映画館ではないかと思われます。
セッション通りからハリソン通りに抜ける道 CALDERON通りが交わった地点です。
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今現在の地点で言えば、プライム・ホテルのあるこの角のあたりです。

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そして、このパレードの写真。
真ん中にある二つの建物。 たくさんの日章旗が飾ってあります。
このふたつはつながっているようで、全体がジャパニーズ・バザーのようです。
左側の建物の屋根の部分の文字はかろうじてそのように読めます。


この左側に永富氏の経営のマウンテン・バザーがあって、、裏側には
「エンパイア・ホテル」もあったとのことです。
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さて、これがその「エンパイア・ホテル」。 
日本語で言えば「帝国ホテル」ですね。
当時は大日本帝国だったわけです。

この写真の右や下に書いてある記事を読みますと、
俳句の会が このエンパイア・ホテルで開かれたことが分かります。
昭和14年に撮影されています。

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今のプライムホテルの裏にこのような通りがあります。
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この通りの右側に、戦前のエンパイア・ホテルはありました。
ただし、入り口はセッション通りに面していたそうです。


次回の シリーズ 6 では、セッション通りに戻って
ジャッパニーズ・バザーなどを見て行きましょう。

その6は こちら です。













フィリピン 北ルソン バギオ 戦前 地図 セッション通り 
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by janlbaguio | 2011-09-19 12:15 | History バギオの歴史

バギオ歴史探訪シリーズ - 4 Historical walk in Baguio

ハリソン通りを 今のコーディリエラ大学(University of the Cordilleras)の
方へ登って行きましょう。

途中には、ハリソン通りからセッション通りへ ガソリンスタンドから斜めに
登っている道がありますが、それを左に見ながら真直ぐ行きます。

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これは 戦前の「パインズ・ホテル」を バーンハム公園側から見た
当時の絵はがきの写真です。

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これも同じく、戦前のセッション通りを描いた絵はがきの写真です。
この絵の中で、右上に描かれている建物が 「パインズ・ホテル」です。

ちなみに、この絵はがきは、当時のセッション通りにあったジャパニーズ・バザーで
20枚1組で販売されていたものだそうです。

これから判断すると、手書きの地図にあるように、戦前のPines Hotelは
今のコーディリエラ大学やその隣りにある選挙管理委員会(COMELEC)の敷地の
辺りにあったことが分かります。
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「思い出はマニラの海に」という本があります。
この本は当時の北部ルソン日本人会の会計役であった郡司忠勝氏が
書かれた本で、ジャパニーズ・バザーで働いていた時の思い出や、
戦前、戦中、そして敗戦のことなどが詳しく描かれています。

パインズ・ホテルは1920年代にアメリカが建設したそうですが、
この本の中に、以下のような記述があります:

「(セッション通りの一番上から)台湾銀行の前を通って枝道の一本道を
行くとバギオ第一のホテル<パインズ・ホテル>がある。
いまは軍政監部に接収されて<松雲閣>と名を変え、軍関係者の
宿泊施設や兵団の高級将校の夜のクラブとなっていた。」

戦時中のバギオを知る、当時小学生だった日本人の方の話では、
この松雲閣に 宝塚歌劇団か松竹歌劇団の女性たちが軍の慰問に
来たこともあったそうです。


このバギオ一番の高級ホテルも、戦火の中に焼失しました。

そして、戦後に再建されたのですが、その場所は 今のSMバギオのある
場所に移っています。

戦後生まれの地元の人たちの間でさえ、この歴史はあまり知られていないようで、
ほとんどの人たちが 「パインズホテルは 今のSMバギオの場所にあった。」
と言います。

しかし、SMの場所に再建された名門ホテルのパインス・ホテルも
1984年に火災で焼け落ち、多くの宿泊客が犠牲になったとのことです。


この戦前の二つの絵はがきから 戦前のバギオの姿を見ると、
セッション通りの一番上に現在建っているSMバギオの辺りは
一面の松林であったことが分かります。

 
では、次回 その5では、コーディリエラ大学から バス・ターミナルを
抜けて、SMバギオの下の交番辺りから セッション通りを下って行きましょう。


その5は こちら です。

   
  
