カテゴリ:History バギオの歴史( 80 )

バギオの歴史を学ぶコーナー(8ページ目)


CITY OF PINES 「松の都市」
著者: Robert R. Reed


第四章
バギオの建設初期

開発のデザイン: バーンハム計画



p103
このように、バーンハムはバギオの管理された拡大を求め、又同時に、都市の指定保留地内あるいは周辺における松の森を維持することに心を配るよう求めたのでした。

p111
このバーンハムとの計画作成の結果として、又、その他のおびただしいベンゲットでの調査を含め、フォーブス行政長官は 高原保養地および地域の首都としてバギオが開花するために必要な条件は三つであると結論付けた。 

第一番目は、ベンゲット・ロードを完成することが絶対に必要であること。それは、低地から高地へ到る納得出来る料金での交通機関を保証することであり、さらに、山岳都市の都市保留地内での優れた道路網を開発する為である。 これらの基盤整備計画が終わってこそ、傷病者や、休養をする人々、それにその他の高地への旅行者が、その数に於いて、中核となる高原保養地を維持するに十分なものとなることが出来るのである。

二番目には、フォーブスはバギオに於ける宿舎、食事、リクリエーション施設は、適切な道路がパンガシナンと繋がれたあかつきには、予測される旅行者を受け入れるには全く不十分であるとはっきりと認識していた。 彼はこれらの条件を改善すべく、ホテル、レストラン、クラブ、そして公園などへの投資を、政府内および個人においても喚起した。

最後に、フォーブスは、バギオの完全な成功は、マニラの一時的在住者である西欧人コミュニティー、主要な中核都市のエリートのスペイン系白人、さらにはフィリピン国中に台頭するフィリピン人中産階級の人々が興味を持ち、支持を続けてくれることに掛かっている確信していた。

・・・ 新しい道路が開通した後でさえも、山岳地域への旅はまだ非常な困難を伴うものであった。 遅くて退屈なマニラからダグーパンへの鉄道でのたびの後に、バギオへの巡礼者は高原へ到着する前に 53マイルにも及ぶ馬又はラバでの荒っぽい旅行を強いられたのです。 さらには、六月あるいは七月に南西モンスーンが始まると、常に大きな崖崩れや、橋の流出や、ベンゲット・ロードの間欠的な閉鎖に見舞われたのでした。
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by janlbaguio | 2008-10-17 23:10 | History バギオの歴史

「北部フィリピン高地に於ける日本人パイオニア達」

「北部フィリピン高地に於ける日本人パイオニア達」
編集: パトリシア オオクボ アファブレ
発行: 北ルソン比日基金 

Japanese Pioneers in the Northern Philippine Highlands
a centennial tribute 1903-2003
Edited by : Patricia Okubo Afable
Publisher : The Filipino-Japanese Foundation of Northern Luzon, Inc.
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フィリピンへの日本人移民。1903年から2003年までの100年を祝して編纂された 北ルソンにおける日本人パイオニア達の歴史を刻んだ貴重な一冊。
330ページのふんだんに当時の写真を掲載したこの歴史書は1903年から1945年の敗戦前までの日本人コミュニティーの姿を集大成した力作である。
ベンゲット道路(ケノン・ロード)の建設を始めとして、バギオ周辺の開拓・建設に大きな力を発揮した日本人達の意気込みと労苦、そして、一世を風靡した豊かな暮らしを垣間見て欲しい。

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この写真は「大正十三年(1924年) 日本人学校の落成記念」です。
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この日本地図に黒い丸で印があるのは、日本人移民の出身地を表しています。
関東周辺と西日本、そして沖縄が多いようです。

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当時の日本人学校での行事。 運動会、学芸会、剣道、弁論大会など。
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戦前の日系人社会の平和な家族のスナップ。

これは、 目次 のページです。
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1. 奥地での橋の建設
   バギオとベンゲットにおける日本人開拓者の歴史
2. 大工、石工、製材の仕事
3. 私のお父さんは親方、見習いからの
4. 農業、造園、絹産業。その先駆け達。
5. ボントックとサガダの日本人社会。
6. ボントックの建築家、アイハラ ナオジロウ。

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7. バギオとトリニダッドの事業家ファミリーと日本人会
8. バギオの草分けの住民、ヒデオ ハヤカワ。
9. バギオ日本人学校:卒業生からの写真
10.バギオの建築請負人、チャールズ ムネオ テラオカ。
11.フルヤ 写真コレクション
12.日系フィリピン人社会での文化と日常生活 
13.「あなた 夫 私、そして、私 妻 あなた・・」
   - それは どうやって始まったのか
14.エピローグ 1941-1945年 バギオの日本人

なお、巻末には 1903年から戦争前の1940年までの日系一世から三世までの名簿も掲載されています。


この書籍は、北ルソン比日基金のほか、「ハポネス」写真展が開かれている SMバギオの最上階にある 来々軒で 写真展期間中(2008年8月まで)に購入することが出来ます。
価格は 2,500ペソ(ハードカバー)
   
この書籍は英文です。
巻末の一部 日系人の名簿は日本語でも記載されています。


 
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by janlbaguio | 2008-06-26 00:29 | History バギオの歴史

