カテゴリ:会員 エッセイ・コーナー( 10 )

フィリピンの歴史教科書から学ぶ - 和訳を連載中

北ルソン日本人会のメンバーのお一人が、
フィリピンの大学で標準的に使用されている歴史の教科書を読み、和訳に挑戦中です・・・・

部分的な翻訳ですが、感想文を交えながらのエッセー風に連載中ですので ご参考としてください.


THE PHILIPPINES
A UNIQUE NATION
SONIA M. ZAIDE
WITH GREGORIO F. ZAIDE’S

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

                   
この写真の左側はハイスクール向け、右側が大学向けのようです:
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このリンクのページが最初のページになっています:
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2014/02/post-1103.html


尚、連載が終了するまでには、数か月から1年間ぐらいかかる見込みだそうです.

以上、フィリピンをもっと知るために、ご参考としてください.


GOOGLEで 「フィリピンの歴史教科書から学ぶ」で検索すると
次のように表示されますので、その連番でページを選択してください:

(以下は例示です)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 00 イントロです - 高原都市バギオ。 雲 ...
baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2014/02/post-1103.html‎
2014/02/11 - フィリピンの歴史教科書から学ぶ 00 イントロです・・・. THE PHILIPPINES. A UNIQUE NATION. SONIA M. ZAIDE. WITH GREGORIO F. ZAIDE'S. HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES. ― 以前からフィリピンの歴史を ...


フィリピンの歴史教科書から学ぶ 04 「好まれる理論」って何??: 高原 ...
baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2014/02/04-342f.html‎
2014/02/13 - HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES. WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE. フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で. 歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして.


フィリピンの歴史教科書から学ぶ - 付録 : 高原都市バギオ。 雲にのって ...
baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2014/02/--bc2e.html‎
2014/02/15 - フィリピンの歴史教科書から学ぶ - 付録. HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES. WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE. フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で. 歴史の教鞭をとっていたRolando氏 ...


フィリピンの歴史教科書から学ぶ 06 間違いだらけのフィリピンの歴史 ...
baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2014/02/06-d174.html‎
フィリピンの歴史教科書から学ぶ 05 ボルネオの王族がパナイ島の土地をアエタ族から買った?? | トップページ | フィリピンの歴史教科書から学ぶ - 付録 ». 2014年2月13日 (木). フィリピンの歴史教科書から学ぶ 06 間違いだらけのフィリピンの歴史. HISTORY ...


  



   

    
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by janlbaguio | 2014-03-03 10:07 | 会員 エッセイ・コーナー

多士済々、JANLメンバーの書籍 ご紹介

北ルソン日本人会のメンバーの皆様は多士済々。

なんと、3名の方が 出版をされていたことが分かりましたので、 ここでご紹介したいと思います。

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ミッション・ポッシブル」 
ー 北朝鮮・悪の収容所から奪還せよ ー
金子謙一著 ナビ出版 2008年発行 

日本、中国、スイス、イスラエル、ロシア、北朝鮮など、世界を股に掛けた政治・軍事・サスペンス・フィクション。
日本人拉致事件を題材とした問題作。
著者の幅広い知識と経験がこの小説の中に光っています。


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アイ! サラマッポ
ー フィリピン人介護者と生きて - 上巻・下巻
寺本一伸著 星雲社 2008年出版

元小学校教師の著者。 31歳の時に頸髄損傷で車椅子の生活に入る。
フィリピンに介護の未来をみる著者の、壮絶な戦いが続く。
読む人すべてに、希望と勇気を与える一冊。


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ゾマホンも知らないゾマホンの国
ー ベナン共和国イフェ日本語学校の今 -
ゾマホン・ルフィン、小国秀宣 共著
明窓出版 2005年出版

日本ではタレントとして有名となったゾマホン。 そのゾマホンが母国に造った「たけし日本語学校」。 その初代日本語教師としてベナン共和国に渡った著者が、ゾマホンとともに国への想いを語っています。
そして、2012年の今。 ゾマホン氏は 駐日ベナン共和国大使として、日本とアフリカの太いパイプとなっています。



御案内:
「書名」の部分をクリックすると、インターネット書店のサイトで詳しい情報をみることができます。 

 
 
 
 
 
 

 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フィリピン バギオ ダバオ マニラ ロングステイ 出版 北ルソン日本人会 JANL メンバー 文筆活動 
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by janlbaguio | 2012-02-05 12:31 | 会員 エッセイ・コーナー

