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バギオで書初め大会  Japanese Calligraphy in Baguio

Kakizome is the first calligraphy practice of the year.
JANL held the Kakizome gathering on January 29, 2011, at Abong Hall.

バギオの日系人会館(アボン)で、北ルソン日本人会が「新春書初め大会」を開きました。
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習字の先生は、日本からバギオに 英語留学中の方々。
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バギオ滞在中の有段者の四名の皆さんが 先生役を買って出て下さいました。

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そして、書初め大会に参加してくださったのは、JANLの子供達はもちろん、 バギオ大学で日本語を習っている学生も。

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小さい子供達も一所懸命です。
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そして、北ルソン比日基金の奨学生たちも 初めてのチャレンジです。

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最後の仕上げに ニコニコ顔。 楽しかった~~~!!

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見学だけのつもりだったバギオ大学の学生さんたちも ついに床に座り込んで初挑戦です。
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そして、皆さん こんなに上手に書けました。
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今年の「夢」が 叶いますように!!

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小仲先生、春日先生、市川先生、山岸先生、 そして 岡部先生、
教えて下さって どうも有難う御座いました。

Japanese Association in Northern Luzon(JANL) held the Kakizome Taikai on Jan. 29, 2011, at Abong Hall in Baguio city.

Attended by :
JANL children
Abong scholars of multiple universities(SLU, UB....)
Students from University of Baguio, who are learning Japanese languate.

The instructors are from Japan and staying in Baguio to learn English:
Konaka sensei
Kasuga sensei
Ichikawa sensei
Yamagishi sensei
+
Okabe sensei (JANL member)

thank you very much for your assistance and participation.

展示しています:

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by janlbaguio | 2011-01-30 12:58 | Activity 活動内容

北ルソンで 日本国政府が台風被害への支援

1月26日に、ベンゲット州のツブライ町で 昨年の台風Juanの大きな被害を受けた農家に対して、日本国民からの援助物資が届けられました。

On January 26, 2011, Launching Ceremony of Agricultural Relief Assistance
distribution to Typhoon Juan victims was done in Tublay, Benguet.

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Attended by Minister Shinsuke Shimizu of Japan Embassy,
Governer Nester Fongwan, Benguet Province,
Mariko Sorimachi, Director of Cordillera Green Network(CGN),
Mayor Ruben Paoad, Tublay Municipal, Benguet, etc.

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風台風で温室などの農業設備への被害を受けた 花や野菜の栽培をする農家が多く、農業の再建を援助するための資材が届けられました。

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今回の式典には ベンゲット州の12のバランガイ(地区)から被害を受けた農家の人たちが集まりました。

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式典の後に、すぐに支援物資が配布されました。
尚、この支援は日本大使館から バギオを拠点とする環境NGO コーディリエラ・グリーン・ネットワーク(代表:反町眞理子)を通じて、ベンゲット州、カリンガ州、イサベラ州などの被災者へ届けられます。

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The article is found in the Baguio Midland Courier issued on Sunday,
Jan.30, 2011.
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もっと詳しく知りたい方は CGNのサイトでどうぞ:
http://cordillera.exblog.jp/14836442/
 
 
 
 





 
 
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by janlbaguio | 2011-01-27 17:50 | Neighbers ご近所情報

バギオの歴史 :   郡司忠勝著より その4


思い出はマニラの海に」  郡司忠勝著 三月書房より抜書き

(注:はブログ管理人のコメントです。)


p138
邦人青年の現地徴兵のための検査に立ち会うため、兵団徴兵官に随行して
北部ルソン一周の旅に出た。 ・・・バギオ在住の二世たちも含めて、
三十名ばかりの邦人青年が3日間の特訓を受けた。
・・・・マンション・ハウス(総督官邸)の人工池では胸まで水に浸かって
渡河訓練をした。
(注: マンション・ハウスは夏の大統領官邸にもなりました。
    マルコス大統領が失脚した後は、廃屋状態になりましたが、
    その後観光名所になっています。)

p147
(バーンハム公園の)周囲の丘陵には市庁舎をはじめ士官学校、大聖堂、
国立総合病院、大統領別邸、公会堂、ホテル、別荘などが箱庭のように、
緑のなかに色とりどりの色彩で点在していた。
池をめぐって小さなゴルフ・コースがあり、ローラ・スケート場、テニス・
コートや華僑の青年たちがよく遊ぶサッカー広場などもあった。
(注: 士官学校は現在はPMAとしてロアカン空港の隣にあります。
    国立総合病院は現在のBGHバギオ総合病院かと思われます。)