バギオの歴史を学ぶコーナー(7ページ目)

p97

第四章
バギオの建設初期


開発のデザイン: バーンハム計画

p99
行政長官フォーブス(Forbes)は、フィリピンの二つの首都の都市計画を作るために、二十世紀への変わり目にアメリカで最も有名な建築家であり都市プランナーであった チャールズ F.マッキム(Charles F. McKim)と ダニエル H. バーンハム(Daniel H. Burnham)のいづれかを雇えないかと探り始めました。

p100
1904年10月13日、 ダニエル H.バーンハム と 彼のアシスタントである 
ピアース アンダーソン(Pierce Anderson)は サン・フランシスコを出航し、12月初旬にマニラに到着しました。 六週間の期間中、その二人のアメリカ人プランナーは 多くの政府職員に聞き取りを行い、マニラとバギオの地図を研究し、その二つの群島の首都の多くの側面を調査し、そしてさらに、時間を見つけては現場を見て回ったり多くの人々と言葉を交わしました。

p101
バーンハムは 1905年1月16日にフィリピンを離れ、直ちに仕事に取り掛かりました。 個人的なメモやフィリピン群島政府から提供された材料を元に、アメリカへの長い航海の間に、その夏の首都のための大雑把な設計を準備することが出来ました。 そして、シカゴにある彼の家に戻ると その都市計画を形にしました。 その成果である「バギオ・プラン」は 1905年10月5日にタフト長官に提出されたのです。

多くの二次的な要素を詳しく述べるまでもなく、バギオの設計の本質はなお要約出来るでしょう。 明らかに重要なのは、バーンハムがバギオの期待された機能をはっきりと規定したことでしょう。 つまり、フィリピンの夏の首都として、主要な保養地として、大規模な市場のセンターとして、そして、レクリエーション活動の中枢として。

p102
毎年 植民地のエリート達が東南アジアの高原避暑地に詣でるのは、 涼しい環境での静養、くつろぎ、回復、そしてリクリエーションによって促進されていましたので、 バーンハムは カントリー・クラブへ転換できる広大な地域を確保しました。 それは、一流の政府高官、西欧の事業家、そして裕福なフィリピン人に供するために意図されました。
しかし同時にバーンハムは、中流のアメリカ人やフィリピン人のリクリエーションのニーズも無視することはありませんでした。 バーンハムは、少なくとも二つの主要な公営の公園を造ることを強く求め、さらには、「周囲のすべての丘の大部分は公共の財産であり、非公式の公園として保全されると宣言されるべきであり、一方 特に丘の頂上部分は 緑の頂点をしっかり守るために公共の保留地として別途保全すべきだ」と提案したのです。
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by janlbaguio | 2008-05-08 00:27 | History バギオの歴史

Kennon Road ケノン道路(ベンゲット道路) 展望台

「バギオの歴史」の本を読む中に出てくる ケノン・ロード(ベンゲット道路)。
ここで、ケノン・ロードの キャンプ7 にある 展望台を訪ねてみましょう。
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KENNON ROAD VIEW POINT 又は VIEWING PAVILION です。
この建物には 北ルソン比日基金(北ルソン日系人会・アボン) のサインがあります。

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展望台からは ケノン道路を見下ろすことが出来ます。
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マニラとバギオを結ぶ みっつの大動脈のひとつ。
その中でも 一番険しく、雨季ともなると 今でも崖崩れなどの危険が伴います。

その困難であった道路建設の歴史を物語るものが ここにあります。
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その敷地にある記念碑を読んでみますと、
「2,300名の日本人移民労働者が このケノン・ロードの建設に携わり、その多くが事故や病気で犠牲となったことを追悼する。」
と書かれています。

さらに、この敷地の横にある交番の隣には、ケノン大佐の胸像があります。
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陸軍大佐 LYMAN W. KENNON (ケノン大佐)
アメリカ陸軍 第十歩兵連隊
「ケノン道路の建設者」

この記念碑を読みますと、
「この記念碑は ベンゲット道路の100年祭(1905-2005)をお祝いするものです。 ベンゲット道路は、その建設者の名をとって 後年フィリピン政府により ケノン・ロードと命名されました。 四千人もの多国籍の労働者への尊敬と感謝を捧げます。 アメリカ、フィリピン、日本、中国、カナダ、ハワイ、メキシコ、インド、ヒンズー、チリ、ペルー、スペイン、イタリア、ロシア、ドイツ、フランス、ポルトガル、スエーデン、その他の国々の人々で構成されていました。」
とあります。

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この記念碑は、フィリピン国内の記者クラブの発案で、北ルソン日系人会を含む 様々な市民レベルの支援によって建てられたと記されています。

上記ふたつの記念碑を総合すると、 およそ4千人の建設労働者の内、約2,300人が日本人であったことが分かります。

ただし、この人数については、いろいろの説があるようで、こちらの 展望台建設当時の新聞記事では 違った数字が出ております。
延べ三万人の内 日本人労働者は 約2割、つまり 6,000人くらいということです。
ちなみに、日本人の犠牲者数は 700人とあります。
又、 展望台の場所が キャンプ8 とされていますが、キャンプ7の間違いです。
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by janlbaguio | 2008-05-05 13:35 | History バギオの歴史

バギオの歴史を学ぶコーナー(6ページ目)