「バギオ物語・BDO/ATMの顛末」


先日の土曜日、ATMでお金を降ろそうとして、SMに行きました。
毎回、場所を変えた方が良いだろうと思い、SM入り口(スーパーマーケット側)
のBDO・ATMで、初めてビザ・カードを投入しました。

BDO・ATMは離れて見ると、ちゃんとカードスリットがあるのが分るのですが、
近くに立つと、ただ「すき間」が見えます。
その「すき間」はちょうどカードスリットの下で、同じ大きさの「隙間」です。

私は、そこがカード入れ口と思い、
ビザ・インターナショナル・カードを入れてしまいました。
結果・・・ただの「すき間」の中にカードが落ちて行ってしまいました。

「オウマイゴッド」
急いで警備員に話すと、BDO本部オフイスがセッション通りにあり、そこに行けば
なんとかなるのではないかとのこと。土曜日だから月曜日に行くように指示されました。

月曜日にBDFオフィスに行くと、火曜日来てくれとのこと、
もうこの辺で、フィリピン事情を分っている方なら、ほとんど諦めますです。
それでも火曜日に行くと、なんと!係の可愛い女性が、
ビザ・インターナショナルカードを持って来たではないですか!
おお、奇跡か!

しかし私の名前を言うと、可愛い首をかしげるのです。
なんと、同じ日本の会社で同じ色で、同じビザカードで、、、、別人の名前でした。
「オウマイゴッド2回目」
はっきりと名前を確認するのは出来ませんでしたが、日本の方の名前でした。
そんなのアリかよ、フィリピンはなんでもアリだなと頭の中にアリが2匹、通り
過ぎました。

次ぎの日に、ようやく自分のカードが出て来ましたが、係の女の子に
「次はカードの入り口を間違えないで下さいね」と言われました。
素直に「はい」と答えましたが、『ATMカードの下に同じ穴を作るなよ~』が本音です。

長い話しになりましたが、、
結局、私と同じカード所有者の方で、BDO銀行のATMでカードをなくされた方が
おられたら、BDO本部セッション通りの事務所にあります、と言うことを
言いたかったのです。

、、、ふう。

BDOオフイスはポルタバーガーのセッション通りを挟んで向かい側に
あります。SMの中や、SMのすぐ下にもオフィスがありますが、本部はそこ
だという事です。

ちなみに、フィリピンの方も、そのすき間にカードをよく落とすようで、
署名欄には沢山の方の名前がありました、
「バギオ物語、BDO/ATM顛末」、以上です。

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(これが 噂の ATM)

はい、そうです!
このATMです。 
右側の下の方がスリットです。(上は証明書発行用です)

近くへ行くと「すき間」しか見えません。
実際は、その同じ場所にスリットがあります。
きちんと塞がれていないのです。

そこにカードを入れると、ただATMの機械の中に
カードを落しただけになります。




(この投稿は 2009年6月30日のものです。)
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by janlbaguio | 2009-06-30 21:56 | 会員 エッセイ・コーナー

「ソルヴェイグの歌」 只今連載中!!


「ソルヴェイグの歌」 只今連載中

素人作家の短編小説 「ソルヴェイグの歌」は こちらです。


ヌエバ・ビスカヤ州バヨンボンであったという戦争中の話を元に JANLメンバーのお一人 
佐世たもつ さんが短編小説を連載中。

どういういきさつかと言いますと:

「先日、我が下宿に アメリカで35年間も生活したIT技術者であるフィリピン人の老紳士が一泊だけ滞在されました。 日本軍がフィリピンを占領していた時代に2~3歳だったそうです。

日本語を教えている日本人が下宿しているよと大家さんから 聞いたその紳士は、私に興味を持って 一杯やろうということになり、夜遅くまで話を伺いました。

その時に彼が話してくれた戦争中の話に私は感動し、 彼がその時にパソコンに入れていた「ソルヴェイグの歌」という曲を聴いて さらに印象を深めました。

その時の彼の話を元に 想像を膨らませ、尾ひれを付けて物語を連載しております。」

と言う事です。
さらに、この短編小説には来年への夢も重ねているようです。

「たまたま、今、来年のバギオ市制100周年記念事業をいうのをいろいろ企画中でして、 その企画のひとつとして、バギオの元米軍保養地キャンプ・ジョン・ヘイで山下大将が降伏文書に署名した「山下降伏記念日」というバギオ市の9月3日の記念日に、日本とフィリピンの平和記念事業として 「平和記念演劇祭」 というのをやれないものかと 関係者と頭をひねっているところです。