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by janlbaguio | 2011-09-15 15:50 | History バギオの歴史

バギオ歴史探訪シリーズ - 3 Historical walk in Baguio

バギオ歴史探訪 その2では 最初の日本人小学校まで歩いてみました。
今日は その地点からバーンハム・パークの外周に沿って ハリソン通りの方へ
向って行きましょう。

サンシャイン・スーパーマートの手前まで歩くと、ガソリンスタンドがあります。
その隣のこのビルです。

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CALTEXのスタンドのすぐ横のビル、今は中古品などのお店が入っているようですが、
戦時中は 「日本軍の憲兵隊」 が接収していたビルだそうです。

元々は商店が入っていたそうですが、憲兵隊のビルになっていた時には
中に留置場などもあったとの話です。

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このビルの左側に見えている木は バーンハムパークの木です。

日本軍は当時、バーンハムパークや今のピープルズ・パーク付近で
抗日ゲリラという容疑をかけられた人たちを 見せしめの為に
公開処刑したという話も残っています。


次は、バーンハム・パークの角 サンシャイン・スーパーマート/ベニス・ホテルの
交差点(向い側はチョンサン・ハリソン)を右に ハリソン通りに入ります。

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このチョンサン・ハリソンの場所ですが、
戦前はここに 「樋口自転車店」、その隣に「塚本床屋」があった、と地図に
あります。

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その1にご紹介した手書きの地図によれば、ハリソン通りから セッション通りの
今の PRIMEホテルの方に抜ける道の角に、「セント・フランシス病院」という
早川専平氏経営の病院があったとされています。

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これが戦前の病院の写真です。
(ご注意: 戦前の写真については無断転載・使用をお断りします。)

地図の中では「セント・フランシス病院」となっていますが、
写真では 「パインズ病院」と読めます。

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今現在の 同じ地点の写真です。
ジョリビーになっています。

この早川氏一族は、セッション通りにあったジャアニーズ・バザーも
経営していたようです。

戦前の日本人が バギオ市建設の時代に いかに大きな貢献をしていたか、
日本人コミュニティーが いかに繁栄していたかが偲ばれます。


   
その4は こちら です。



    
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by janlbaguio | 2011-09-15 14:25 | History バギオの歴史

バギオ歴史探訪シリーズ - 2 Historical walk in Baguio

バギオ歴史探訪シリーズの1では、戦前の手書きの地図をご覧いただきましたが、
その地図の右下の辺りから 皆さんと一緒に歩いてみたいと思います。

バギオ市役所の近く、バーンハム・パークの西の角。 
Kisad Road(キサド・ロード)にこんな瀟洒な建物を見かけたことはありませんか?

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ここは 今は Heritage Mansion(ヘリテッジ・マンション)と呼ばれる
ホテルになっています。
改装前は韓国料理店のコリアン・パレスという看板が掛かっていました。

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なぜヘリテッジ(遺産)なのか。
元々この邸宅はドイツ人が建築したものだそうで、金を惜しまずに建てよという
指示だったとか。 そこに日本人の大工 大久保さんが関与したと言われています。
バギオを高原保養地として開発することを決めたアメリカは、
まずその手始めにケノン・ロード(ベンゲット道路)を開きました。
その道路建設に大きな貢献をしたのが日本人移民でした。
そして、道路建設が終わり、バギオ市の建設のために大工、石工、庭師などの
仕事でその日本人移民が活躍の場を求めたのです。
当時のバギオ市の建設には、これらの日本人が様々な分野で力を発揮したのでした。

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その入り口。
この玄関を入ると みごとな螺旋階段があります。
それこそが、大久保さんの手によるものだと 戦前のバギオを知る日本人は
語っています。


