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バギオの歴史コーナー - 戦時編 <その7>


この「バギオの歴史」コーナーでは、シリーズとして、「続 イフガオの墓標」 (宍倉公郎著 昭和55年 育英印刷興業 発行)からの抜書きをご紹介しています。

今回は 前回からの続きで 1945年終戦間近かのイフガオ周辺(バギオからさらに北方及び北東に位置する山岳地帯)で、どのような事があったのかを拾ってみましょう。

世代は変わりつつあるとは言え、現地での悲惨な歴史は語り継がれており、叉 日本人自身の歴史としても知っておくことは 無駄ではないだろうと考えます。


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p261
山の派を廻っている細道で偶然、土人女四人と遭遇したのである。 彼女達はみな稲の穂を籠いっぱい背負って俯いて歩いて来たので、吾々にぶつかるまで気がつかなかった。
日本の背負いカゴは両腕の付け根に紐をかけて支えるが、彼等のカゴは紐を額で支えるため、うつ向いて歩く形となる。 曲がり角で、鬼より怖い日本兵にばったり会ってしまったのである。
 
(略)
皆、素裸に腰布を巻いただけの姿である。 吾々の目は自然と、後ろの娘達に注がれた。 色こそ黒いが肩から胸にかけてのはち切れるような曲線、反り気味の豊かな乳房、いかにも弾力性のありそうな腰、すんなりとよく伸びた四肢、まったく雌豹のような肢体である。

(略)
女達は自己の運命を本能的に予測したらしく、ひとかたまりになって立ちすくみ、ただ震えおののいているだけであった。
「・・・こいつらを連れて行って適当にやって穴を掘って埋めてしまいましょう」
髭面の目をぎらつかせた別の兵がいうと、二、三の兵がうなずいて同調した。
兵達の公憤は次第に女に飢えた雄の獣性に変わってきた。

(略)
「あとで穴に埋めるのは惜しいなあ、若い方は旨そうですぜ、・・・・」

(略)
この一言に異様な雰囲気が兵達をおし包んだ。 いわば、妖気というべきものである。
さすが獰猛なイフガオ族さえも、その風習が無かったといわれる“人間が人間を喰う”という人肉喰いは、日頃、飢えた兵達の話題になっていた。

(略)
痩せ細った青黒い髭面の、その誰の目にも妖しい光がらんらんと輝いていた。 それは狂人のものではなかった。 飢えた野獣のあのぞっとするような目の光であった。
p266
「離してやれよ・・・」

(略)
「いや、これから看護婦達がたくさん入ってくるから、同じめに遭わされると可愛想だからな・・・」


p271
吾々は特に動物性蛋白質の欠乏に悩まされた。 トッカンへの道は太古さながらの道であったと記したが、トッカンの山奥は神々から見離された全くの不毛地帯であった。

(略) 
たまたま蛇を見つけると、皮をむき正確に二センチくらいに切り刻んでカモテ(芋)に焚き込んで一切づつ食べた。 

(略)
比較的身近な動物質としては野鼠とかゴキブリがあった。
夜間、野天便所に糞を食べにくる大きな野鼠を松明(たいまつ)をかざして棒で叩いて捕まえ、糞まみれになった奴を小川で洗って焼いて食べた、・・・・・ゴキブリは焼いて食べると、ほろ苦く香ばしかったが、・・・・捕獲数を制限して食い延ばしを計ったので、腹いっぱい食べるわけにはいかなかった。

p275
激闘一か月の後、六月一日遂にバレテ峠は陥落した。 余勢を駆る米軍は怒涛の勢いでバンバン平地に殺到したため、方面軍は実った稲穂を目前にしながら手をつかねて複廓陣地に立て籠もったのである。
北部ルソンの山岳地帯を東西に縫って流れるアシン渓谷を中核とし、南と北に峻険な山々を擁した東西四十キロ、南北八十キロのキャンガン複廓陣地は東に勤、南に旭、西に虎、盟、北に荒木の各兵団が布陣したが、それはまた、逆に米軍によって包囲された形となったのである。

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次回 <その8>は、 日本軍の武装解除、終戦を読んでみます。