その演劇祭の火付け役である フィリピン人演劇作家・演出家・監督の方に 上述の戦争中のエピソードをお話しましたところ、 それは素晴らしい、戦前の日本人たちがフィリピンへ移住し、ケノン・ロード(ベンゲット道)建設に命をかけ、 バギオの建設に関わってきた物語と一緒に そのエピソードも入れてみましょう、などと話が盛り上がってきています。

なんとか、この平和記念演劇祭を実現したい、成功させたい、と日本人の演出家の方などとも相談し、演劇祭への助成金などを出してくれる機関などを探すべく奮闘しているところです。 (もし 芸術文化への助成をされている機関などをご存知の方がいらっしゃいましたら ご紹介下さい。)

なお、この演劇の仮タイトルは
「ケノン・ロード建設-世界平和と調和への道」  
と言うもので、およそ100年前に 本格的な日本人移民第一陣とも言うべき 「ベンゲット移民」が ケノン・ロード(旧名ベンゲット道路)の建設に携わった内容になっています。 バギオ100年祭は ただ単にバギオ市の歴史ではなく、 日比交流史と密接不可分な関係がある ものだと考えております。
(下のフィリピン日本人商工会議所のサイトより)
http://www.jccipi.com.ph/2-9.pdf#search='日比交流史'


フィリピン人劇作家の方の構想としては、フィリピン人、アメリカ人そして日本人の俳優に協力してもらい、国際的な演劇にしたいそうです。」

とのお話です。

来年実現出来るかどうかまだ分かりませんが、その演劇の雰囲気の一端となるかもしれない短編小説を まずはお楽しみ下さい。
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by janlbaguio | 2008-10-09 18:53 | 会員 エッセイ・コーナー

これで あなたも バギオ通 !! アメリカとのつながり

これで あなたも バギオの物知り、 免許皆伝!?

バギオに住むこと 既に20年以上という JANLの副代表YSさんが あなたを一気にバギオ通にしてくれます。 元々 アメリカ軍の保養地、避暑地として造られた計画都市バギオ。 まずは、バギオとは切っても切れないアメリカとの関係からご紹介します。

バギオとアメリカの
つながり



1.キャンプ アレン

ヘンリー アレン(Henry Tureman Allen)はフィリピン レイテ州の最初の知事であり、フィリピン国家警察を組織、指揮した人物。 1904年、日本軍のオブサーバーとして日露戦争中の韓国に行った経験を持つ。 
バギオの裁判所の正面、消防署の隣にあるフィリピン国軍所有地の名前はCamp Henry
Allenという。 現在の場所に移る前はここにフィリピン国軍士官学校/フィリピンミリタリーアカデミー(PMA)があった。 

現在のキャンプ アレンは軍人の住宅地?となっている、ナギリアン通りに面している石垣は雨季のたびに壊れ、修理するのが年中行事だったが1990年の大地震の前後にナギリアン通りを広げる工事と同時に本腰をいれ修理され、現在のかたちになった。

狭かったナギリアン通りの名残は道路に残る電柱をきった後で知る事ができる。見つけられた人 いるかな?

2. バーンハム公園

ダニエル バーンハム(Daniel Hudson Burnham)。  バギオではおなじみのバーンハム公園の名前の由来になった人物。 シカゴの超有名設計士 及び都市計画者。ロハス通りを含むマニラの設計、バギオの設計をした。ワシントンDCのユニオン駅、シカゴ市の都市を設計したのも有名。ちなみにバギオは3万人都市として設計されたので、現在の30万人以上の人口はちょっと窮屈。 当時は市役所、公園をはさんで国の役場(現在のSMの正面側辺り)、そこから東がアメリカ人、お金持ちの住宅、その他を一般庶民の住居と住み分けされていた。 知られていないが、清水建設3代目は当時日本になかった鉄骨建築の図面をバーンハムから譲りうけた人物として記録が残っており、日本の高層建築の歴史とも深いかかわりがある。日本橋丸善本店ビルはその設計図を参考に建てられ日本初の帳壁式鉄骨煉瓦造の建物で関東大震災にも耐えた。