そして、キサド通りから、バーンハム・パークの方に入ると、
オーキダリウム(蘭などの植木のお店)の前方にこんな建物があります。
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そして すぐ隣には、
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この場所には、戦前に バギオで初の日本人学校があったのです。
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今の CHOWKING と SIZZLING TOPPINGS の 丁度あいだ辺りに小学校の
入り口があって、向って右側に校舎、左側には庭があったとか。

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さて、この写真は。 ゴルフ場ですね。
左の奥に見えるのが小学校です。

日本人小学校の生徒にとっての運動場は このバーンハム・パークだったのだそうです。


ただし、この場所は 初期だけで、その後 新校舎の完成に伴って、
マグサイサイ通りのLUCBANに移転しました。

(ご注意: このバギオ歴史探訪シリーズに掲載している戦前の写真に
      ついては 無断転載・使用をお断りします。)

   

その3は こちら です。
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by janlbaguio | 2011-09-10 00:58 | History バギオの歴史

バギオ歴史探訪シリーズ - 1 Historical walk in Baguio

今年の4月に 「バギオ歴史探訪シリーズ」を始めますといいながら、
もう9月になってしまいました。
http://janl.exblog.jp/12355392/

その際に、「歴史探訪マップ」も作りたいとも書きました。

しばらくの間、仕事の方がお休みになり、時間が出来ましたので、
ゆっくりゆっくり進めていきたいと思います。

このシリーズは 戦前のバギオにおける日本人コミュニティーをご存知で、
バギオ生まれの写真家・古屋英之助さんのご協力をいただきながら、
上記「マップ」作りの準備段階という位置づけにしたいと考えております。

まずは、この手書きの地図をご覧ください。
(二瓶敏子様の手によるものです。)
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(写真の上で クリックすれば 大きい画像になります。)

さて、この地図の範囲ですが、セッション通りを中心にして:
左上は ティーチャーズ・キャンプ(Teachers' Camp)方面
右上は ケノン・ロード(Kennon Road)方面
左下は バギオ・センター・モール(Baguio Center Mall)方面
右下は キサド・ロードのヘリテッジ・マンション(Heritage Mansion)方面

となっています。

この手書きの地図は、バギオの日系人組織である北ルソン比日基金(Filipino-
Japanese Foundation of Northern Luzon, Inc.)からご提供いただいたものです。

この内容は、戦後何年も経ってから、戦前の事を覚えていた二瓶敏子さんが描かれたものです。

では、もう少し、地図のポイントとなるところを見ていきましょう:

まず右上に「総合グラウンド」があります。
これは今も変わりません。 現在のグラウンドは隣にテニスコートもあります。

その下に「公会堂」と書いてありますが、この辺りは今は小さな遊園地になりました。
そして、同じブロックの下に 「ゴルフスタート地点」と書いてあります。
さらにその下に道路を隔てて 「旧日本人小学校」があります。

この「ゴルフ・スタート地点」は、今は オーキダリュームの辺りで、
「旧日本人小学校」の場所には 現在は中華料理系のファースト・フード・
レストランであるチョーキンが入っているビルがあります。

そして その左上は、皆様ご存知の「ボルハム・パーク」、今はバーンハム・
パークと一般的には表示されています。

「池」の下の円形の部分の説明書きには
「この円の中で体操時間を通し、毎年日本人小学校、日本人会合同の
大運動会も行いました。」とあります。

その左側は、今現在は メルビン・ジョーンズと呼ばれているサッカー場などが
ある場所ですね。
その説明書きを読みますと、
「昔カーニバルの最中だけこの場所にたくさんの遊具施設ができましたが、
その後来なくなりました。 昭和10年頃には丸太切りコンテスト等が
行われていました。」
とあります。

その左にある道路が ハリソン・ロードです。
丁度真ん中あたりに「支那人小学校」とありますが、これは今現在の
中国系のバギオ・パトリオット・ハイスクール(Baguio Patriot High School)
と思われます。

そして、そのハリソン・ロードから斜めに坂を登って セッション・ロードに
交差する角のところに、今のプライム・ホテル(Prime Hotel)の辺りに、
「マウンテン・バザー」「ジャパニーズ・バザー」という日本人経営の
商店がありました。