CITY OF PINES 「松の都市」
著者: Robert R. Reed


第三章  バギオの起源
      フィリピンの環境についてのアメリカの認識

(続きです。)


p89
・・・ L.W.V.Kennon(ケノン)少佐は 道路プロジェクトの任務に就き、1905年1月に開通したベンゲット道路のすべての区間に渡って一所懸命に仕事をしたのです。 ・・・・ ケノンは三千人の労働者を数ヶ月で組織しました。 これは本来歴史的な事業であったのです。 なぜなら、その作業チームは46カ国の男たちから成り、多くの言語を話し、様々な宗教を信じ、そして、他の場所の仕事に移動する前に ほんの2~3ヶ月だけここで働きたいと言う者が多かったからです。 ・・・・・


p90
ケノン少佐は、前任者とは違い、さらに 技術や人的組織のすべてに渡って 西欧の方が優れているという観念には囚われない人物でした。 実際のところ、少佐は 建設活動を容易にするものであれば、その技術的な提案を進んで受け入れたのです。
それゆえに、牛馬などの蹄が道路舗装に使われていた鋭い川砂利で薄く磨り減ってしまった時には、ケノン少佐は 日本人の工夫した藁と麻で作った草履を採用したのです。 そして、それが不十分であると分かると、今度はアメリカ南部から来た黒人の馬丁が、牛と水牛の蹄を守る特別な鉄の靴を作ったのです。
それがさらにはっきりしたのは、山の支脈に大きな切込みを入れ、その土を道路に埋め込む場所に流し込むために、ケノン少佐は 山岳民族イゴロットの水車を採用したいと思っていたことです。

   1905年1月29日、ケノン少佐はついにフィリピン委員会に対して、 その全区間のほとんどのところで、「道路は、現状のままで、すべて完成し、線路を引く準備は出来た。」と報告することが出来たのです。
・・・・・・
そのベンゲット道路 - 後日その建設者の名前をとって、ケノン道路と命名されました - は、既に 二百万ドルになろうとするコストと、病気や事故によって数百人の人命を犠牲にしていました。


p91
第三章 <つづき>

一般人向けの保養所: 臨時の中核として

1902年の早期に、行政長官は保養所プロジェクトを開始し、Otto Scheererから かなり広い土地を購入しました。 そこは実質的にパインズ・ホテルの土地に一致する場所です。 <現在のSMバギオの一帯です。>

この取引が行われた時、計画されていた静養患者用の施設の場所には 二つの家屋がありました。 ひとつは米国人のマウンテン州知事に与えられ、より大きな公邸が出来るまで使用されることになり、 もうひとつは新しい一般人向けの保養所の中核となったのです。
・・・・・・
 
p96
・・・・ 1906年に行政長官は 保養所の本館を C.M.Jenkinsに貸し出しました。 ジェンキンスは、すぐにその家をファースト・クラスのホテルに改造し、一般市民が休養や静養や娯楽の為に使えるようにしました。 近くのいくつかのコテッジは暫定的に、入院患者や外来患者への医療サービスのために確保され、そして、行政長官は間もなく恒久的で大きな病院の建設の為に資金を承認しました。 1907年の この機関の開設によって、保養地としての初期の役割に於いて、完全な分岐点となったのです。
Baguio General Hospital(バギオ総合病院)は マウンテン州に於ける先進的医療施設となり、又、当初の静養患者センターは 北ルソンの中で最も著名なホテル - the Pines(ザ・パインズ)ホテル - となったのです。 バギオの健康とリゾートの機能は、これによって、効果的に二つの独立した、そして今でも名高い機関として位置づけられることとなったのです。


<次回は 第四章 に突入です。 「バーンハム計画」>
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by janlbaguio | 2008-04-30 01:27 | History バギオの歴史

バギオの歴史を学ぶコーナー(5ページ目)

CITY OF PINES 「松の都市」
著者: Robert R. Reed


第三章  バギオの起源
      フィリピンの環境についてのアメリカの認識

(続きです。)



p75
ウォーセスター・ライト委員会と 二人の医療アドバイザーの 正式な推薦に従って、フィリピン行政長官達は 暫定的にバギオの開発を認可したのです。 それは、この開発に於いては、ほんの二つ目の正式な立法措置に過ぎませんでした。 ウォーセスター、ライト 及び 彼らの一行が北方からマニラに戻って一ヶ月も経たない 1900年9月12日に法律となった 法令第2号を通して、植民地政府当局は 提案された高原避暑地と低地とを最終的に結ぶように計画された鉄道網の調査のために 5千ドルを承認したのでした。

これは、しかし、アメリカ支配の最初の10年間に米比委員会によって立法化された バギオ関連のおびただしい法律の最初のものでした;  彼らは マニラにある植民地政府当局の目から見れば主要な山岳都市の無視できない重要性に対して まとまって意見を述べたということになります。
これらの法令によって、行政長官達は 不可欠な道路建設プロジェクトに数百万ドルを投入しました;  健康に良いとされる高地の気候であることを確認する為に測候所を建て; ベンゲット州とバギオ市の両方に 行政機関を組織し; 新しい高地の拠点のための 下水、給水、そして電力のシステムを認可し; ラ・トリニダッドに農業研究所を造り、町の境界内で 数百もの住宅および建物用の土地を公売に出し; 数多くの政府機関の建物や関連する基盤施設を建設し; 健康とリクリエーション増進のために軍用の特別保留地を確保し; バギオの総合的な都市設計を準備するために 著名なアメリカ人都市プランナーである Daniel H. Burnham を雇い入れました。
このようにして、二十世紀の初期に、フィリピンの行政長官達は 東南アジアにおけるもっとも優れた高原避暑地のひとつと言うだけではなく、北ルソンに於いて第一の都市となるべき都市の確固たる基礎を築いたのです。