3. ハリソン通り

バーンハム公園の横を通っている大通りの名前 フランシス ハリソン(Francis
Burton Harrison)は ハリソン通りの名前の由来になった人物。 アメリカでの下院議員の経験を経て、1913年から21年までフィリピン総督府の総督となる。 レオナルド ウッド氏の前任者。 コモンウェルスのフィリピン人大統領になってから大統領アドバイサーとして呼び戻され以後4代大統領までフィリピンの為に働く。 ちなみに離婚再婚を繰り返し6番目の最後の奥さんはフィリピンの女性 マリア テレサさん、ニュージャーシーで亡くなった後フィリピン マニラに埋葬された。

ハリソン通りにはバギオ パークホテルという4スターホテルがあり、マカティーのインターコンチへの直行便が出ていたこともあり観光客でにぎわっていたが、1990年の地震で崩れてしまった。 また現在のBPI銀行の辺りはダンワバスの停留所がありボントック方面に行く乗客でにぎわっていたそうだ。

4. キャンプ・ジョン・ヘイ

ジョン ヘイ(John Milton Hay) はアメリカの政治家、外交官、作家、ジャーナリストとして活躍。 アブラハム リンカーンの私設秘書を務めた人物。 後に12代目国務長官に任命され1898年から1905年までマッキンリー大統領、ルーズベルト大統領にも仕えた人物。 この名前がつけられたのは基地創設当時の国務長官だったからです。

以前のゲートは現在のパナグベガ パークのところ。 身分証明書があれば誰でも自由に入場することが出来、マノーホテルがある場所はクラブハウスと呼ばれ、両サイドは軍人の宿舎があり 真ん中にバギオで一番美味しいステーキ屋があった。 またその近く(山側)にはハネムーンコテージと言うのがあり、文字通りハネムーンの軍人たちが宿泊した場所があった。

ジョンヘイのなかには19th Teeと言うレストラン、ゴルファーがプレイを終わらせた後一服するところがあり、そこのハンバーガーはまさにアメリカンサイズ、支払いはペソも使えたが基本的にはドルだった。コーラの自動販売機があり中の軍人にペソを50センツに変えてもらいわざわざ自動販売機でコーラを買っていたのは私(著者)です(汗)。


5. ピープルズ パーク ・ マルコム スクエアー

ジョージ マルコム(George A. Malcolm) は1917年、35歳でアメリカ ウィルソン大統領によりフィリピン最高裁判所裁判官に任命された人物。 彼の最大の功績はフィリピン国立大学・法学部の設立、法学部の建物はマルコム ホールと呼ばれる。

現在はピープルズ パークと呼ばれているが 以前はマルコム スクエアーと呼ばれていて、靴磨き、新聞売りとチェスに夢中になっているおじさんたちが共存していた場所であった。 BPIファミリーバンクの隣りに映画館があり、カンフー映画を見るならここ と言う場所だった。


6. レオナルド ウッド通り

レオナルド ウッド(Leonard Wood) は軍人で1903年から1906年までの間、イスラム教の反政府勢力を制圧するのが目的でフィリピン南部のミンダナオ島モロ地区の知事となる。 アッパーセッションからマインズ ビュー パークに行く道の名前。

途中のボタニカルガーデンの奥には日本軍が掘ったとされる洞穴があるので、勇気がある人は懐中電灯を忘れずに。

ちなみにサファリロッジの隣にある家がアロヨ大統領の別荘です。


7. ライト パーク

ルーク ライト(Luke E. Wright) は1904年から1906年までのフィリピン総督。 当時アメリカで一番有名だった設計士バーンハムに フィリピン・バギオを「アメリカ軍人と民間人のレクリエーション施設」というコンセプトを基に都市設計を指示した人物。

フィリピンから日本へ移動1906年から1907年までは駐日大使であった。その後1908年から1909年のアメリカ合衆国陸軍長官(後の国防長官)となる。 なんかバギオってアメリカの偉い人が結構関係してますよね。


8. ガバノール パック通り

ガバノールとは知事のこと、だから日本語だとパック知事通りとなる。この名前はウィリアム パック(William Pack)からつけられた。 彼は1901年ベンゲットの知事として任命され、またマウンテン州の初代知事としても知られる。 この道にはバギオをサマーキャピタル(夏の首都)とした会議(セッション) が行われた場所の跡地がある。
またその会議へ行く途中に使用した道が「会議への道」という意味の「セッション ロード」 です。

ちなみにマウンテン州はフィリピンで唯一の英語名のついた州の名前 って知ってました?