「エンパイア・ホテル」というのも日本人経営だったそうで、
その右側にある「セント・フランシス病院」も日本人経営だったようです。

セッション・ロードの「マウンテン・バザー」から上に登ると、
「アルハマル映画館」、下にくだると「パインズ・チャーター」とありますが、
ここにも「パインズ・シアター」映画館があったそうです。
(おそらく、チャーターと言うのは 今の表記ではシアターではないかと思います。)

セッションをずっと登っていくと、右側には「山本商店」」があって、
説明書きに「(戦時中)北部ルソン日本人会事ム所」が置かれていた旨の
記述があります。

さらにその上の角に、「通信局」とありますが、これはおそらく
今現在のPLDTのビルではないかと思います。

その右上に「バギオ・バス・ステーション」とあるのは、今も同じです。
ただし、上の説明には
「昭和10年頃までのバス・ステーション。 後にアイスプラント近くに移る」
となっています。

この説明書きが書いてある場所に今は SMバギオがあるのですが、
SMが出来る前は「パインズ・ホテル」がありました。

この地図の上では、「バギオ銀行」の右に「パインス・ホテル」と書いて
ありますが、実は戦前のパインズ・ホテルはこの地図の通りの場所にあったのです。

この位置については戦前派と戦後派の人たちの間でふたつの意見に分かれています。
戦前のバギオを知っている日本人の記憶では、この地図の通りですが、
戦後のバギオを知っている地元の皆さんは今のSMの場所だと言います。

この点については地元の情報を調べましたところ、以下のような情報がありました。

「知らない人が多いのですが、パインズホテルは二つありました。
最初のは 今現在 UC(BCF)大学・選挙管理委員会の場所に 1920年代に建てられ、
第二次大戦によって焼失しました。
二番目のものは今のSMの場所に 戦争のすぐ後に建てられ1984の火事で焼失しました。」


バス・ステーションの左に、「郵便局」がありますが、これは今も
この場所ですね。

そして、皆様ご存知の「カトリック大寺院・カテドラル」。
これは今の表記ですと「バギオ大聖堂」です。

大聖堂の裏には、「セントルイス女子校」や「セントルイス男子校」、
その左側には「ノートルダム病院」が今とだいたい同じ場所にあったようです。

「スペイン人」と書いてある辺りに、今はバギオ大学が建っています。

このジェネラル・ルナ・ロードを下っていくと、「フジ・ホテル」という
日本人経営のホテルがあって、その裏側にあたるところに 地図の中では
岩間商店と山本グロセリーの間の路地を入ると 「東京堂」と呼ばれた
和菓子のお店があったそうです。

地図の一番左下に、「神戸キッチン」が書いてあり、その説明書きには
「唯一の日本人レストラン。 開店して間もなく宮井氏病没し、支那人レストラン、
程なくして ダンワトランコの事務所となる。」と記載されています。
(ダンワトランコと言うのは バス会社で、今はバギオ・センター・モールの
裏側にそのバス・ターミナルがあります。)

以上がおおまかな地図の内容ですが、
右下の「聖母マリア像」のところに「83年訪バの際まで現存していて感激!」
との記述がありますので、戦前はバギオ在住で、1983年当時に日本在住の方が
この地図の制作に関わっていらっしゃったものと推測できます。

さて、みなさん、この地図の中に いくつ日本人のお店がありましたか?
数えてみて下さい。


その2は こちら です。


 
    



























































 















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by janlbaguio | 2011-09-07 12:13 | History バギオの歴史

フィリピン山岳民族と日本軍との戦い ー ドキュメンタリー映画


2011年8月20日、ベンゲット州国立大学で

「Nowhere Yet Everywhere
- Untold Stories of THE 66th Infantry Regiment」

(「どこにもない、なのに どこにでもある
  - 語られなかった第66歩兵連隊の物語」)