ところで、これらバギオ北方での悲惨な歴史については、2009年9月にバギオで開催された日比国際平和演劇祭の参加作品でも 元日本兵の方々の話を元に題材とされました。
詳しくはこちらのページでご参照下さい。
http://janl.exblog.jp/i13/

その上演作品はDVDでもご紹介しております。
関心をお持ちの方は JANLまで お問合せ下さい。

 
 
 

 
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by janlbaguio | 2010-06-29 20:29 | History バギオの歴史

バギオの歴史コーナー - 戦時編 <その6>


この「バギオの歴史」コーナーでは、シリーズとして、「続 イフガオの墓標」 (宍倉公郎著 昭和55年 育英印刷興業 発行)からの抜書きをご紹介しています。

今回は ボントック道(ハルセマ・ハイウエイ)の90キロ地点から東に入った、イフガオの山奥、それも1945年終戦間近の日本軍、在留邦人の飢餓地獄の状況を拾ってみましょう。

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p239
翌朝、九時、・・・トッカンに向って出発した。
(略)
道は次第に険しくなってきた。 天候の変化も急激となり、時おり横なぐりの雨に交じって暗黒な雷雲が吾々を押し包んだ。 目のくらむような稲妻と同時に、山も裂けるばかりの轟音で右に左に落雷し、四囲の山々もまた無気味に共鳴しとどろき吾々のどぎもを奪った。 それはあたかも、人跡未踏の聖地を血なまぐさい吾々の泥靴が犯すことを阻止するかのように思えた。
(略)
「山蛭だッ!」と二、三の兵が口ぐちに怒鳴った。 その声に、あたりを見廻すと、誰もが、頸筋から頬にかけて梅干大の黒い塊を四ツ五ツぶらんぶらん成らせて歩いている。
よく見ると血を吸った山蛭である。

p240
午後二時頃、吾々はトッカンに到着した。 ここは別称二RH(第二レストハウス)ともいうべき地点で、道端の比較的広くなっていた所は休憩所跡らしく、一坪ほどの土台跡らしいものがくずれ残っていた。 この道の四、五キロ先には三RH(この対岸が、後には山下軍司令部の終焉の地となった)、更に四RHを経てフンドアンからキャンガンに到るのである。

P241
ここは獰猛なイフガオ族の本拠である。 突然侵入してきたよそ者の吾々に対して憎悪にみちた目で、どこで毒矢の狙いをつけているかわからなかったし、そこから投槍が飛んでくるかわからなかったので、吾々は八方に目を配ってあたりを警戒しながら進んだ。
沢を渡り、崖を攀じ、谷に下り、ようやく広いコーヒー園のある土人部落に到着した。

P243
そんな或る日、私の病床に悲報がもたらされた。 ブギヤスでO軍曹やM上等兵らがイフガオ族の襲撃をうけて殺されたというしらせであった。 彼らは兵数名でブギヤスの山中にバボイ(豚)を徴発に行き土人小屋で酒盛りをしていたところを多数のイフガオ族に包囲され、防戦及ばず射ち殺されたものである。 S上等兵はその時、傍の深い渓谷に飛び込み、九死に一生を得てジャングルの中を放浪、二日後にへとへとになってようやく部隊にたどりついたとのことである。

P245
六月に入ると戦況は悪化していた。 西部戦線では優勢なる米軍に押された旭、盟兵団は三十一キロ付近の峠に後退し、虎兵団も九十六キロ付近の東方高地に退って激しく抵抗していたし、一方、東部戦線でもバレテ、サラクサク峠は撃、鉄、勤兵団の奮戦空しく六月一日遂に米軍に奪取された。 そして、敵機からは盟邦ドイツの敗北を告げる伝単(ビラ)がトッカン一帯に撒かれ、ベルリンの陥落が知らされた。
(略)
このような戦況の悪化と、食糧の極端な欠乏は、一部前線兵士の間に軍紀の低下をもたらせた。 そして、トッカン地区には戦線を離脱した兵による徒党を組んだ追剥が出没するようになったのである。
(略)
・・・それは連絡兵の持っている糧秣や装具、靴などが目的の狙撃であったが、飢餓の狙撃兵によるものは死骸の肉体まで喰われた。 彼等は三人五人徒党を組んで谷間やジャングルを根城とし、初めは行倒れの屍体の大腿部の肉を削いでとる程度であったが、次第に生きている者を狙うようになり、・・・・
(略)
“日本軍下士官にして、兵数名を率いて好んで邦人婦女子を喰べて歩く者あり、十分注意を要す” この頃、連絡会報に出されたもので、部隊の看護婦達は大恐慌を来たしたものであった。