9. メルビン ジョーンズ

メルビン ジョーンズ(Melvin Johns) は子供たちがサッカーをやったり、バギオ市の色々なイベントを行うスタンド付グランド。 実はこの名前は1917年に設立されたライオンズクラブの創立者から取った名前です、シカゴの実業家であったメルビン・ジョーンズの夢は狭い地域に限られたビジネスクラブの活動範囲を、単に事業に関する問題から地域社会や世界全体の福祉の問題にまで拡大するということだった。

このグラウンド、バギオのサッカー少年少女たちの練習場であると共に、バギオでのイベントでは必ず使用されるグラウンドですね。 以前は競馬場もあったことが記録に残っているがはたしてそれはメルビン ジョーンズなのか バーンハムの池の周りなのか? 

ちなみに 日本のライオンズクラブは1952年 フィリピン・マニラのクラブがスポンサーになってあげて認証されたんですよ。先進国フィリピン(遠い昔の話・涙)


10. ブレント通り

インターナショナルスクールであるブレントスクールに行く道は、チャールズ ヘンリー ブレント(Charles Henry Brent)主教からの名前。 ブレント主教は1900年にフィリピンに来 てフィリピン聖公会(Episcopal Church of the Philippines)の初代主教になった人物である。 イギリス国教会としても知られる教会でブレント主教はフィリピンで白人のためのブレントスクール、少数民族のためのイースタースクール(バギオ)を設立し、マニラではセイント ルクス病院(聖路加病院)などを設立した人物。

ちなみにブレントスクール敷地内は電柱がなくすべて地中に埋まっているんですよ、バギオ初 ?

アバナオ通りから移動してきた50’S DINNERは名前の通り50年代のアメリカン イメージ。 ウェイトレスはローラースケートを履き接客する。 古いものが好きな人は近くにある骨董屋さんがお勧め、地下に降りると宝物が見つかるかも・・・。


11. バデン ポウェル イン (Baden Powell Inn)

ロバート バデン ポウェル(Robert Baden-Powell)と言う人物から来た名前ですがご存知ですか?  SMのすぐ下、バスターミナルが続く道、ダグパン バス ターミナルのすぐ近くにあるのがBaden Powell Innです。

名前になじみがないかもしれませんが、彼はボーイスカウトの生みの親でタイトルとはちょっと異なり(汗)ますがイギリス人。 バギオで唯一のイギリス人の名前がつけられた場所かも知れませんね。 上記のバギオをサマーキャピタルとする会議が行われた場所は、この宿にあり、記念碑みたいなのがあります。

バギオでもボーイスカウトは盛んで、よくジョンヘイにキャンプをしに行きました。 皆本格的で インスタント食品は一切使わず、キャンプを張っていきなり地元式ハムつくり(豚肉を保存する)をはじめたのを覚えています。


12. ニードラー通り Kneedler Road.

ニードラー医師は軍医として1900年ごろフィリピンに来た後フィリピンに住みつき、次々と不動産を購入、不動産で富を築いた人物。 1932年ごろはマニラ ベイビュー ホテルのマネージャーをしていた。  バギオ ジョンヘイの近くにあるその道の名がなぜ彼の名前に基づいて命名されたかは不明だが、バギオに住む人にとってもニードラー通りはなじみがないはず。この道はサウスドライブ(ジョンヘイからパクダルに抜ける道)に入り口がある道で、お金持ちの別荘なんかがあるらしい。

13. バギオ・ロアカン空港

1932年3月11日 ロアカン空港に最初の飛行機が着陸した。 このフライトの乗客はアメリカ人のハルセマ バギオ市長。 実はこの空港が出来る前1919年クリスマスの日にアメリカ空軍兵が飛行場ではないバーンハムに着陸している。 同じ日にトリニダッドにも違うパイロットが着陸を試みたが失敗してしまった。 この事故からちゃんとした飛行場建設が必要となり、当初トリニダッドかポロ フィールド(ネイビー ベース)への建設が浮上したが 霧、人口密度の条件により却下された。 バギオからちょっと遠いが天候がよく乾きが速いラウニオン州ロザリオ、もしくはナギリアンへの計画もあったが、結局 当時田んぼだったロアカンを住んでいたイバロイ族から(無理やり)購入し1932年に開港 3月11日に初着陸、これが「アジア初」 民間航空会社(フィリピン エア ライン)によるマニラ-バギオ間のフライトとなった。