というビデオ・ドキュメンタリーが公開されました。

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このドキュメンタリーは、元山岳ゲリラ兵だった退役軍人の証言を基に
その子どもの世代、及びベンゲット州国立大学の歴史研究者などによって
制作されたものです。

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ドキュメンタリー映画は、ゲリラ戦の体験者の証言や、

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制作に関わった 地元の若者たちによる再現ドラマ、

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記録映画からの収録、

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そして、その中には バギオ「解放」時の映像も含まれています。

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叉、貴重な資料も見ることができます。

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上映会の会場には ハイスクールや大学の若者たちが集まり鑑賞。

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この記録映画を製作した若者達。
ほとんどが二十代の人たちで、一部の音楽を担当したのは17歳だそうです。

地元の歴史を記録しようという若い人たちの活動に声援を送りたいと思います。

尚、このドキュメンタリーを是非 日本の皆様にも見ていただきたいということで、
日本語字幕を付けようという計画もあるそうです。

北ルソン日本人会としても、翻訳などについて協力をしたいと考えております。
日本側の戦争体験者でも知りえなかった 地元の歴史の真実が新たに発見されるかも
しれません。


  
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by janlbaguio | 2011-08-21 12:40 | History バギオの歴史

バギオ歴史探訪 ー バギオ映画祭より

JANLの分科会のひとつとして「バギオ歴史探訪マップ」を作ろうという分科会が出来ました。
そして、先日開催された「バギオ映画祭」をちょっと覗いてみましたところ、その案内パンフレットにこのようなページがありました。

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このページの左側には 1940年当時のパインズ映画館。
戦火をまぬかれ今もそのビルがセッション・ロードにあります。
そしてページの右下をみますと、嬉しい写真が大きく取り上げられています。

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日本人が経営していた パインズ・スタジオとジャパニーズ・バザー(1935年)です。
これはセッション通りにあって、当時のバギオの中にあっては一番大きいデパートであったとのことです。

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そして、次のページにも興味深い写真が・・・
左上はずらりとならんだハイヤーと運転手の整列。 左下は1960年のセッション通り。
右中には日本人移民が大いに貢献したケノン・ロード(ベンゲット・ロード)、
そして、右下には 戦後のバギオ・ロアカン空港の様子などが掲載されています。

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(画像の上でクリックすれば大きくなります。)
パンフレットのひとつに このナショナル・シネマ・ニューズレターがありました。
ここには映画業界と深くかかわってきた国際的避暑地バギオの様子が述べられています。

そして、バギオの人口については、
1927年の8,000人から 1939年には24,000人になったとあり、
旅行者も 22,000人から150,000人に増加したとの記述があります。

・・・・・

次回から 「バギオ歴史探訪」シリーズとして、戦前にバギオの日本人小学校の生徒であった古屋氏のご協力を得て バギオの日本人関連の歴史的スポットをご紹介いたします。
 
 
 



  
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by janlbaguio | 2011-04-01 18:04 | History バギオの歴史

バギオの歴史 :   郡司忠勝著より 最終回(6の6)

「思い出はマニラの海に」郡司忠勝著 三月書房より抜書き

(注:はブログ管理人のコメントです。)


今回は「終戦の後の在留邦人の状況」を読んでみます。

p267
遠くで手投弾の爆発音がした。 私は自分の腰の二つの黒い鉄の塊に
触れてみた。
<戦争は終わったというのに>
・・・・・
一人の兵隊の腰にある拳銃が気になった。 私たちは散発的に
聞こえる自決の銃声を耳にしながら再び歩きはじめた。

p271
兵隊や邦人の姿が多く目につくようになり、人の流れがゆっくり
大きな波となってマゴックに向っていた。 
・・・・
その水辺には、半身を流れに浸したまま死んだ兵隊や邦人の哀れな
姿があった。 水を求めた人たちの最後の姿である。
(注: マゴックは キヤンガンの西北西数キロの地点にあり、
    フンドアンの南のアシン川を渡った辺りにあるようです。)

