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The Travel for Joyful Way :  Dec.8 at Camp John Hay

12月8日(日)に キャンプ・ジョンヘイのベル・アンフィ・シアター(野外円形劇場)で
Travel for Joyful Way が開催されます:


日本古来の知恵と技を伝えようとやってきた、ニッポンのシャーマン・飯田茂実さんによる
「みくさのみたから」 ワークショップ・チーム。イフガオ州、マウンテン州、アブラ州でワークショップ・ツアー開催中。12月8日の第二次大戦の開戦日、キャンプ・ジョン・ヘイが爆撃された日に、野外劇場で旅の間に創作した作品を公演します。

日時: 12月8日 4時
会場: キャンプ・ジョン・ヘイ スカウト・ヒル ベルハウス&野外劇場
入場: 無料


お互いに生き心地よく仲良く暮らす術を身につける旅
for getting by the body the magical way to live joyfully and harmoniously each other


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Shaman Art Performance
by 17 International Artists & Mikusano Mitaka Workshop


Date: December 8, 2013
Opening Performance: 4:00 P.M.
Main Performance: 4:30 P.M.

Venue:   Bell Amphitheatre, Camp John Hay, Baguio City

Admission: Free


シャマン文化の遺産 : 飯田茂実氏のサイト
http://shaman-art.sblo.jp/article/48293921.html?1317556951


ー飯田茂実ー 
・日本古来の身体技術ワークショップ 「みくさのたから」 (Three Joyful Treasure)
・旅するダンスシアター・プロダクション

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本人ダンサー・舞台演出家・飯田茂実氏が、フィリピン、日本、トルコ、イタリアなどからの参加者とともに、バギオ市を皮切りにルソン島北部のコーディリエラ山岳地方の先住民族の村を旅し、コミュニティの人々に日本古来の身体技術についてのワークショップをファシリテイトしていく。

旅での先住民族文化との出会いや経験を反映させながら、「平和への祈り」をテーマとしたダンス・シアター作品を制作し、第二次世界大戦が始まった12月8日にバギオ市内にて公演する。


<内容>
 
「Travel for joyful way」では、日本人舞踏ダンサーで舞台演出家の飯田茂実氏が、在バギオの環境NGO「Cordillera Green Network(CGN)」がかつて開催した環境演劇ワークショップに参加したルソン島北部出身の若者たち、日本や世界各国からの希望者と結成したグループとともに、第二次大戦中に日本軍が駐屯していたコーディリエラ山岳地方の3つの村々を旅し、日本古来の心身技術に関するワークショップ 「みくさのたから」 (Three Joyful Treasure from Japanese Ancient Tradition)を村の住民や高校・大学の生徒を対象に行う。1回のワークショップの参加人数は50-100人。1日4時間半で3日間。

グループは3つの村をめぐりながら村の伝統芸能、文化、大戦の記憶についての聞き取り調査を行い、それらの体験を反映させ旅をしながら最終的にひとつのダンス・シアター作品を仕上げ、2013年12月8日にバギオ市内で発表する。


   
Travel for Joyful Way
Workshop ”Three Joyful Treasure from Japanese Ancient Tradition”



Introduction

Iida Shigemi, a director of dance-theater, musician, composer, poet,
and novelist, together with a team of performers, writers, and artists
from the Philippines, Turkey, Belgium and Japan will be travelling
together across Baguio City and three chosen Cordillera villages to
share joy and peace through traditional Japanese physical craft.

Iida Shigemi belongs to the last generation of people who received
ancient heritages directly from his grandmother and some old folks
in their village. He will be sharing, “Three joyful treasures and Seven
joyful habit for recovering life; coming from ancient tradition…” to the
people of Cordilleras.

The Cordilleras is the northernmost part and the most mountainous
region in the Philippines where people undergo physical activities as
normal part of their daily life. The Cordilleras also is one of the frequented
places in the Philippines of Japanese who lived before and after the
World War II.

“Prayer for Peace” is the message and focus of the dance theater team
as they find their way through experiencing and meeting with other
culture during their travel. The team will be performing on the stage
in Baguio on December 8, just in time for the commemoration of the
world war that started in 1942.





    




          
     



   
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by janlbaguio | 2013-11-30 00:32 | AJISAI 文化交流 network

日本の情報誌R25で バギオの七夕・模擬縁日が紹介されました

R25という無料情報誌をご存じでしょうか.