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イフガオ州のキャンガンには 小学校の片隅に 山下奉文の写真などが収められた小さな博物館があります。
昔は家庭科教室だったというその小屋は、山下大将が1945年9月2日に投降した時の様子を示すものが展示されています。
その翌日9月3日に、山下大将はバギオのジョン・ヘイで 正式な降伏文書に署名したとされており、バギオでは その9月3日が記念日となっています。

次回 <その7>も、今回の「飢餓地獄」の続きを拾い集めてみます。
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by janlbaguio | 2010-06-20 23:57 | History バギオの歴史

七夕目前、折り紙ワークショップ - JANL子供会

 
6月19日、来月の七夕を前に、JANL子供会では おりがみワークショップを実施しました。
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今年の七夕祭りでは、ちょっと大きめの くす玉飾りにチャレンジするのが目標。
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くす玉飾りには、日本の運動会などでおなじみの 花かざりが必須。
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子供たちも せっせと 大きな花びらを 満開にします。

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ボランティア参加のお姉さんたちが 大きなくす玉にしてくれました。
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今回のワークショップには、北ルソン日本人会の子供たちのほか、日系人会の子供たちも参加。 30名ほどでの飾りつくりとなりました。

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ちょっと 折り紙にも飽きてしまった子たちは、なんとサル山のようなところで、絵本に夢中でした。

JANLの七夕祭りは、7月17日(土)叉は8月7日(土)に開催する予定にしております。

 
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by janlbaguio | 2010-06-19 20:36 | Activity 活動内容

バギオ 道路交通情報 - ケノン・ロードなど渋滞 2


先日、ケノン・ロードの 道路工事による渋滞の情報をアップいたしました。
http://janl.exblog.jp/10784215/

その後、6月17日(木)現在の状況をお知らせします。

ー ケノン・ロードの道路工事は継続中で、基本的にはロアカン・ロードが
  迂回路として指定されています。

ー 迂回路とされている ロアカン・ロードでも、
  6月17日現在 アスファルト工事が 一部で実施されており、
  こちらも通常15分間くらいで通過出来るところ 2倍くらいの
  時間が掛かっている模様です。

ー もう一つの迂回路である CAMP7からの バカケン経由で
  マルコス・ハイウエイへの抜け道は、SLU大学の新キャンパスの
  登下校時には渋滞となっています。

以上。


6月20日(日)現在の追加情報です:

ー ロアカン・ロードの アスファルト工事は終了していましたが、
  6月10日(日)午後5時30分現在、ロアカン・ロードの
  中間地点付近で 車両の横転事故があり、片側交互通行になって
  います。

 



 
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by janlbaguio | 2010-06-18 00:24 | Neighbers ご近所情報

マニラのPRA日本人倶楽部と交流・講演会


既にマニラ新聞に掲載されましたが、去る5月29日に、マニラに於いて PRA日本人倶楽部主催の講演会が開催され、JANLの代表と副代表が出席し講演を行いましたので、遅ればせながらご報告致します。

詳しくは以下の通りです:
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尚、JANLのメンバーの中にも PRAの退職者ビザ保持者が数名いらっしゃいますので、今後ともPRA日本人倶楽部様とは様々な形で お付き合いいただきたいと考えております。

尚、講演の質疑応答の中で、いわゆる山下財宝に関するご質問がございましたが、以下の点につき補足しておきたいと思います。

先日、環境NGOの植林下見スタディー・ツアーに参加させて頂いた折に、マウンテン州バーリッグ町の役所に於いて 山村に入っていくに当たっての注意事項などをいただきましたところ、