p273
どうしてこんなに沢山の人たちが倒れているのかと思うほどに、
旱魃で死んだ動物の骸のように草むらや樹の下に転がっていた。
毛布を体に巻き、頭から天幕をかむった邦人の姿が目につく。
・・・・
マゴック村は小さな広場を中心にして四、五軒の木造家屋が並び、
それを取り巻くように萱葺きの家が点々としていた。
集結がはじまった邦人の姿がほとんどで、蝉の抜け殻のように、
また夢遊病者か亡霊のように生気を失い、うつろな目で広場を
歩き、腰を下ろしていた。
数軒並んだ中央の二階建てが領事館とのことなので、世話役が
到着者名簿を持って出向いた。


p282
ホヨ、アンチポロ方面の邦人はフラグダンを経てバクダン道に入り、
またマゴックから中央山系にかけての邦人もバクダン道に入って、
ともに米軍基地やキヤンガンへと流れていた。
(注: ホヨとアンチポロはキヤンガンの南十数キロの地点に
    あり、バクダンと言うのはマゴックとキヤンガンの間に
    あるようです。)

p284
雨水の流れる山道を邦人が途切れずにぽつぽつとキヤンガンへと
歩いていた。 さきに行き会った男の子が死んでいた。
母の後を慕いながらとぼとぼと歩いていた小さな姿が目に浮かんだ。
誰かが寝かせたのであろうか、道端の厚い草の上に横たわり、
手にしていた芋が供えられたように顔のそばで雨に濡れていた。


p298
一度は帰国を決意してマニラに出た身であったが、もし残留が
許されるなれば、このままこの国に住みたいと思った。
故郷の肉親にも逢いたいし、また山河も懐かしく思うのだが、
私のとっての心の安らぎは、やはりバギオの地にあるように思えた。


(注: 現在でも これら山岳地帯の山村では、反日感情が
    残っている所もあり、叉、日本人であることが分かると
    いわゆる山下財宝を探しに来たのではないかと必ず疑われ、
    最近は日本人が引き起こした遺骨盗難問題もあって、
    警戒されます。
    叉、地域によっては新人民軍の影響が残る所もあります。
    戦没者慰霊の為であっても十分な事前調査、現地の
    信頼できる方の協力など注意が必要です
。)


全ての戦没者の皆様に哀悼の意を表し、このシリーズを終わります。

このシリーズの最初のページはこちらです: 
http://janl.exblog.jp/11940343/
 
 


















終戦 敗戦 1945年9月3日 山下奉文大将 降伏文書署名 バギオ市 ジョンヘイ 現アメリカ大使公邸
フィリピン アメリカ 日本軍 
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by janlbaguio | 2011-02-08 23:01 | History バギオの歴史

バギオの歴史 :   郡司忠勝著より その5

「思い出はマニラの海に」郡司忠勝著 三月書房より抜書き

(注:はブログ管理人のコメントです。)


この抜書きは 戦争当時のバギオの歴史と地理の関係を振り返る為の
資料としております。
本書は 既に絶版となっているようですが、古書としては購入可能です。

今回は戦中のバギオ在留邦人はどこを彷徨ったのかを読んでみます。

p178
1945年(昭和20年)
1月3日  山下大将方面軍戦闘司令部をバギオに置く。
1月7日  米艦隊 北・サンフェルナンド一帯を砲爆撃。
1月9日  米軍リンガエン湾上陸。
1月12日 米軍機バギオ初空襲。
1月23日 米軍機バギオ大空襲。
(注: 北サンフェルナンドは ラ・ウニオン州のサンフェルナンド市である。)
(注: バギオの当時を知る地元の人たちは カーペット・ボンビング
    絨毯爆撃があったと言います。)


p180
バヨンボンから北へ二キロ、ソラノから南に三キロの地点に
ボンハルがある。 ボンハルでは総領事館指揮のもとに在留邦人が
疎開村をつくっていた。
・・・主にマニラ方面からの邦人であるが、後になってバギオ落ち
した邦人
が朝日村をつくって加わったとのことである。
・・・各村は食糧の自給生産に力を尽くしていた。
(注: バヨンボン付近は 6月7日に米軍に占領されたとの資料がある。)