関東、大阪、名古屋などの大都市圏で、主に電車・地下鉄の駅やコンビニで55万部
配布されている雑誌です.

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この雑誌の小さなコラムで、タイトルは、
「ブーム 縁日「屋台」国際映画祭で大人気!」というスペインでの事例がレポートされているのですが・・・・

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そのページの後半部分に バギオでの 「コスプレ・七夕祭り&模擬縁日」 のことも掲載されています.

この記事によれば、スペインでの縁日・屋台は、映画祭からのオファーで、日本から初めて遠征して実施されたものだそうで、 バギオ市での地元の若者、特に日本の漫画、アニメ、コスプレ、ゲームなどが大好きな人たちの自主的な主催によるものとは いささか趣旨が違うようです.

いずれにせよ、日本の祭りや縁日イベントが世界のあちこちに文化交流のひとつとして
広がることは嬉しく、楽しいことです.

小さな日本人のグループである北ルソン日本人会(JANL)としては、
日本文化が大好きな地元の皆さんを大切にして、このような催しを一緒に楽しみ、陰ながら応援していきたいと思います.




    



       

      

  

   
  


   



   


    

        
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by janlbaguio | 2013-11-22 12:17 | AJISAI 文化交流 network

フィリピン・ツーリスト・ビザで 6ヶ月以上滞在 出国ECCに要注意 !!

フィリピン移民局のサイトより
イミグレーションで払うべき手続き料など


ECC(EXIT or Emigration Clearance Certificate)とは・・

http://immigration.gov.ph/index.php?option=com_content&task=view&id=61&Itemid=43


(下記の引用は2013年11月17日現在のものです.
 正確には、上記のサイトで最新の内容をご確認ください.
 又、翻訳は参考までとしてください)



ALIENS ADMITTED AS TOURIST VISA (9a 59 days)
ツーリスト・ビザ(旅行者査証)

   59日以上滞在する外国人が支払わなくてはならない料金


               ADULT 大人        MINOR 子供
              (15 years old & above) (14 years old & below)

Application              300.00        300.00   申請
Monthly Extension         500.00        500.00  月毎の延長
Alien Certificate of Registration
(ACR)                1,000.00        500.00 外国人登録 証明
Re-issuance of ACR for
(2nd entry of every entry after 59 days)  250.00 150.00  ACR再発行
Exit Clearance (ECC)         700.00       200.00  出国許可証明
Legal                   40.00        40.00  法定
Express Fee (Certification)     500.00       500.00  至急料金(証明書)
Express Fee (For processing)   500.00        500.00  至急料金(手続き)
Certification Fee           500.00        500.00 証明料金
Head Tax                250.00            人頭税                
Express Lane Fee (For Processing of I-Card)
                      500.00        500.00 至急レーン料金

Additional Payment for I-Card  $ 50.00     $ 50.00 Iカード追加料金


-    制限された国の外国人については、最長1ヶ月から6ヶ月のみ延長できる.
   
-   制限されていない国の外国人については、2ヶ月から2年間である.  
     (期限切れのビザは、二ヶ月ごとの場合 至急の更新料金)

-    6ヶ月以上滞在する外国人は、1,400ペソの 居留暫定訪問者証明料を
   支払わなくてはならない.




ADVISORY TO ALL FOREIGNERS
すべての外国人への注意書

http://www.immigration.gov.ph/index.php?option=com_content&task=view&id=2129&Itemid=103

The emigration Clearance Certificate (ECC) 
       

エミグレーション クリアランス 証明書 (移出認可証明書・出国の許可)は、
フィリピンを出国する 移民あるいは非移民ビザを持つ外国籍の者に対し、
移民局が発行する 出国前の重要な書類です.
ECC-A(レギュラーECC)と ECC-Bの 二つのタイプがあります.


ECC-Aは、(フィリピンから)出国する外国人が、ECCを発行する時点で、
フィリピンにおける不名誉な記録や政府に対して未決の債務がないことを立証する
ために発行されるものです.


この証明証は、移民局本部、あるいは、特定の地区事務所*(1), 出張所(2),
現地事務所(3), ワンストップ・ショップ事務所(4), 拡張事務所(5),
で 取得することが出来ます.
特に、以下の分類に該当する外国人は、出国前に ECC-A を確保しなくては
なりません.

1.
暫定訪問者査証(ツーリスト・ビザ)の所有者で、フィリピンに6ヶ月以上滞在した者.