バギオの地図へ =>  リンク 1 
                リンク 2 
               リンク 3


(投稿: JANL副代表 YSさん)
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by janlbaguio | 2008-07-12 15:28 | 会員 エッセイ・コーナー

「バギオ サヨテタップス物語 2」   加藤 卓 著

 前回のモンテンルパ訪問から半年が過ぎました。妹は再び遠く、兄のいるモンテンルパへ行かねばならなくなりました。兄に恩赦の話しが持ち上がったからです。フィリピンでは恩赦によって釈放される受刑者も多いと聞きます。ただし、手続き等で、うやむやになってしまう可能性もあるとか、そうならないよう頑張ってやらなければなりません。

 兄がわけのわからない罪で捕まった時、母と妹は兄を助けようとしました。フィリピンにも当然、弁護士制度はあります。弁護士に助けを求めました。でも担当の弁護士に払うお金がありませんでした。母は弁護士の家で、家政婦として働くことでお金の代わりとしました。妹は弁護士の庭を掃除することで兄を助けようとしました。しかし、結果は無期懲役刑でした。

 しばらくして母が亡くなりました。母はどのような気持ちで旅立ったのでしょうか。幼い妹と、刑に服す兄を残して。

 妹が再びモンテンルパ刑務所を訪問すると聞いて、受刑者仲間の、あの死刑囚の母から連絡が入りました。今度は、是非、私も一緒に連れていってくれという話しでした。その為には家財を売ってもお金を作るとのことでした。妹には嫌も応もありません。女二人で旅をすることになりました。今回のおみやげもやっぱり野菜です。サヨテやサヨテタップス、それにニンジンなど2袋たっぷりあります。

 バギオ発深夜バスは、二人の思いを乗せて出発しました。

 長旅の末、刑務所に着きました。手続きの後、二人は所内に入りました。無期懲役の兄が待っていました。妹は兄にかけより抱き合いました。そして死刑囚の息子も待っていました。母が近づきました。二人は言葉になりませんでした。そのまま抱き合いました。周りにいた囚人たちも、二人の境遇が分かったのでしょう、黙っています。
 二人はいつまでも抱き合っていました。


 
 
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by janlbaguio | 2007-12-05 22:57 | 会員 エッセイ・コーナー

「バギオ セッション通り物語」    加藤 卓 著


 小高い丘にそびえ立つSMバギオ、そこから下る道が、セッション通りと呼ばれるバギオ一の繁華街です。雨が降ると傘売りが出現し、雨が降り止むと傘修理屋さんが出現します。1990年に起きた大地震で壊れた建物がいまだに空き地になっていたり、ATMの前で、長い行列を作る人が見られます。

 少し行った所にサムライという飲み屋さんがあります。さぞカタイところかと思いますが、やっていることはゲイショーです。なんでサムライかとオーナーに聞いたら、昔日本に働きに行って、この名前が気に入ったから、との答えでした。このビルの4階には「地球の歩き方」にも載っているD4という酒場があります。ウリは、やっぱりゲイショーです。でも両方とも、結構面白いです。

その上の階には「オウ・マイ・グライ」という喫茶店があります。近代芸術的風情のある茶店です。ちなみにグライとは野菜のことで、この店の一番のメニューもサラダです。
 フィリピンでは、日本の名前はある意味ブランド化しています。セッション通りを、もう少し下るとチョンサンデパートがあります。極庶民の商店です。電気製品も売っています。DVDプレイヤーでブランド名が「ニッポン/ジャパン」などという製品を見つけました。絶対に日本製ではないでしょう。よくある「SANNY」や「CASINO」とは趣を異にしますが、そのまんまの名前に、日本製品への羨望が見て取れます。

 日本の名前はブランド化し、日本への思いも、経済や暮らし向きなどで、多少複雑な思いなどもあるでしょう。
でも、日本人がフィリピンで、タガログ語の歌になっているとは知りませんでした。