p217
<景山隊の陣中日誌によると、キャンガン入りは6月13日22時とある。>
去る1月14日のカバナツアンのB24のじゅうたん爆撃では沢山の
市民が犠牲になったが、ここキヤンガンでは祖国の兵隊の死体が散乱した。
五、六歩も歩くと、すぐ新しい死体があった。
(注: キャンガンは 山下大将が降伏する為に下りてきた町で、
    当時は桜町と呼ばれ、今は山下大将降伏の記念館がある。)

p220
景山隊は、狭く険しい土人道をバクダンへと向った。 バクダンは
キャンガンから4キロほどのシェレネバダ山脈の山襞のなかにあって、
キヤンガン・イゴロット族の居住域である。 そのバクダンの西方
の渓谷にはキヤンガンを逃がれ出た在留邦人や傷病兵が居るという。
戦闘司令所も近くに来ていて、・・・・
(注: キヤンガンから北へ行くとバクダン、キヤンガンから
    西に山脈を越えた辺りに 当時「大和基地」と呼ばれた
    最後の砦があった。 今は ワンワン村と呼ばれる村の
    辺りで、地元の人も入らないような場所であるそうだ。)

p221
バクダンへの崖道で邦人のひと群れに出会う。 邦人は狭い道の
山側を掘って、雨露をしのぐ簡単な萱の差し掛けをして半地下の
生活をしていた。 バギオで薬局を経営していた・・・・の方たち
がともに寄り合っているとのことで、・・・
近くには多数の邦人の姿が見えたが、・・・

かつてはその名を恐れられた首狩り族の部族である。 ・・・ミイラ
として秘密の洞穴に安置する風習があり、・・・・
バギオの邦人はこの埋葬地の近くに居るらしく、ところどころに
洞穴の入り口が見え、・・・

p222
「ウォーッ、郡司さん」
カーキ服に巻脚絆の、杖を手にした一人の初老の人の咆えるような
声である。 懐かしい声だ。 戦闘帽の下でくぼんだ目がじーっと
私を見つめて立ち止った。 北部ルソン日本人会長の早川豊平さんだ
邦人の生活状況視察の道らしく伸びた髭の顔に疲れが見えていた。

p229
山道から見える芋畑では蔓が裏返り、小石の地肌が露出していた。
芋を探したあとの蔓伏せをする兵隊が少なく、それがまた敵機の
恰好の目標となった。 空からガソリンを投下して、山を一つずつ
焼き上げては、蜂が群がるように敵機は攻撃した。

p230
バクダン方面にいた在留邦人は二手に分かれて山岳深くマゴックへと、また
ひと手は遠くアンチポロホヨ方面に移動して行ったとの
ことだった。
(注: アンチポロは バクダンから南へキヤンガンへ戻り、
    それからさらに20キロぐらいの道を南の山奥へ入った
    ところにある。  ホヨはアンチポロから山脈を越えて
    やや西北へ大和基地よりに入ったところである。
    現在も この辺りへ入る道はかなりの困難を伴うそうだ。)
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by janlbaguio | 2011-02-05 11:57 | History バギオの歴史

バギオの歴史 :   郡司忠勝著より その4


思い出はマニラの海に」  郡司忠勝著 三月書房より抜書き

(注:はブログ管理人のコメントです。)


p138
邦人青年の現地徴兵のための検査に立ち会うため、兵団徴兵官に随行して
北部ルソン一周の旅に出た。 ・・・バギオ在住の二世たちも含めて、
三十名ばかりの邦人青年が3日間の特訓を受けた。
・・・・マンション・ハウス(総督官邸)の人工池では胸まで水に浸かって
渡河訓練をした。
(注: マンション・ハウスは夏の大統領官邸にもなりました。
    マルコス大統領が失脚した後は、廃屋状態になりましたが、
    その後観光名所になっています。)