2.
期限切れ、又は、降格された移民あるいは非移民ビザの所有者.

3.
有効な移民あるいは非移民ビザの所有者であるが、フィリピンに戻らない者.

4.
フィリピンで生まれた外国人であり、初めてフィリピンを出国する者.

5.
暫定訪問者ビザの所有者で、退去命令を受けた者.

6.
フィリピンに30日以上滞在した正真の船員で、移民局から正式に免責を認められた者.


Meanwhile, ECC-B is issued to


一方、ECC-Bは
有効なACR(外国人登録証) Iカードで 移民及び非移民ビザ所有者がが一時的に
フィリピンを離れる場合に発行される.
これは、一回限り使用できる領収書であり、特別帰還証明(SRC)(非移民の場合)、
あるいは、再入国許可(RP)(移民の場合)を証拠立てるものであり、1年間有効である.
移民局の本部あるいは出国の際に空港で取得できます.



移民局は、ECCを発行する手続きを集中し、簡素化するために、自動化された
ECC事務所を設置する予定です.


さらに、外国人には、この書類を提供すると言う権限のない私的機関や個人から
偽物や不正に発行されたものを購入しないように警告します.



*
(1) District Offices:   
   地区事務所: バタンガス、 カガヤン デ オロ、 セブ、 クラーク、レガスピ、
           タクロバン、ツゲガラオ、ダバオ

(2) Satellite Offices:
  出張所:  SMノース・エドサ、 サンタ・ローサ、 タイタイ

(3) Field Offices: Baguio,
  現地事務所: バギオ、バタアン、 ボラカイ、 ブツアン、 イサベラ、
            ジェネラル・サントス、 グラン、カリボ、ルセナ、ナガ、
            オロンガポ、ザンボアンガ、ダグーパン

(4) One-Stop-Shop Office:
   ワンストップ・ショップ事務所: クラーク

(5) Extension Offices:    拡張事務所: PEZA移民局、マカティ移民局




以上、皆様の便宜の為に翻訳をしておりますが、
実際の手続きや料金などについては、イミグレーションの事務所によって
あるいはビザの種類や 個々の事情によって、異なる場合があるかもしれませんので、
ご注意ください.

==============

ECCの手続きの実際について、解説をしたサイトを リンクしました:



ECC発給の手順
http://www.philja.jp/bbs/board.php?bo_table=commm_04&wr_id=19

当日空港で出来るのでしょうか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14108577619

入国管理局にECC書類を午前中に書類を提出すると、通常午後に書類が出てきています。 
http://blogs.yahoo.co.jp/ryugakuphil/6169097.html

  
ACR-Iカードがない場合の出国にはSRCとECCが必要。
http://blog.goo.ne.jp/akkin_lotus/e/0affa3927174df26eca764643a7952b9
  

ビザの種類と ECC  『 観光ビサの延長 』
http://cebupot.com/visa.php

バギオ市のイミグレーション事務所で ECCをとった人の例:
http://plaza.rakuten.co.jp/shikalu/diary/200610190001/


空港で足止めされてしまった場合
イミグレーションの本部はどこにあるのか?
http://bbs.arukikata.co.jp/bbs/tree2.php/id/419058/-/parent_contribution_id/419058/

   
上記で、ECCは ACR Iカードを持っているかいないかで取得できる場所が異なる旨が書かれています.
その ACR Iカード とは何かについては、下記のリンクサイトでご覧ください.
発給対象者は、フィリピンに59日以上滞在する観光ビザ保持者、留学ビザ(9f)、就学許可証(SSP)保持者などです。
http://www.jasso.go.jp/study_a/oversea_info_phil_c.html
   
   

   
ACR Iカードについての 移民局の公式サイトはこちらです:
http://www.immigration.gov.ph/index.php?option=com_content&task=view&id=107&Itemid=61

この公式サイトに 以下のように書かれています:
The ACR I-Card likewise serves as the Emigration Clearance Certificate
(ECC), Re-entry Permit (RP) and Special Return Certificate (SRC) of the
holder upon payment of the required fees.  

ACR Iカードは、同様に、必要な料金が支払われていれば、
出国許可証明書(ECC)、再入国許可(RP)及び特別帰還証明書(SRC)として使われます.








  



    



     





   







     

    
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by janlbaguio | 2013-11-17 14:35 | Link お役立ちリンク集

12月6日・7日:第四回アジア太平洋国際平和慰霊祭及びフォーラム

下記の案内を 映画監督の今泉さんからいただきました.
翻訳は下にございます.