 結構人気な歌だそうです。内容と言えば、
「ある日、日本人の若い男が、フィリピン娘に恋をした」
「フィリピン娘は若く、美しく、可愛かった」
「男は来る日も来る日も、娘の元に通った」
「男は贈り物、貢ぎ物、全てをささげた」
「とうとうフィリピン娘はOKした」
「そうして二人は結ばれた」
「初めての夜、男は驚いた」
「彼女は彼女じゃなかった彼だった」
「バッキャロー、ホワットイズダット?」(原文)
「アラ、ダットイズライクユアーズ、パパ」(原文)
ある意味、これも文化交流の一つと言えそうです。
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by janlbaguio | 2007-11-24 01:02 | 会員 エッセイ・コーナー

「バギオ アイ・シャル・リターン物語」    加藤 卓 著



 第2次世界大戦の最中、時のアメリカ軍太平洋方面軍最高司令官マッカーサー将軍が、日本軍の猛攻に耐えかね、フィリピンを脱出したときに発したとされる「アイ・シャル・リターン(私は戻る)」は、日本の教科書にも載っている言葉として有名です。フィリピンでも小学校で勉強します。

 フィリピン人の教育程度は非常に高く、アメリカの庇護下にあったからか、ほとんどの人が英語を話します。
ただ、どこの国でもいますが、子供に普通の教育を受けさせない親もいます。農場で働かせたり、奉公に出したりで、金を稼がせています。そんな子たちが大きくなると、就職の難しいこの国では生活するのもたいへんです。

どこの世界にも夜が来るように、バギオにも夜が来ます。インターネットカフェ、カラオケ、そしてクラブと呼ばれる飲み屋が繁盛しています。
クラブに入ると、若い女の子達が迎えてくれます。みんな、それなりの衣装をまとった女性たちです。一つのクラブには十数人いるでしょうか。踊りをおどる女性もいれば、ただ座っている女性もいます。

お客さんは店に入ると適当な席に座ります。ママさんと呼ばれるちょっと太った女性が女性を連れてきますが、別に「いらない」と言って踊りを見ながら、一人で飲んでいても良いです。料金システムは店によって違いますが、お客が飲むビール1本は約50ペソ(市販価格約40ペソ)ですが、どの店でも、同席した店の女性のビールは1本・約300ペソ以上も取ります。これが店と彼女たちの儲けになります。フィリピンの公定日給は220ペソ程ですから、かなりなものです。ビールの銘柄はサンミゲル・ビアがほとんどです。
この300ペソの内、200が店に、100が彼女たちの取り分になるそうです。そういうことですから、お店にしても彼女たちにしても、となりに座らなければ仕事になりません。

ある日、外国人がクラブにやって来ました。アメリカ人でしょう。席に着くと周りを見渡し、ママさんに遠くに座っている若い女の子を指名しました。
「ほれ、ご指名が来たよ、いきなよ」ママさんは当然、彼女を引っ張っていこうとします。「え~、あたし、英語わかんないよ~」彼女は外国人を見て、困った顔で言いました。
「いいんだよ、相手は酔っぱらっているんだから、適当に相手してりゃあ~」
「え~でも~」
「いいから、とっとと横にお座りな」
もうこうなると力ずくです。仕方なく、彼女は席に着きました。彼女にしても外人の相手は初めてです。すごい緊張感を感じていました。しかし外人はそんなこと気にもとめません。取りあえず、話の接ぎ穂で、名前を聞きました。
「ホワットイズユアネイム?」
彼女の眉毛がハの字になってしまいました。なに言ってんだろ。でもなんか言わなきゃ、と言うことで、答えました。
「サンミゲル・ライト!」
そりゃ~ビールの銘柄だろう、、、。
近くで聞いていた英語の分かる同僚の女性たちが、一斉に吹き出しました。

 そんな彼女たちにも天敵がいます。
 保健所の役人です。突然、やって来ます。店の営業許可や、彼女たちのライセンスを調べます。彼女たちはシティホールと保健所で「エンターティナメント」としてのライセンスを取得していなければなりません。保健所では血液検査やHIV等の検査を定期的に受けなければなりません。許可された人だけが俗に「ピンクカード」と呼ばれ、飲み屋などで働ける「エンターティナメント」の許可証を所持出来ます。ただし、ほとんどの女性が、持っていません。

 保健所の役人が突然やって来ました。「はい、みなさん、お静かに、許可証を見せて下さい」みんな、あちゃ~と顔を見合わせ、ため息をつきました。このお店で持っていたのは一人だけでした。「はい、はい、持っていない女性は、すぐに店から出て行きなさい」役人は容赦しません。「いいじゃないか、みんなでやってんだから」文句の一つも言いたくなります。彼女たちにしても死活問題です。ですが、「ダメ」役人はそっけないです。