p147
(バーンハム公園の)周囲の丘陵には市庁舎をはじめ士官学校、大聖堂、
国立総合病院、大統領別邸、公会堂、ホテル、別荘などが箱庭のように、
緑のなかに色とりどりの色彩で点在していた。
池をめぐって小さなゴルフ・コースがあり、ローラ・スケート場、テニス・
コートや華僑の青年たちがよく遊ぶサッカー広場などもあった。
(注: 士官学校は現在はPMAとしてロアカン空港の隣にあります。
    国立総合病院は現在のBGHバギオ総合病院かと思われます。)


p148
池の南側の芝生のなかに緑色の公会堂がある。
・・・公会堂から池に沿って西に歩くと、公園のはずれに木造二階建の
小さい建物が目につく。 いまは共同住宅になっているが、かつての
日本人小学校である。・・・・・新校舎の建設が進んでいた昭和十一年
十月、村井熊雄校長が家族とともに赴任してきた。三十歳を出たばかりの
若い校長は長崎県出身の九州男児である。
(注: 元々バーンハム公園の西隅にあった日本人小学校は
    新校舎の完成に伴って ロクバンに移りました。)

p151
バギオ大聖堂の裏手の丘を左に下りて行くと小さな森がある。
その森の中を曲がりくねった一本の細い道が通っている。 いくばくも
なく木造二階建の大きな建物に行きあたる。 それがノートルダム病院である。  ・・・カトリック教系の病院で、・・・・病院の中庭には
小さな礼拝堂と聖母マリヤ像が立っていた。
(注: 森があったところは現在はセントルイス大学附属高校辺りか。
    ノートルダム病院は現在のバギオ大学の隣にあります。)

p164
海抜1,500米のバギオから一気にラ・ウニオン州のバワンに下るこの
ナギリアン道は、かつてロング・ビーチの海岸によく遊んだ道である。
・・・やがて山を下りきった報道車は急造の小さな飛行場のそばを通る。
・・・小型の連絡機が一機忘れられたように片隅にあった。
ここまでくればもうバワンである。 北・サンフェルナンドまで
南へ約10キロの道のりである。
(注: バワンからサンフェルナンドまで「南へ」と書いてあるが、
    これは「北へ」の間違いではないかと思われる。)

p165
(サンフェルナンドで)・・・私を見ると
「なんだ、まだ来るのがいるのか」とあきれ顔である。
「早く逃げろよ、アメリカが来るぞ。」
と背の高いほうが、足早に通り過ぎながら言った。
「マニラ行きの連絡車が十九時に着く、それが最後だ。」

p166
敵に追われて砂浜に乗り上げたと見える日本の貨物船が二つに裂けて
船首を高く青空にもたげていた。 日の丸の船体に鉄錆が浮き、汚物が
波に洗われていて哀れであった。
(注: ラ・ウニオン州のサンフェルナンドの港は、日本軍が最後に
    上陸した地点となり、アメリカ軍の再上陸前には多くの
    日本艦船が沈められた。)


p173
マニラを捨てた方面軍司令部は年の改まった昭和二十年一月三日
山岳都市バギオに移転した。 日本軍の戦況は悪化の一途をたどり、
南部の島々を攻略した米軍のルソン島上陸は、早時間の問題となっていた
ようである。

p174
一月七日、リンガエン湾深く進攻した米艦隊は北・サンフェルナンド
一帯を猛砲撃し、九日には上陸を敢行した。


p175
B24の<じゅうたん爆撃>でカバナツアンは瞬時にしてこの世から
消え去った。 振り返りもせずに飛び去った敵機のあとには、阿鼻叫喚の
地獄絵だけが残った。 ・・・死体がごろごろと転がっていた、
首が離れ、手足が散らばっていた。 そのなかを私は方向も分からぬまま
同じ流れに乗って走った。
「へいたいさん、連れていって・・・」
道端で懸命に助けを求める日本女性の声がした。・・・・・
(注: カバナツアンはターラックの東にあり、ヌエバ・エシハ州の
    都市である。)

 
 
 
 
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by janlbaguio | 2011-01-21 11:54 | History バギオの歴史