第三章 <つづき>
ベンゲット道路: その葛藤と成功
p80
ウオーセスター・ライト委員会がマニラに戻って2週間も経たない内に、フィリピン行政長官達は ベンゲットに入る鉄道の建設を推進することを 彼らの中で非公式には 明らかに合意していたのです。  
彼らは -前述の法令第2号―の具体化を 9月の第二週まで実行に移していませんでしたが、面白いことには 少なくとも1900年8月28日頃には鉄道網の調査のための調整は始まっていたのです。
そして、その当日、Charles W. Mead大佐は Arthur MacArthur将軍から、当時のマニラに於ける都市エンジニアの任務を解除し、暫定的に彼を 米比委員会に任命するという命令を受けました。


p82
1900年12月14日に提出された調査隊に関する報告書の中で、ミード大佐は 最短距離で一番安い鉄道のルートは 正に Bued<ブエド>河沿いであると述べています。
<注: この最短ルートは 掲載された地図によれば、ラ・ウニオン州の アゴオとバウアンの間に位置するアリンガイの町から ほとんど真っ直ぐ東へバギオまで向うルートです。>

ミード大佐は、いくつかの短いトンネルが必要であるし、山の支脈に多くの深い切り込みを入れる必要もあると、かなり困難な建設作業の可能性を認めてはいたものの、これらの問題は簡単に乗り越えられるものと信じていました。
実際に、大佐は一年以内なら 鉄道路床のせいぜい3パーセント程度しか完成出来ないだろうと判断していました。 

労賃、建設資材、公道用地購入、鉄道レール、店舗、及び 所有車両の総コストを およそ2百6十万ドルと見積もった後に、ミードは 次のように提案したのです。
計画されている鉄道路線の全線に渡って 普通乗用車向けの仮の道路を建設することを通じて、高価ですぐに必要となる鉄道建設の費用を先送りできるのではないかと。 そしてその見積コストは ほんの7万5千ドルであると。
フィリピン行政長官たちは、植民地政府の他の分野においても重い財政的責任に直面していましたので、 そのような好都合な情報は 渡りに舟だったのです。

行政長官たちは、すぐにベンゲット鉄道延長の開発を数年間延期することを決定し、破格に安い自動車道路を代わりに選んだのです。

p83
建設作業は1901年1月中旬に ベンゲット道路の北と南の両端で急ピッチに開始されました。 総監督は ミード大佐でした。 同年の7月までに、その頃アメリカは雨季の間はすべての建設工事を停止する必要があると分かったのですが、たったの10マイル、つまり 当初計画されていた道路全線の三分の一以下しか完成できなかったのです。
それどころか、この10マイルというのは、ブエド河渓谷の入り口に到る低地の既存の小道を改良したに過ぎなかったのです。
その上、ミード大佐が 建設期間とコストの両方で膨大な過少見積りをしていたことが明白になってしまったのです。  その結果、大佐は以前のポストであったマニラでの都市エンジニアとして戻されてしまいました。

p84
1902年1月1日、ベンゲット道路の仕事は N.M.Holmes主任技師の指揮の下に再開されました。 ホルメスは ブエド河の砕け易い渓谷の壁に路盤をゆっくりと削っていくという報われない任務を引き継ぐことになったのです。
ほんの6ヶ月後に、ホルメスはプロジェクトの完成をあきらめてしまいました。
その後3年間に渡って道路建設プロジェクトを悩まし続ける深刻な問題が既に露呈していたのです。

p85
ホルメスと彼の直属スタッフ、そして およそ2千人の労働者たちの真剣な努力にもかかわらず、道路建設者たちが報告できたのは、1903年6月までに 通行可能な道路をやっと18マイル完成出来たというものでした。

p86
行政長官たちやそのアドバイザー達の第一の、そしておそらく最大の、判断ミスは、ミード大佐の最初のプランを真面目に審査せずに受け入れたこと、あるいは、フィリピンで経験を積んだ技術専門家による二次評価をしなかったことでしょう。
それと同時に、アメリカ人技術者 ―ミードとホルメス― が直接の道路建設の責任者であったため 彼らが工事を行った環境と文化的背景の中で、すべての現実を把握することに単に失敗したと言う事です。

技術的設計における明らかな大失敗に加えて、彼らは 長々と続く雨季の間のタイム・ロスを考慮することを無視し、アメリカ人の労働倫理が必ずしも他の人々には適用出来ないことを理解せず、たった一日の間に何十インチもの大雨をもたらす台風の 路盤や橋梁に及ぼす潜在的影響について判断ミスをしたのです。
そのような河の氾濫時には、渓谷道路の主要な区間は 大きな泥流に文字通りかき消され、 高価な鉄の橋梁も あっと言う間に上昇するブエド河の水流によって 瞬く間に構脚と橋げたがもつれあった固まりに変えられてしまうのです。  


p88
1903年夏、バギオとベンゲット道路開発に対する抗議の声がますます大きくなり、米比委員会は 高原避暑地開発計画をすべて投げ捨てるか、激しい論争をくぐり抜けて推し進めるかの二者択一を迫られることとなりました。


p89
膨らみ続けるコストと抗議の声にもかかわらず、フィリピン委員会は バギオの辺鄙なイゴロットの村は フィリピン群島で最高の山岳都市に必ずや変容し、ベンゲット道路によってマニラと結ばれるであろうと宣言したのです。
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by janlbaguio | 2007-12-30 16:52 | History バギオの歴史

バギオの歴史を学ぶコーナー (4ページ目)