 彼女たちは、役人のやり方に憤然としました。この日の稼ぎも全部パーです。自分たちの運の悪さに意気消沈しました。彼女たちだって好きでやっている訳ではありません。その日暮らしの人間にも、誇りはあります。店の出口に向かう階段で、彼女たちの一人が役人に叫びました。
「アイ・シャル・リターン!」
 

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by janlbaguio | 2007-09-24 00:02 | 会員 エッセイ・コーナー

「バギオ サヨテ・タップス物語」 その1  加藤 卓 著

 サヨテとは、フィリピンの庶民的な食べ物で、味は、甘くないウリのようです。温かいスープなどに入っていると味が染み込み、それなりに美味しい食べ物です。山間部の斜面を利用して栽培されていますが、日持ちが良いため、野菜などが作れない場所へのおみやげとしても重宝されています。

 蔓性の植物ですが、雨期になるとどんどんわき芽が出ます。そのわき芽も食べます。タップスと呼びます。栄養的にも良い食べ物ですが、しょせんわき芽ですから安いです。
 サヨテが作られるバギオ市やベンゲット州の山間部には、第2次世界大戦で財宝を隠したとされる山下将軍の伝説が今でも残っています。「山下将軍の地図かあるのだが、読んで欲しい」などと言って近づいて来る人が必ずいますが、かなり怪しい。実に怪しい。

その山下将軍はマニラの南にあるモンテンルパ刑務所で処刑されました。大戦後は日本人捕虜収容所になっていたところです。今では、フィリピンの長期刑刑務所になっています。
そのモンテンルパ刑務所に無期懲役刑の兄を持つ妹がいます。兄は服役してすでに12年になりますが、妹は久しぶりに、兄に会いに行くことにしました。しかしルソン島の北に位置するバギオ市からマニラ市南のモンテンルパまで、長距離バスと中距離バス、ジプニーとトライシクルを乗り継いでの長旅です。おいそれと会いに行けるわけでもなく、費用もかかり、多額の借金をして行くことになりました。

妹がモンテンルパ刑務所の兄に会いに行くことが知れたのでしょうか、深夜バスの乗り場に、人が集まって来ました。モンテンルパ刑務所に友人を持つ人、知人を持つ人、息子を持つ人などです。皆、それぞれの友人や知人に託す手紙や品物などを妹に預けました。
その人たちの間に、一人の老婦人がいました。モンテンルパ刑務所に死刑囚の息子がいると言いました。老婦人は両腕に一抱えのサヨテ・タップスを持っていました。老婦人は目に涙を浮かべながら「私も息子に会いたいが、貧しくて行くことは出来ない。どうかこのタップスとお金を息子に渡して欲しい」と言って、一抱えのサヨテ・タップスと、150ペソほどの現金を妹に渡しました。

150ペソは日本円にして約380円ほどでしょうか。彼女にとって、今あるだけのお金でしょう。
妹は老母の境遇がわかりました。サヨテ・タップスとお金を渡されても、言葉が出ませんでした。ただ頭を、コクンコクンとうなずくだけでした。
未だ司法制度の未整備なこの国では、えん罪などがあり得ます。彼が本当に犯罪を起こしたかどうかはわかりませんが、今は大統領令によって死刑の執行が一時的に止められているだけです。いつ何時、執行されるか分かりません。老母はきっとその前に一目息子に会いたいのでしょうが、貧しさ故にそれもかないません。弁護士を雇う余裕などなく、唯々諾々と運命を受け入れるしかありません。

バギオ発の深夜バスは、様々な人の、様々な思いを乗せて出発しました。
モンテンルパ刑務所への持ち込みは比較的緩やかなようです。その中で、頼めば煮炊きも出来るそうです。
老母は、働いている農場で、息子の無実を信じつつタップスを摘みました。
彼が刑務所の中で食べたサヨテ・タップスは、遠くふるさとに住む、なつかしい母の味がしたでしょうか。

ー続くー
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by janlbaguio | 2007-09-16 21:57 | 会員 エッセイ・コーナー

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どんなシリーズになっていくのか 楽しみです。



 
 
 
 
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by janlbaguio | 2007-09-16 21:53 | 会員 エッセイ・コーナー