  日本人が当地に入ってくると、必ず地元の人たちは山下財宝探しではないかと
  疑念を持つので、一切 そういう話はしないでいただきたい。

とのご指導がありました。

叉、NGO関係者の話では、たとえ戦没者慰霊であろうが、植林であろうが、日本人が何かを探すような行動をとった場合、その道筋には その後 あちこちに穴が掘られるという事実もあり、政治的なトラブルに巻き込まれる危険性もあるので 細心の注意が必要だ、とのことでした。
さらに、マウンテン州、カリンガ州、アブラ州などの山岳地帯の一部では、新人民軍NPAの活動地域でもあるため、日本人が入った場合には 常に見張られていると考えた方がよいとの話もありました。

従いまして、興味本位に日本人が同地に入ることは 危険が伴う可能性があることを 申し添えます。

(ご注意: この補足記事は、山下財宝の有無に関してコメントするものではございませんので、誤解のないようお願い致します。)
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by janlbaguio | 2010-06-17 23:57 | Activity 活動内容

バギオの歴史コーナー - 戦時編 <その5>


この「バギオの歴史」コーナーでは、シリーズとして、「続 イフガオの墓標」 (宍倉公郎著 昭和55年 育英印刷興業 発行)からの抜書きをご紹介しています。

今回は バギオの北方、ラ・トリニダッドからボントックへ向う ボントック道(ハルセマ・ハイウエイ)沿いをひろってみます。

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p198
第一線がきれれば敵は一気に市内に突入するし、バギオから北方山岳地帯への唯一の撤退路ボントック道は、それに呼応するゲリラの蜂起によって遮断されてしまうであろう。
それらを併せ考えると一刻も早くバギオは去るべきであった。

p199
バギオ郊外六キロのところにトリニダッド農園といわれた農場があった。
ここは昔、湖だったところへ土砂が流れ込んで沃野となったのだそうで、周囲十キロ、耕地面積六百ヘクタールといわれ、その真っ只中を直線道路が延々二キロも続いていた。
その昔、ベンゲット道を開拓した日本人が工事完成後入植し、現在に到ったもので、戦前、戦中を通じてバギオへの野菜供給を一手にまかなっていた所である。 比島にはめずらしいキャベツやタマネギ、ミツバなどまで栽培をしていた。

p203
午前三時半、ようやく二十一キロ地点に到達した。 昼間は行動が出来ないので、ここで大休止することにした。 この二十一キロ地点は三叉路になっていて真っ直ぐゆけば吾々の目指す九十キロ地点を経てボントックに到り、右折するとインチカクアリタオバヨンボンを経てカガヤン平野に到るのである。
(中略)
そして第五日目にようやく九十キロ地点に到着、付近の松林に退避した。
(略)
この九十キロ地点で本道を別れ、右に折れて・・・・
山道を二キロほど入ったところがバクロガンといわれた地域であった。

p205
バギオ撤退の模様は、・・・・
この頃、敵の砲撃に対応して味方の高射砲陣地からは零距離射撃がおこなわれていた。 
(略)
特に、爆破されたトリニダッドの橋梁付近に対する敵の砲撃は激しく、路上には自動車がいっぱいつまって、敗走する兵や邦人でごったがえしていた。
(略)
この頃から重症患者の中には歩行不能となり落伍する者が続出しだした。 このような状況下における落伍、それは即ち死を意味した。

p206 
私は(バクロガンから)五、六キロほど山奥のイフガオ族の部落に前進を命ぜられた。
カモテ(さつま芋のようなもの)畑の確保のためである。
(略)
部落といっても、それは広いコーヒー園に囲まれた数戸の土人小屋と、二、三百メートル離れた山合の高台に二、三の小屋が見えるだけであった。

p213
バギオ、ボントック間を結ぶこの本道は山岳地帯の山の尾根を通るもので、道端に夏草が生い茂る静かな田舎のジャリ道を思わせた。 しかし、いま見るこの道路は、つい一か月バギオから先遣隊として北上したときとはその様相を一変していた。
道路の両側には雨に打たれて夜目にもそれとわかる行倒れの屍体がごろごろと転がっていた。 水を飲みにきて、こと切れたものか、渓流の水溜り付近には必ず五、六体かそれ以上の死体がうつ伏せになっていた。