Invitation of
the 4th Asia Pacific International Peace Memorial and Forum.


It will be Christmas month again and we are organizing the Peace
Memorial and Forum for the 4th time to pray for all victims of the
war and for us to know more about the war.

During the last forum, the late Dr. Charles Cheng told us that the slogan
was very good but what the soldiers of Empire Japan did was very cruel.
We learned many from him. Thank you very much for sharing stories.

We young generation should listen to more stories of elders and friends
from other Asian countries to know what was about the war, what were
happening in Asia. Without knowing, we never understand the
mechanism of war.

This year, we will have these events on December 7, Saturday. If you
have time, please take a look or read our report later. Every time we
have this memorial, we are learning unknown histories of the war.
These learning encourage us to avoid any kind of war in the world.
Let us remember and think about war.


Pre-event; Peace Film Festival: December 6th, Friday 10am-6pm,
           free admission.
Venue: University of the Philippines Baguio, Library hall.
           The program will be announced later.


Memorial: December 7th, Saturday 9am open 10-12am,
           free admission.
Venue: Bell Amphitheater, Camp John Hay (near the statue of liberty)

Forum: December 7th, Saturday 2-6pm, free admission.
Venue: University of the Philippines Baguio, Library hall.


We will accept donation for these activities.
Organizers:
Baguio City, UP Baguio, IYAMAN Incorporated, NPO SALUBONG,
For more information:
JAED/LARSON/KOJI, IYAMAN Inc.
074-309-3766, iyamanoffice@yahoo.com




第四回アジア太平洋国際平和慰霊祭及びフォーラム

もうすぐクリスマスがやってきます˳ 今年も第四回平和慰霊祭・フォーラムを開催し、先の大戦の犠牲者を追悼し、戦争についてもっと知りたいと思います˳

昨年のフォーラムの中で、今は亡きチャールズ・チェン医師は、大日本帝国のスローガンは大変良かったが、その兵士達の行いは残虐であった、と語られました˳ 私たちはチェン医師から多くのことを学びました˳ ここに心より感謝を申し上げます˳

私たち若い世代は、もっと先輩方や他のアジアの友人たちの話に耳を傾け、戦争とは何か、アジアで何が起こっていたのかを知らなければなりません˳  それを知らなければ、戦争のメカニズムを理解することはできません˳

今年は、12月7日(土)に開催いたします˳ お時間がありましたら、ご覧いただき、あるいは後日報告書をお読みください˳  この慰霊祭を開催するたびに、戦争に関して今まで知られていなかった歴史を学んでいます˳  学ぶことによって、世界中のどんな戦争もあってはならないと勇気づけられます˳

プレ・イベント: 平和映画祭: 12月6日(金) 10am-6pm 入場無料
         会場: フィリピン大学バギオ校図書館ホール (プログラムは後日)

平和慰霊祭: 12月7日(土) 9am開場、 10am-12正午、 入場無料
       会場: キャンプ・ジョンヘイ内 ベル円形野外劇場 (自由の女神像の近く)

フォーラム: 12月7日(土) 2-6pm、  入場無料
       会場: フィリピン大学バギオ校、図書館ホール


イベントへのご寄附をいただければ幸いです
主催・共催: フィリピン大学バギオ校、イヤマン、NPOサルボン
詳細はこちらへ: 074-309-3766, iyamanoffice@yahoo.com 
イヤマンのJAED/LARSON/KOJI 

===================

尚、今回の12月6日(金)の平和映画祭の中では、北ルソン日本人会の
副代表である山田さんの戦争体験のインタビュー映像も上映される予定です˳
ただし、イベント全体はすべて英語で行われます˳

翻訳: 北ルソン日本人会/HO





   




    



     
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by janlbaguio | 2013-11-15 15:02 | Neighbers ご近所情報

古い資料に見る フィリピン・バギオの歴史


中部大学 青木澄夫教授からいただいた フィリピンの在留邦人団体に関する年鑑のようなものから・・
記事の内容から1935年ころに書かれたものと思われます.



「卅四 (=34)、 高原都市バギオ」 より抜き書き

p385
ベンゲット道路・・・最初の技師は米人ノーマン・ホームス氏であったが、比人労働者
を使用した為工事遅々として進まず、1903年改めて邦人移民千五百名を招き
工事費六百万比を投じケンノン少佐を工事主任として着手されたもので
実に邦人移民が比島に大量渡来した最初のものとして注目されている.