p148
池の南側の芝生のなかに緑色の公会堂がある。
・・・公会堂から池に沿って西に歩くと、公園のはずれに木造二階建の
小さい建物が目につく。 いまは共同住宅になっているが、かつての
日本人小学校である。・・・・・新校舎の建設が進んでいた昭和十一年
十月、村井熊雄校長が家族とともに赴任してきた。三十歳を出たばかりの
若い校長は長崎県出身の九州男児である。
(注: 元々バーンハム公園の西隅にあった日本人小学校は
    新校舎の完成に伴って ロクバンに移りました。)

p151
バギオ大聖堂の裏手の丘を左に下りて行くと小さな森がある。
その森の中を曲がりくねった一本の細い道が通っている。 いくばくも
なく木造二階建の大きな建物に行きあたる。 それがノートルダム病院である。  ・・・カトリック教系の病院で、・・・・病院の中庭には
小さな礼拝堂と聖母マリヤ像が立っていた。
(注: 森があったところは現在はセントルイス大学附属高校辺りか。
    ノートルダム病院は現在のバギオ大学の隣にあります。)

p164
海抜1,500米のバギオから一気にラ・ウニオン州のバワンに下るこの
ナギリアン道は、かつてロング・ビーチの海岸によく遊んだ道である。
・・・やがて山を下りきった報道車は急造の小さな飛行場のそばを通る。
・・・小型の連絡機が一機忘れられたように片隅にあった。
ここまでくればもうバワンである。 北・サンフェルナンドまで
南へ約10キロの道のりである。
(注: バワンからサンフェルナンドまで「南へ」と書いてあるが、
    これは「北へ」の間違いではないかと思われる。)

p165
(サンフェルナンドで)・・・私を見ると
「なんだ、まだ来るのがいるのか」とあきれ顔である。
「早く逃げろよ、アメリカが来るぞ。」
と背の高いほうが、足早に通り過ぎながら言った。
「マニラ行きの連絡車が十九時に着く、それが最後だ。」

p166
敵に追われて砂浜に乗り上げたと見える日本の貨物船が二つに裂けて
船首を高く青空にもたげていた。 日の丸の船体に鉄錆が浮き、汚物が
波に洗われていて哀れであった。
(注: ラ・ウニオン州のサンフェルナンドの港は、日本軍が最後に
    上陸した地点となり、アメリカ軍の再上陸前には多くの
    日本艦船が沈められた。)


p173
マニラを捨てた方面軍司令部は年の改まった昭和二十年一月三日
山岳都市バギオに移転した。 日本軍の戦況は悪化の一途をたどり、
南部の島々を攻略した米軍のルソン島上陸は、早時間の問題となっていた
ようである。

p174
一月七日、リンガエン湾深く進攻した米艦隊は北・サンフェルナンド
一帯を猛砲撃し、九日には上陸を敢行した。


p175
B24の<じゅうたん爆撃>でカバナツアンは瞬時にしてこの世から
消え去った。 振り返りもせずに飛び去った敵機のあとには、阿鼻叫喚の
地獄絵だけが残った。 ・・・死体がごろごろと転がっていた、
首が離れ、手足が散らばっていた。 そのなかを私は方向も分からぬまま
同じ流れに乗って走った。
「へいたいさん、連れていって・・・」
道端で懸命に助けを求める日本女性の声がした。・・・・・
(注: カバナツアンはターラックの東にあり、ヌエバ・エシハ州の
    都市である。)

 
 
 
 
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by janlbaguio | 2011-01-21 11:54 | History バギオの歴史