p219
五十六キロ地点、四十キロ地点、三十一キロ地点の宿営地はバギオからの撤退部隊や邦人達が宿営したため、籔かげなどは荒らされており、草むらも、丸はだかとなってしまっていた。 (略) つい一か月前バギオからの先遣隊として北上したときは道路の両側は鬱蒼として潅木の茂みや深い籔陰などがあったが、今は見るかげもなく・・・・

p236
九十キロ地点から、バクロガンを経てカガヤン平野の辺縁キャンガンに行くには、北部ルソンの山岳地帯を東西に縫って流れるアシン川の渓谷に沿った険しい土人道を行かねばならなかった。 ・・・・トッカンバクロガンから此の土人道を二十キロほど奥地に入ったジャングル地帯にあった。

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上記のボントック道(ハルセマ・ハイウエイ)の21キロ地点や、その先のアトック(Atok)の交差点付近には 今も戦没者慰霊碑があります。
詳しくはこちらのページをご参照ください。
http://janl.exblog.jp/10662498/

次回は、終戦前に飢餓地獄となったイフガオの山奥の記述を拾ってみます。

 
 
 
 

 
 
 
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by janlbaguio | 2010-06-13 11:14 | History バギオの歴史

山岳地方の道路事情にご注意下さい。 車両転落・死亡事故


バギオからさらに山岳地帯である ベンゲット州、マウンテン州やカリンガ州方面への旅行などを計画されている皆様に雨季に入ってからの道路事情を御案内します。
観光地で有名な サガダ、ボントック、叉 ボントック経由のバナウエ方面が該当します。

雨が降り続いている時期は 特に危険な状態になっている模様ですので、十分ご注意下さい。


バギオ・ミッドランド新聞の こちらの記事によりますと、2010年6月1日に マウンテン州ベサオで、ジープニーが谷底に落ち、15名が亡くなっています。


Besao jeep falls off cliff; 15, dead, 15 hurt
by Harley Palangchao

People of Mountain Province are mourning the death of 15 individuals who were killed when a mass transport jeepney fell off a 75-meter ravine in Barangay Catengan in Besao, Mountain Province afternoon of June 1.
(6月1日、マウンテン州ベサオで ジープニーが谷底に転落、15名死亡、15名怪我)

Countless portions of national and provincial roads were hit by landslides during Typhoon Pepeng last year. Major rehab works are ongoing to the damaged roads many portions especially of provincial roads remain unstable up to the present.
(昨年の台風ペペンにより崖崩れが無数に発生。 未だに復旧作業が継続中。)

Last May 6, six persons died while 15 others were injured when a falling rock from unstable portion of a road hit a private vehicle that eventually fell off a 200-meter ravine in Buguias, Benguet.
(去る5月6日にも、ベンゲット州ブギアスでも、落石により6名死亡、15名が怪我。)

Last April 13, nine persons were also killed while 34 other passengers were injured when a bus fell into a 20-meter ravine in Bagumbayan, Tabuk City, Kalinga
(4月13日にも、カリンガ州タボックで バスが20メートル下の谷に転落し、9名死亡、34人が負傷。)


JANLのサイトの このページの下の方にも 関連情報を掲載しております。
ご参照下さい。
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by janlbaguio | 2010-06-12 21:55 | Neighbers ご近所情報

バギオ 道路交通情報 - ケノン・ロードなど渋滞


バギオへ向うケノン・ロードの キャンプ8周辺での工事の影響で 渋滞が続いています。
キャンプ8付近では 片側交互通行となっており、渋滞が発生しています。
交通整理の係員配置も不十分で、通り抜けには時間がかかっているようです。
工事予定は少なくとも7月初旬までとなっているそうです。

叉、ケノン・ロードの キャンプ7 からの迂回路となっていた バカケン経由 マルコス・ハイウエイへの抜け道でも 大渋滞が発生しています。

バカケン地区に新しいキャンパスを造った SLUセント・ルイス大学(商学部、ホテル・レストラン学部など)が 6月10日に授業を開始しました。

この為 授業の開始時間帯には、マルコス・ハイウエイから バカケン・SLUキャンパスまで タクシーや一般車両が数珠つなぎとなり、狭い道路が大渋滞となっています。

もともと、この ケノン・ロードのCAMP7 から マルコス・ハイウエイへ抜ける このバカケン経由の道は、一部で車両一台分の幅しかないところがあり、交互通行をしている道でもあり、 セントルイス大学のバカケン・キャンパスの開業によって、時間帯によっては 身動きがとれない状態となっています。