難工事で邦人中人柱となるもの実に七百数十名、血と涙の移民史を出現したのであった.

この道路工事の完成は明治38年1月で・・・

バギオ開発の恩人は動物学者ウスター氏で、・・・・
当時白人中では独逸人オツト・シーラー氏が先住していたと云われている・・・

(ベンゲット道路=ケノン道路、ここには邦人移民だけで完成しているような
 書き方になっていますが、別の資料では多国籍の労働者、技術者が働いた
 となっています)
http://janl.exblog.jp/7076729


p386
1904年には米人技師バーハム氏が都市美化計画を樹て、1909年には市政が
布かれる・・・・

約一千人の在留邦人が盛んに活躍している外 土着人イゴロテの中心市場として
付近の産物を集散している.

(この人数がいつの時点の人数かは不明ですが、この書籍に昭和11年までの
 名簿が掲載されていますので、おそらく昭和初期、1936年ころの人数では
 ないかと思われます.)

山岳避暑地バギオには今や自動車上の安座して登られ、マニラから一時間に
して達しうる航空路さへ設けられるに至っている.

(こんなに早くから飛行機が飛んでいたとは驚きですが、おそらく小型の複葉機
 のようなものだったのでしょう)


バギオ風俗の展覧会の如き観を呈するのは日曜日毎の市場を以てその最たるもの
とされているが、イゴロット土人等xx集して大繁昌している.

又バギオに遊ぶものは米軍駐屯地たるキャンプ・ジョンヘイを見逃してはならない.
米人好みの諸設備完成し、・・・有名なるカントリー・クラブがある.

(ちなみに、バギオ・カントリー・クラブは100年以上の歴史を持つ老舗ゴルフ場です.
 完全な会員制で厳しい審査があります. )
http://bcc.com.ph/#home

p387
自動車で八キロ、山路を上ること七キロにして海抜二千二百五十七米の頂に
達するところ サント・トマスにはホテルの設備もある.


(これには驚きました・・・サント・トマス山の上にホテルがあったなどという
 話は初耳です・・・・ 2257メートルの山頂ですからね・・・・
 初日の出などを拝むには絶好のポイントではありますが・・・ )

近年急進の進展を見せているバギオを廻る各金山への道路は、バギオを中心と
して動脈の如く放射されている. 即ちバギオはあたかも金鉱脈の心臓部
観を呈している.

(バギオの周辺で金が採れるのは事実で、私が日本語を教えた若い女性の
 家族は親子で個人経営の金採掘をやっているとの話でした.
 最近の金価格の上昇で盛り返しているそうです )



「卅五 (=35)、 バギオ日本人会」 の章

p387
バギオ日本人会の創設は大正九年一月で既に十五ヶ年の歳月を閲し、
群島各地の日本人会に比して最も古きを誇っている.

(これによって、この本は 大正9年(=1920年)+15年 = 1935年
 であることが分かりました. なお、日本占領時代には、バギオ日本人会は
 北部ルソン日本人会として改組されているようです.)


・・本会は会員共存共栄を図り、子女の教育陶法の為小学校を経営するを以って
目的とすると明言
してある・・・

現在の会員数は約三百七十余名で会費は一級一ヶ月二十比から 二十級
一比五十仙に至る二十等級に分つているが、一ヶ月最低一比五十仙と云ふ
金額はマニラ及びダヴァオの月五十仙に比較して三倍に当たり、
如何にバギオの在留邦人がよく一致して子女の教育に専念しつつあるかを
如実に現しており、その真摯な態度に対しては自然と頭の下がるを覚える.


バギオ日本人会が小学校を開始したのは大正13年で その当時の会員は
僅かに百二三十名に過ぎなかったとのことである・・・・

バギオ邦人の質実、真摯な気風はその地理的関係に於いて高原都市
としての気品がある上に南国とは思われぬ冷気によって気分を引き締めて
いることに起因すると思われるが・・・・


(この教育熱心というバギオの日本人・日系人コミュニティーの精神は
 シスター海野の献身的な働きにより、
 日本のロータリークラブや国際エンゼル協会などの支援のもと
 今の北ルソン比日基金、通称アボンに受け継がれているように思います.)


p389

このページには 大正9年の創立時から昭和11年までのバギオ日本人会の
会長、副会長、その他役員の指名がリストされています.