バギオの歴史 :   郡司忠勝著より その3

思い出はマニラの海に」 郡司忠勝著 三月書房より抜書き

(注:はブログ管理人のコメントです。)


p81
嗚咽のうちに、夫のジャクソン氏が(ジョン・ヘイ)基地内のゴルフ場で
プレーの最中、日本機の投下した爆弾で大怪我を負ったと涙のなかで語った。
(注: バギオのキャンプ・ジョン・ヘイで戦争が始まり、同じジョン・ヘイで
    山下大将は降伏文書に署名している。)

p82
東京からのラジオはしきりと日米開戦のニュースを強い口調で報じていたし、
サン・フランシスコからは激しい言葉が電波に乗って飛び込んできた。
すでに在留邦人は資産の凍結を受けて、不自由の生活を余儀なくされて
いたが、・・・


p82
午後四時ごろ、警察の命令で在留邦人は身回り品のトランク一個を手に
指定された近くの集合場所に集まった。そこからトラックでロクバンの
日本人小学校に一時収容された。
(注: ロクバンはバギオからラ・トリニダッドに行く途中の地区。
    昭和11年に バギオ日本人小学校は バーンハム公園の一角
    から、このロクバンに移設された。)

p82
ジョン・ヘイ米軍基地に入る。フィリピン国家警察隊の隊員が武装で
哨戒に当たっていた。米軍兵士はすでに移動したと見えて、一人も目に
止まらなかった。・・・・暗くなった。 ・・・押し込めるだけ押し込まれた
私たちは、暗やみのなかで先ず腰を下ろし、両手で膝を抱えた。
体が触れ合っても足も伸ばされない。
(注: キャンプ・ジョン・ヘイは 日本人収容所となりました。)

p88
12月25日午後、ついに日本軍の先遣隊と連絡がとれたとの記念すべき
第一報が飛び込んだ。
(注: 日本軍はナギリアン・ロードを通ってバギオに入りました。)

p89
先遣隊の無血入城となったバギオに、翌日からどっと戦闘部隊をはじめ
通信隊、特務機関、憲兵隊、軍政部要員などが競うように入城してきた。

p103
その日のバギオは朝からうわずっていて、ぎこちない挨拶からはじまった。
去る日、日本軍のキャンプ・ワン分哨を襲って全滅させたというゲリラの
処刑される日なのである。 ・・・処刑場所となった町の中央のシティ・
マーケット広場
に多くの市民が集った。
・・・トラックが到着し、中から後ろ手に縛った五人のゲリラを引き下ろした。
(注: この著書には その時の詳しい様子も描かれています。)

p109
市内を一望できるバギオ大聖堂の丘から、市内中央をゆるやかに下る
セッション・ロードはバギオ唯一の目抜き通りで、台湾銀行はその道の
はじまりにあって大聖堂がすぐ目の前にあった。
この台湾銀行の前を通って枝道の一本道を行くと、バギオ第一のホテル
パインス・ホテル>がある。 今は軍政監部に接収されて<松雲閣>
と名を変え、軍関係者の宿泊施設や兵団の高級将校の夜のクラブと
なっていた。
(注: このパインズ・ホテルは 今のコーディリエラ大学の場所にありました。
    台湾銀行の場所は セッション通りとガバナーパック・ロードの角の
    あたりかと思われます。)

p127
1943年(昭和18)・・・(十月)14日にはフィリピン共和国が
成立した。 ・・・フィリピンの独立とともに開設されたバギオ領事館は
市庁舎の丘の一隅にあって落ち着いた建物である。

p128
泥鰌(どじょう)はマウンテン・バザー<永富商店>の先代が遠い日本を
しのんで気候、風土の似たこの地に桜や果樹を植え、それに鯉などとともに
取り寄せたものだそうで、いまでは北部ルソンの山地や水田地帯まで
広がって、土地の人からは日本語そのままに<ドジョ>とか<ナガトミ・
フィッシュ>と言われて・・・・
(注: 当時植えられた桜が 今も残っているという情報はありません。
    専門家によれば、沖縄近くで育つ種類の桜でなくては
    バギオの気候では難しいようです。)
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by janlbaguio | 2011-01-19 21:43 | History バギオの歴史

バギオの歴史 : 郡司忠勝著より その2


思い出はマニラの海に」郡司忠勝著 三月書房より抜書き

(注:はブログ管理人のコメントです。)


p49
バギオはさながら夏季の首都の感を呈する。 別荘やホテル、それに
ロッヂまでも満員となって、英語やスペイン語がこの小さな町に
氾濫する。 ・・・ケソン大統領がトレード・マークとなった白の
乗馬姿で、手の鞭を軽く振りながら令嬢と朝の散歩を楽しむ姿は、
この町ならではのことである。
(注: バギオは別名サマー・キャピトルと呼ばれ、夏の間は
    マニラの首都機能をバギオに移していました。)