CITY OF PINES 「松の都市」
著者: Robert R. Reed


第三章  バギオの起源
      フィリピンの環境についてのアメリカの認識


(続きです。)


p69
バギオにおける主な保養施設建設のプランを学んだ後、彼はさらに、マニラにおいて政府公文書の体系的な調査を始め、Blancoのベンゲット委員会の膨大な報告書を探し出しました。 Worcester教授は優れた動物学者であり、有能な研究者でもありましたから、この膨大な科学的文献に非常に喜びました。 なぜなら、この文献は多くの疑問にその答を提供してくれたからでした。 地形、降水量、植生、気温、そしてバギオの水の供給、さらには ベンゲットに到る新しい道路あるいは鉄道に最適なルートなどにも及んでいました。
そのような具体的な技術的情報は、もちろん、島国の首都に住んでいる普通の有名な情報提供者からは得られないものでした。

p70
Worcesterは 意図されたプロジェクトを 誰が最終的に決定するのか探していました。 陸軍長官は、ベンゲットが健康とリクリエーションの有望な地であると思ったようで、フィリピンの行政長官に指示を出し、彼らがマニラに帰り次第 その高原の詳細の調査を始め、もし条件が良ければ アメリカの高原保養地を建設するように命令しました。

Rootの口頭指示に基づいて、タフト・フィリピン委員会は 1990年7月に二人のリーダーを指名します。- Dean C. Worcester(ウォーセスター) と Luke E. Write(ライト) - でした。 この二人は、健康リゾートとして ベンゲットが適しているかどうかを確認するために、ベンゲットの山々を調査する任務を与えられた特別委員会のリーダーとなりました。

p71
山への短い訪問の間に、ウォーセスター、ライトとその調査団一行は 1896年に現在のバギオの地域に定住したドイツ人学者で農園主の Otto Scheererの家に宿泊します。 この人物はベンゲットに関する彼の知識を教え、ガイドとして協力し、叉 中緯度の果物や野菜がどのように適応するかを 彼自身の農園で実証して見せて、一行の努力に大きな貢献をします。

マニラに戻るとすぐに、 ウォーセスターとライトは 一行の調査と結果について 簡潔かつ確信に満ちた報告書で 次のように結論づけました:
ベンゲット高地の気候は、北ニュージーランドにおける晩春から初夏にかけての気候に非常に近い。 そこでは 白人の婦人や子供達が生活を楽しめると信じることができる多くの理由がある・・・ もしベンゲット州がマニラとの間で迅速な連絡がとれるようになれば、毎年 数千ドルの金額と幾百人もの貴重な生命が 救われることになるであろう。 
バギオは 予備野営地として素晴らしい地点にあり、そこから必要に応じてフィリピン群島のあらゆる地域に軍隊を配置することも可能であるだろう。
叉、新たにフィリピンに来た人々にとっても、気候に順応するための優れた場所であろう。
気候的な条件の悪さから体調を壊した兵士も、実際にひどくなる前にそこへ送って回復させることが可能であろう・・・  このように、傷病兵は最も環境条件の整ったところで回復する機会が与えられる。

p72
牛にとっての牧草も豊富であり、経験的にこの地域において非常にうまく行われている。 
多くの温帯での果物、野菜、そして穀物を有利に栽培できることも叉確かである。

ダグーパンとバギオを結ぶ良い高速道路の建設を速やかに開始しなければならない。
さらには、ダグーパンあるいはスアルから バギオまでの鉄道が 可及的速やかに完成すべきであるということを 強く進言する。
それが完成したあかつきには、ベンゲットは理想的な健康リゾートとなるであろう。 フィリピン群島の住民 及び 中国の沿海に住む人々にとっても すぐに行くことの出来るリゾートとなるのである。
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by janlbaguio | 2007-11-21 14:23 | History バギオの歴史

バギオの歴史を学ぶコーナー (3ページ目)

CITY OF PINES 「松の都市」
著者: Robert R. Reed

バギオのイメージ



p45
第一に、そして彼らの報告書の前文という形で、その三人の行政長官らは、次のような言葉で高原保養地に対する公共の要求を認め、これを支持したのです。

フィリピンに於いて長い間必要と感じられていたものは保養地の建設であります。 その保養地では、病状を回復させるイベリア半島の気候、叉は日本の気候、そして中国の海岸などを求めて、国を去ることを余儀なくされた数え切れない患者が、彼らの病気を癒し安心することを得られるかもしれないのです。 提案されているフィリピンの保養地は、医療・病院のサービスを補完することになるでしょう。 それは叉、病気の兵士、元気づかせるような気候の特性を必要とする病気の兵士、が完全に回復するでしょうし、長く深刻な病気で弱った者たちが回復期にあって、身体に滋養が必要な者たちが、徐々に蝕まれた力を取り戻すための適切な保護施設を設けることにもなるでしょう。


p47
<第二に・・・・・>
これらの<病気療養などの理由で海外に行かねばならない外貨の損失を減らすことが出来ると言う>高原保養地プロジェクトの予測される利益のほかに、スペイン人行政長官らは、もっと広範囲にわたる重要性から開発を考えていました ― つまり、山の住民のすみやかな近代化です。 ベンゲットと低地の間にしっかりした道路を建設することを通して、スペイン化されたフィリピン人の流入を促し、イゴロットを文化的、社会的、政治的、そして経済的に変えていく効果を期待したのです。  山岳地帯中心部に大規模な保養地兼リクレーション・センターを作ることによって、スペイン人は同時に、忠実な軍人に道徳的負債を返すこと、フィリピンからペソが流出するのを少なくすること、そして、ルソンの高地民族の近代化に資する事を提案したわけです。