叉、この影響で、バカケン地区への入り口となるマルコス・ハイウエイ側でも、ケノン・ロードとの合流地点、バギオ総合病院付近まで 車列がつながり、一部は レガルダ・ロードまで影響が及んでいます。


従いまして、 ケノン・ロードをご利用の皆様には、 キャンプ7 から ロアカン・ロードを迂回して バギオ市内へ入られることをお薦めいたします。


(この情報は 2010年6月10日現在のものです。)

 
更新記事は こちらにございます。
http://janl.exblog.jp/10827879/







 
 



 
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by janlbaguio | 2010-06-10 19:05 | Neighbers ご近所情報

バギオの歴史コーナー - 戦時編 <その4>


この「バギオの歴史」コーナーでは、シリーズとして、「続 イフガオの墓標」 (宍倉公郎著 昭和55年 育英印刷興業 発行)からの抜書きをご紹介しています。

今回は、バギオの東側近郊、金山ビッグウエヂ(バギオの南東のアトックの中にある)、アンタモック、トーデン、イトゴン方面の記述を見てみましょう。

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p98-101

山下司令部がシティカンプの大地下壕に入る前にバギオ到着早々に一時的にジェネラルホスピタルに入ったことがあった。

バギオ東方5キロの谷底にアトック・ビグウェヂという鉱山があった。 

p108-128

バギオは1月12日以降米軍機による盲爆撃が次第に激しさを増した。
病棟の屋根いっぱいに画いた赤十字標識を無視しての米軍の無差別爆撃によって、吾が第七十四兵站病院は、その機能を半減したが、この頃、激化する空襲を避けるために郊外にある金山(ビッグウエヂ)の坑道を利用して構築中であった半永久的な地下病棟も・・・(略)工作隊が突貫工事でこの設営にあたり、1月15日以降、・(略)・・軍医8名、看護婦四ケ班と患者達が続々と本院から転送された。
しかしビッグウエヂ付近のゲリラの状況は極めて悪化していた。 隣接するアンタモック金山や付近の日本人住宅が、たびたび襲撃をうけ、・・・・

(中略)

ビッグウエヂからこの川越しに見上げるバギオは郊外の山下軍司令部まで直線距離にして僅かに3キロたらずで、司令部専用の集会所白雲荘の白い建物が、緑の松林ごしに目の前の山頂に見え、松葉の散り敷いた山道を尾根伝いに登ると、この白雲荘のすぐ真下に出ることができた。

(中略)

トーデンからでこぼこの坂道を下りて行くと、坑道地区には道路に添った両側の松林の高台にコテジ風の家大小30戸、これを抗外病棟と呼んで軽症患者二百名を収容していた。 更に二百メートルほど行くと、左側の山裾に金鉱採掘用の坑道があった。 坑道の総延長は約4キロといわれ、・・・重症患者ばかり百五十名を収容した。

(中略)
バギオ防衛司令部の情報に依るゲリラの勢力は、イトゴンに約800名、アコバンに500名、ツエンリバーに400名、トリニダッドに500名、サブランに200名、ツブライに200名、オロラヘルに150名であった。

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注:  ジェネラルホスピタルは 今のバギオ市総合病院、 トーデンはトゥディング、 オロラヘルはオーロラヒル と考えられます。
叉、白雲荘とあるのは キャンプ・ジョン・ヘイ辺りの建物ではないかと思われます。
今のホテル・マノールの場所に以前はメイン・ホールと呼ばれる白い建物がありました。

ちなみに、最近亡くなった元抗日ゲリラの方はイトゴンの方でした。
その方のご家族からの連絡で、日本兵の霊がその方にとりついているらしいとの話があり、二度に渡り戦没者慰霊とお葬式に伺いました。

次回の<その5>では、 バギオの北方、ラ・トリニダッドからボントックへ向う ボントック道(ハルセマ・ハイウエイ)沿いの記述を探してみます。
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by janlbaguio | 2010-06-02 00:10 | History バギオの歴史