p50
避暑客は一度は必ずといってよいほどジャパニーズ・バザーを
訪れる。 ジャパニーズ・バザーはバギオを代表する店の一つで、
ミニ・デパートといった構えで、薬局から自動車部品まで、一般雑貨
からスポーツ用品、楽器、呉服、酒類、貴金属に時計や写真機、
靴それに写真スタジオなどと、食料品と機械類を除いてはほとんど
この店だけで用が足りた。
(注: 当時のセッション・ロード周辺には多くの日本人経営の店が
    立ち並んでいました。)

p59
(ジャパニーズ・バザーの)西側はフォート・スタジオで、
その下には暗室と作業室があり、それにつづいて写真部長の
古屋正之助さん、副支配人の秋吉さん、・・・の住宅が噴水の上がる
中庭を中心にして囲むように棟つづきで建っていた。
(注: この古屋正之助さんは、古屋英之助さんの御父上です。)

p65
ダモルティスはマニラから北サンフェルナンドに至る鉄道の駅の
一つで、山岳の町バギオへ上るベンゲット・ロードの乗り継ぎ地点で
ある。
・・・・両親とともにバギオに住み、日本人小学校へ通学した。
(注: 北サンフェルナンドはラ・ウニオン州の州都のサンフェルナンド
    である。日本人によって南サンフェルナンドと呼ばれたのは
    パンパンガ州のサンフェルナンドである。
    この当時、バギオには日本人小学校があった。
    小学校の跡はマグサイサイ通りの緑色の門だけとなっています。)

p70
シティ・マーケット広場の東裏通りに富士ホテルがある。
市内の会合に、また山奥で働く木材業者や金山会社の邦人が
おもに利用していた。
(注: 現在のピープルズ・パークの東側付近と思われる。)

p72
サント・トーマス山はバギオの南方に位置する標高1,000米の
峻峰である。 山頂からはコルディレラ山脈に連なる山々の嶺が見え、
遠く西方にリンガエン湾がひらけていた。
山頂には石室があって風雨がしのげ、ご来光を拝むにはかっこうの
場所と邦人間の評判がよかった。
(注: サント・トーマス山の標高は1,000米ではなく
    2,000米です。)

p80
1941年(昭和16)十二月八日、・・・・
西の空から爆音が聞えた。近ごろになってバギオの空に時おり
訓練機が飛来したが、今朝は音も様子も何となく違っていた。
私は脚立の上からジョン・ヘイ米軍基地の方角へ一直線に丘をかすめて
飛んで行く数機の黒い影を見た。異質の爆音が重く耳に残った。
再び私が目をガラスにうつした途端、遠くで数回の爆発音がして、
部厚い大きなウインドのガラスがぴりぴりと波を打った。
・・・・ 二十分ほど経ったころ、街中が騒然となって顔見知りの
警官が緊張の顔付きで店に飛び込んで来た。
「日本人は一歩も外出せずに、次の指令を待て」と外出禁止令を告げ、
日本人会長の早川さんに、命令の徹底と自重を促して足早に立ち去った。
(注: これがハワイのパール・ハーバーの奇襲と同日に行われた
    日本軍によるフィリピン攻撃の開始です。)
 
 
 
 
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by janlbaguio | 2011-01-18 21:47 | History バギオの歴史

バギオの歴史 : 郡司忠勝著より その1

「思い出はマニラの海に」郡司忠勝著 三月書房
(1993年発行)

この本を著した郡司忠勝氏は、1935年に南洋協会比島派遣第一回
商業実習生としてフィリピンに渡った。
戦前のバギオで最大級のデパートとされたジャパニーズ・バザーで働き、
北部ルソン日本人会会計役を務め、戦時下では、野戦貨物廠嘱託、
米穀管理協団会計監督官となり、1945年太平洋戦争の終戦により
強制送還された。

著書のタイトルは「マニラ」の名前があるものの、この本には当時の
バギオ周辺の様子を描いた記述が多々みられる。

バギオの歴史を学ぶために この本からの抜書きを紹介したい。
(注:  )はブログの管理人が付け加えております。

尚、この書籍はインターネット書店では「在庫なし」「出版社から取り寄せ」
などとなっていますが、絶版ではないかと思われます。
アマゾンでは「中古品」として取り扱われているようです。