第三に、これが一番重要なのですが、ベンゲット委員会が考慮していた問題は、フィリピンの高原避暑地をどこに置くかという選択の問題でした。 ラ・トリニダッドの多くの快適さは認めてはいましたが、その行政長官らは最終的に、究極の開発の可能性という点から、隣接するバギオの村の方がもっと優れた立地であることが証明されたと結論づけたのでした。 大規模な高原保養地の開発可能性にとって重要と考えられるあらゆる観点 - 健康によい気候、充分な水の供給、農業の将来性、燃料の入手可能性、リクレーションの可能性、そして低地との通信の繋がり - から、バギオが第一位にランクされそうでした。 このベンゲットの村の健康によい環境に関する長々とした解説と、多湿な熱帯地方における他の成功を収めた高原保養地との類似性にしたがって、スペイン人の行政長官らは、現在のバギオの立地場所に大規模な政府の病院を早急に建設するよう強く支持しました。



第三章  バギオの起源
      フィリピンの環境についてのアメリカの認識



p57
フィリピンの大多数のアメリカ人が、熱帯地方での帝国の冒険的試みには健康障害は付き物だと充分理解していたことは、ほとんど疑いありません。 実際、初期の植民地の記録 - 公的なものであれ、私的なものであれ - 何度となく、フィリピン群島の自然や病気の分布に関する長々とした解説が、強調されたのです。 
米国の陸軍がマニラの拠点から突然進出し、フィリピン群島の全域を征服しようと軍事作戦を開始して ほんの4ヶ月ほどすると、アーサー・マッカーサー司令官(ダグラス・マッカーサーの父)は、 「私の軍は 体調が崩壊に向っている。」としぶしぶ認めたのでした。  アメリカの兵隊は、赤痢、腸チフス、マラリア、そして他の多くの病気に襲われていたのです。  植民地全域における遠隔地のアメリカ人の病気や死亡率を大幅に減少させた公衆衛生の手法を医師団が開発し始めてから およそ二年後に、米国フィリピン委員会は、次の言葉で島国の健康状況について表明しました。

これらの島々において、整備された公衆衛生部門が出来れば、衛生条件の総合的な改善が図れることは自信をもって予測出来るかもしれないが、 湿地の低地で作戦を強いられる部隊や、あるいは 駐屯地を作るべきではない状況の中で出来た駐屯地の部隊は、 多かれ少なかれ、下痢、赤痢そしてマラリアにひどく悩まされるのは、疑いのない事実として残るだろう。



p63
残念なことに、頻繁に休暇を取るというのは、大抵は、裕福なビジネスマン、陸軍や海軍の仕官、そして地位の高い植民地官僚に限られていました; ほとんどの熱帯地域の西欧人はただ単に、ヨーロッパやアメリカに長期帰省する膨大な費用を払えなかったのです。
それに、植民地政府も、定期的に家族連れで西欧に帰省したいと願っている何千人もいる平均的公務員や軍人に、交通費や給料を支払うだけの財源を持ってはいなかったわけです。
有給休暇は、実際にほとんどのビジネスマンや政府職員に認められてはいたのですが、これらの休暇の頻度や報酬の形態は、常に、その地位、雇用年数、そしてもちろん、個々人の健康状態によって決まっていたのです。 しかしながら、植民地政府がいかに良く取り扱おうとしても、戦争中や伝染病が蔓延している間は、本土での休暇を取ることが認められる病人であっても、その膨大な人数を支援する充分な財源を確保することは出来ないことがしばしばあったのです。
アメリカがマニラを占領してほんの2年後に、米国フィリピン委員会は、この長引く苦境に関して、次のような論評をしたのです:

熱帯地域では、ひどい負傷や衰弱する疾病からの回復というのは、ゆっくり起こります。
これまでに、膨大な数の傷病兵を日本叉はアメリカへ療養のために送り出さなくてはならないと判明しました。 これには、極めて多くの費用と生命が頻繁に失われることも含まれます。 なぜなら、最も完璧な輸送船と病院船であったとしても、荒波の中での航海では、陸上では可能な病人への看護は 不可能だからです。

結果的にアメリカ人は、熱帯アジアのどこにでも居る西欧人と同じように、健康のための第五番目の処方 - 高原保養地 - を採用したのです。
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by janlbaguio | 2007-10-08 00:19 | History バギオの歴史

バギオの歴史を学ぶコーナー (2ページ目)


CITY OF PINES 「松の都市」
著者: Robert R. Reed

まえがき

xxviページ
現在<本書の第二版発行は1999年>の在住住民は26万人以上です。 それに、バギオ市には半永続的な学生のコミュニティーや主に臨時労働者からなる浮動人口があって、おそらく12万5千人を超えるものと思われます。 この人口は、バギオ経済の要である観光業が、毎年百万人ほどの人々を魅了していると言う事を付け加えなくても、ということになるでしょう。

1990年7月16日の大地震(マグニチュード7.8)は、死者600人、負傷者数千人、バギオ周辺に甚大な物的被害をもたらし、バギオは停滞と衰退に陥るであろうと思われました。 しかしながら、「松の都市」の市民は楽観主義と懸命な働きと実質的な公共事業や民間企業の投資を伴って、否定的な予測にすぐさま立ち向かったのです。
破滅的な地震に続く数ヶ月間のほとんど「テント村」でしたが、片付け作業はすぐに始まり、修復も2~3年にわたって順調に進みました。 バギオは復旧したにとどまらず、人口は増え、機能的な複雑さも拡大しました。


xxxviiページ 
1898年にアメリカがフィリピンに到着するとすぐに、北ルソンに高原避暑地を造ろうという<スペインの>アイデアが復活しました。 ディーン C. ウォーセスターと W. キャメロン フォーブスに率いられて、後者は 西欧人とフィリピン人も同様に利用するための高地の拠点を開発することを任され、フィリピン委員会は政府の公文書からスペインの計画を復活させ、計画された高原避暑地<スペインの計画はラ・トリニダッドだった>に最適なところはバギオであるとして、フィリピンにおける健康リゾートとリクリエーション・センターを複合したものの必要性を、ワシントンの当局者に納得させたのでした。
有名な都市プランナーである ダニエル H. バーンハムの協力を得て、叉、フィリピン人および西欧人双方のコミュニティ内部からの激しい、そして長期にわたる反感にもかかわらず、アメリカの植民地総督は広大な高原避暑地を二十世紀の最初の十年の間にバギオに造り上げたのでした。 1910年までに、バギオはフィリピン群島の公式の夏の首都として機能しはじめ、山岳州における先導的ハイランド・タウンとなりました。
現在、バギオはフィリピンのバケーションのメッカおよび北ルソン最大の都市として残っています。 こうして、アメリカ植民地支配の初期に確固たる基礎がつくられたことを物語っているのです。