ー - - - - - - -

p13
地獄絵のような戦いの繰り返しが終わったとき、還る道を失った
幾十万の精霊が北ルソンの山野を彷徨った。

p30
下車駅のダモルティスでのバスの乗り替えの・・・
クッションのない木製の座席に馴れない尻が痛かった。
(注: 鉄道のダモルティス駅はバギオの登り口にあるロサリオ
    西の海岸線にあった。)

p31
この駅から出るバスはベンゲット・オートライン社のバギオ行き
直行便で、・・・。 (マニラからの)八時間ばかりの汽車の旅は、・・・。

p33
海に近いダモルティス駅からロザリオまでの道は、舞い上がる砂塵で
先を行くバスが見えない。
・・・・ やがてアグノ川の鉄橋を渡ると、うっそうとしたロザリオ
の森に入る。 ベンゲット・ロードの急坂はもうすぐ目の前からはじまる。
・・・・標高1,500米にある高原都市バギオに至る急坂45キロ
の九十九折りの難道である。


p35
工事を終えた後の日本人労働者は、一部の人たちがバギオに残留して
商業を営み、またバギオの北方四キロほどのラ・トリニダードで農耕を
するようになった。・・・・・
バギオの日本人墓地に建つ<先亡同胞之墓>は当時を物語っていて、
ベンゲット・ロードはフィリピンにおける日本人移民史に、忘れることの
できない犠牲と建設の歴史となった。
(注: 1905年1月に開通したベンゲット・ロードは現在はケノン・ロード
    と呼ばれている。叉、日本人墓地は現在のバギオ市営墓地の
    一画にある。)

p38
道幅の広いセッション・ロードをゆるやかに下る。静かで清潔な街並みで
ある。 ジャパニーズ・バザーは坂のなかほどにあって、白壁の大きな
二階建ての建物である。
・・・明るい内窓を背にして中央に店主の早川さんの机があり・・・
(注: このジャパニーズ・バザーの場所は、現在のPRIMEホテル
    の右側辺りとされています。)

p44
1935年ごろのバギオは人口二万に満たない避暑地で、欧米風の
住宅が色とりどりの緑のなかに点在する箱庭のような町であった。
・・・・
バギオとはこの山岳地帯に住むイゴロット族の<ベギウ>が語源と
いわれ、暴風雨とか嵐という意味だそうである。
(注: これ以外に「苔」という意味だという説もある。)

p45
ラ・トリニダードの邦人農園でも、台風過ぎを待っていっせいに農作業
をはじめる。 ここでは山梨県出身者が多い。

p46
クリスマス・シーズンは・・・・・
イブにはパレードが街を練り歩き、夜は市の主催する野外ダンス・
パーティがシティ・マーケットの広場で催される。
 
 
 
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by janlbaguio | 2011-01-17 23:01 | History バギオの歴史

JANL 書初め大会 平成二十三年 in Baguio


The first calligraphy writing of the year(Kaki zome) 2011 will be held in Baguio city as shown below, with cooperation with Filipino Japanese Friendship Association in Northern Luzon.

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遅ればせながら、上記の通り、北ルソン日本人会(JANL)と 北ルソン比日友交協会(日系人会)との協力で、「書初め大会」を開催致します。

皆様のご協力をよろしくお願い申し上げます。
 
 
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by janlbaguio | 2011-01-13 23:48 | Activity 活動内容

謹賀新年 平成23年  今年も宜しくお願い致します


明けまして おめでとう ございます

旧年中は 多くの皆様に 大変お世話になり 有難う御座いました。

本年も 皆々様のお力で さらに安心で楽しい

バギオおよび北ルソンでの暮らしが出来ますよう

ご協力を 宜しくお願い申し上げます。

北ルソン日本人会(JANL)世話人一同
(小国、山田、佐々木、駒崎、高橋)

= = = = = = = = = = =


2011年1月3日に 日本料理のCHAYAさんで JANLの新年会を開きました。

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バギオでは諦めていた「おせち料理」を 特別に用意していただきました。
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3日に学校が始まったため、残念ながら子供達は参加できませんでしたが、

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ボランティアでご協力をいただいている方々にもご参加いただき、
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正月という雰囲気がないフィリピン・バギオの中で、
「あけまして おめでとう ございます。」
「今年も よろしく おねがいします。」
と挨拶が交わされ、ここだけが「お正月」ムードとなりました。

 
  
















 
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by janlbaguio | 2011-01-04 12:20 | Activity 活動内容