第一章  東南アジアにおける植民地定住

p3
スペイン人によって築かれた東南アジア植民地の低地の全域に及ぶ戦略的地点での定住とは異なって、バギオはフィリピン人のスペイン化及びキリスト教徒化を促進する目的で創られたものではありませんでした。 さらに、北ルソンの山岳の人々の政治的、経済的そして社会的進歩を育てるために組織されたモデルとなる地方の首都として、フィリピン独自に一番の高地の中心地を創るということでもありませんでした。 そうではなく、初期の計画、建設および推進に携わった植民地管理者たちは、それを本質的に、その当時フィリピンの暑くてムシムシした低地にのみ居住していた裕福なアメリカ人、スペイン人化されたメスティーソ、スペイン人、そして他のヨーロッパ人に提供するものとして設計された典型的な高原避暑地と認識していたのです。  

p19
スペイン人は、フィリピンのすべての主な島々の山岳民族を、征服し、改宗させ、管理することに非常に熱心でしたが、その継続的努力はほとんど効果がありませんでした。 
何度にもわたる遠征は―大規模なものも小規模なものも、軍事的なものや宗教的なものも―北ルソンの反抗的なイゴロット<北ルソンの山岳地帯に住む民族の総称。 スペイン人による蔑称とされる。>やフィリピン群島のその他の様々な高地の人々に対するものでしたが、 マニラの植民地行政府は それらフィリピンの山岳民族を掌握することが出来ませんでした。  実際のところ、19世紀の後半まで、スペイン人の権威は薄弱で、ルソン島やビサイヤ諸島の山岳地帯には及びませんでした。 



第二章  フィリピン北部におけるスペインの保養地
        軍隊の序曲


p31
初期の病後療養中の患者の為に元々作られたのは小さな高地定住地ーベンゲット州のラ・トリニダッドーで、現在のバギオの立地場所に近いのですが、例えば、これは ルソン島の山岳地帯の中心に住む非常に反抗的なイゴロットの人々に対する スペイン軍の作戦が引き続いて成功を収めた数十年以内に出来たのです。

19世紀最後の10年に先立ち、実際、植民地の首都から北部へ行く陸路による旅行は、困難を極め、予測が出来ず、叉時間も掛かりました。 その当時の低地の幹線道路は、未舗装の道が分割された状態にすぎず、南西モンスーンの発生とともにぬかるみと化していたのです この状況は1891年にいくぶん改善されました。 その年にマニラとダグーパン間に鉄道が完成したからです。 しかし、さらに次々と西欧人の旅行者が、ベンゲット高原への途中で山岳地帯の山麓の丘陵地帯に到着しても、それからまだ ポニーに乗ってくねくねと曲がった山道を何マイルも進まなくてはならず、長い雨季の時期には 時々通行すら出来ない状態でした。  



ルソン島の山岳地帯では、イスラム教の支配地域と同じように、戦いに応じました。
訓練されたスペインの軍隊によって瞬く間に制圧され、何世代にも渡って スペインの政治・宗教的植民地化の多面的な戦略によって著しく変えられた ほとんどの低地の人々とは違って、そのますます敵対的で妥協のない高地の住人たちは、もっと平和的なスペインの申し入れすらも いつも拒否し、彼らのゴツゴツした領地に入ろうとする軍事的侵略にことごとく抵抗しました。 ほぼ三世紀に渡って、イゴロットは 根本的にスペイン化してしまう手順に屈服するのを頑強に拒否しました。 その手順とは、古典的な形としては 征服、政治的服従、キリスト教化、文化的スペイン化、そして恒久的な都市部への移住を意味していました。 スペイン人当局者にしてみれば、そのような抵抗は違法であるだけでなく、ひどく屈辱的なことでもあったのです。



p36
19世紀の40年代、スペインはついに山岳中心部の征服と植民化を開始し、一部は成功しました。 その長く延期されていた攻撃は1780年に成立した国家のタバコ専売に対するイゴロットの抵抗が盛んになったことによって刺激されたようです。 

p37
・・・彼らは頑強なイゴロットの抵抗の効果を著しく抑え、山岳中心部における進行中のスペインの駐留の開始を記すことになります。 これは1846年の高地における最初の持続的な植民行政単位の創出をもって正式のものとされました、つまり ベンゲットの軍政司令部
(comandancia politico―militar) と呼ばれたものです。


p38
ラ・トリニダッドの現実

スペイン人が出現するずっと前から、ラ・トリニダッドは北ルソンの山々の中では非常に重要な場所でありました。 Galveyが最初に ラ・トリニダッドの谷に着いたとき、彼は500の家屋(2,000人の民)で繁栄する村であり、森の丘陵と、ガベ(タロイモ)、さつまいも、そしてサトウキビがきちんと灌漑された畑に囲まれているのを目の当たりにしたのです。 しかしながら、スペイン軍の駐屯地に成る時までに、叉 頻発した軍事衝突により、残ったのは ほんの100家屋と失意の400人の人々でした。


p39
19世紀の最後の10年の間に、ベンゲットの州都はゆるやかに成長し、スペイン時代の終わりには ほぼ3,000人の小さな町になっていました。 さらには、その住民の人種の構成は近隣の高地定住地とは著しい対照をみせました。 本質的に同質のイゴロットのコミュニティとは異なり、ラ・トリニダッドは人々と文化においてかなりの程度の多様性を示しました。 特に目立つ少数外国人は、スペイン人、いくつかのその他のヨーロッパの一時滞在者、そして 少数の中国人が トップ(cabecera)の政治的、経済的生活を支配し、一方で、それに依存するイゴロットの労働者と 着実に増えていくイロカノ族の移住者が 人口の大多数をしめました。



p41
好奇心の強い人たちが中緯度で出来る色々な野菜やいちご類を実験的に作るにしたがって、スペイン人や他のヨーロッパ人たちも真剣にベンゲットの高地で大規模なコーヒー、カカオ、そしてお茶のプランテーションの開発を試みるようになりました。
確かに、すばらしいとまでは言えませんでしたが、その結果は注目に値するものでした。
アメリカがフィリピンを占領する時までに、ベンゲットの西欧人もイゴロットの農民も、すでにキャベツ、エンドウ豆、トマト、アイリッシュ・ポテト、そして いくつかの他の 涼しい気候に合う野菜を生産し始めていたのです。
これはかなり多様性のある作物ではありましたが、しかし、生産高はまだまだ限られていました。 いくつかのコーヒーや相当数の優れたポテトは、実際に、スペイン支配の後年にはかなり定期的にマニラへ出荷されました。
しかし、高地生産品のほとんどは、ラ・トリニダッドに住むヨーロッパ人や他のトップの人々に消費され、叉、新興保養地を長期に渡って訪れ始めた、増加する低地の人々によっても消費されたのです。
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by janlbaguio | 2007-10-06 07:18 | History バギオの歴史

バギオの歴史を学ぶコーナー


このコーナーは バギオの歴史を書籍から学ぶコーナーです。
JANLの会員の一人である佐世たもつが 暇でしょうがない時に ぽつりぽつりと英語で書かれている書籍から 興味のあるところだけをつまみ喰いしながら 英語の勉強だと思って翻訳をしていきたいと思っています。 気長にお付き合い下さい。
尚、翻訳の間違いにお気付きの方は、是非ご指摘下さい。 

まず最初にご紹介するのは 次の本です:
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CITY OF PINES  
The Origins of Baguio
as a Colonial Hill Station
and Regional Capital
(「松の都市 
  ― 植民地の高原避暑地及び地域の主要都市としてのバギオの起源
」)
著者: Robert R. Reed

初版発行: 1976年3月 
発行者: Center for South and Southeast Asia Studies,
       University of California,
       Berkeley, California, USA
第二版発行: 1999年9月
発行者: A-Seven Publishing
       P.O.Box 274
      2600 Baguio City, Philippines

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<<<ご注意: 翻訳文中< >内の解説は翻訳者の調査による注釈です。>>>


まえがき

xxivページ
二十世紀の夜明けに造られて、バギオはすぐに典型的な高原避暑地となりました。 本当に、このアメリカによる植民定住は、南アジアの山岳地域とオランダ領東インドにおけるイギリスとオランダのリゾート地に直接影響され、それらをモデルとしたように思えます。
実際、バギオの創設者達は、ベンゲットにおける新しい夏の首都を、シムラ<Simla,インド北部>、ボイテンゾルグ<Buitenzorg,現在のインドネシアのボゴール>、ダージリン<Darjeeling,インド東部>やその他の主要な避暑地と比較して、その自然の美しさ、健康によい気候、すばらしいスポーツ施設、投資のチャンス、それに将来の見通しなどについて賞賛したものです。


xxvページ
個人的な手紙や、公式のレポートや、出版された記事などで、アメリカの管理者達は何度も、高原保養地の一般的有用性を訴え、バギオに於ける高くつく基盤整備投資を進めながら、アメリカ人、ヨーロッパ人、そして、マニラや他の低地の都市の裕福なフィリピン人のエリート層の中で、高地でのバケーションの健康上の利点を宣伝しました。

最初はフィリピン人やアメリカ人の反対もありましたが、「松の都市」と言う巧みに付けられた名称が、フィリピンの公式な首都として、第一次世界大戦前の十年以上にわたり役立ちました。 そして、リゾート、行政府、及び商業機能を組み合わせた力強いコミュニティーとなります。

1920年代と1930年代には、バギオは急速に成長し、すぐに 大きな健康・リクリエーション・センター、主要なマーケットの町、教育や宗教活動の拠点、広域の行政複合体、軍事訓練と休暇の舞台、そしてダイナミックな社交センターへと発展を遂げました。

第二次世界大戦の勃発によって、バギオは疑いも無く東南アジアで最高の高原避暑地の地位をしめ、年間に十万人の滞在者を魅了しました。 バギオは叉、交通の要所、医療および教育の複合体、山岳州の州都、軍の宿営地、そして製材業、鉱業、ツーリズム、野菜生産で知られる高地領域の管理本部として貢献することになりました。

そのような機能的多様性に応じるように、都市部人口は、1913年の3,500人から 1940年までには25,000人へと増加したのです。




(コーナーの2ページへ続く)
 
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by janlbaguio | 2007-09-26 12:13 | History バギオの歴史