「卅六 (=36)、 在外指定バギオ日本人学校」 の章

p391
在外指定バギオ日本人学校は同地日本人会の経営にかかるもので
・・・大正十四年四月一日を以って開校し・・・

創立以来既に十二年を経過し混血児64名、純邦人子弟76名合計140名の
児童を有するに至っている.


p396
開校以来の児童数が表にまとめてありました:

大正14年 尋常科 男 10  女 14  計24
        高等科 男  0  女  0  計 0


昭和11年 尋常科 男 56  女 64  計 120
       高等科 男 9   女 18  計 27

(つまり、昭和11年=1936年の時点で 日本人学校の生徒は 147名になっています)




「卅七 (=37)、 バギオ日本人の発展状態」 の章

比島各地の都市を一瞥すると、商店街の七八十パーセントは支那商人の
勢力に占められているのが普通であるが、バギオの邦商は開発当時より
優勢をたもち現在雑貨商は殆ど日本人がこれを占め
、その多くは食料品店
を兼営している.

一方支那人は食料品店、旅館、レストラン方面に発展している.
其の外ボンベイ人、ペルシャ人等の商人は最近漸く進出して来た有様で
米人の経営する商店は未だ僅かであるが、金鉱会社、銀行、製材、
乗合自動車、タクシー等は殆ど米人の経営である.

(日本人移民は、これらのアメリカ人経営の企業に係る仕事、および建設業で
 成功を収めた人たちが多いようです)

p398
金山方面には現在約百五六十名の邦人大工が働いているが、
何れも優秀な技術と勤勉なる事が認められ、非常に重宝がられて
各会社の頭領株は悉く日本人で絶大な信用をうけている・・・・

ヒールソーミル会社の経営かかる数カ所の製材所は・・・ほとんどこれ等日本人
製材請負業者の手
によって製材される・・・
この下には五六十名の日本人と約六百名の比人が使役されている.



ツリニダード農園の現況
(ツリニダードとは La Trinidad ラ・トリニダッドのことで、バギオの隣町です)

現今ツリニダード農園は比島唯一の野菜生産地となるに至ったが、
その沿革を逆のぼれば約三十年前ベンゲット移民中の数名の日本人に
よって野菜栽培に好適な土地なることが発見せられたのであって、
・・・年に約二千五百トン、価額として約二十五万比の野菜が産出せられる
に至った. 
この内玉葱が80パーセントを占め、ついで白菜、ジャガ芋、芹、ねぎ等である.

(唯一の野菜生産地というのは 温帯野菜という意味でしょう・・・)


p399
これ等の農園は、日、支、比人の内 七割以上を日本人が経営生産している.


(この本は、いささか日本人の肩を持つような感じの表現もありますが、
 全体の中での割合などを数値で書いてところは理解が助けられます.
 バギオの中国系のコミュニティーでは 同じように「中国人が一番貢献した」という
 ような書きぶりです )




・・・・・この後の章に 断片的に興味深いところがありましたので、
それを拾ってみます.


p399

バギオ青年団は昭和4年2月11日建国祭当日の佳節をとして創設された

(講演会、映画大会、修養座談会、武道・相撲大会、演芸会、陸上大運動会、
野球大会などをやったと書いてあります.)


一方、国際親善の立前から米国独立祭等には日本人代表の山車を出し、
バギオ市より度度賞品を獲得している.

(青年団の役員リスト、昭和11年度の中に日本人会の会計役で
 「思い出はマニラの海に」を著した 郡司忠勝氏の名前があり、
 常任顧問及び歴代団長として 写真家の 古屋正之助氏の名前もみえます.)
http://janl.exblog.jp/11940343
http://janl.exblog.jp/18343794/

p401
現在ダヴァオ州には邦人一萬四千、支那人一千五百名居住するが、
キリスト教比人は十萬七千、非キリスト教は八萬余である

(非キリスト教というのはイスラム教のことでしょうか・・・・)


邦人のダヴァオに移住を始めたのは、明治37年(1904)の事で、
ベンゲット道路工事終了と共に激増し、故太田恭三郎氏の先見の明により
麻栽培地として異常の発達を示している



(以上のとおりで、ベンゲット道路建設の後、仕事を求めてダバオへ渡った
 日本人労働者が多かった中で、バギオ市の建設にその後も貢献した
 人たちが戦前は日本人学校の建設にも尽力し、成功したようです)
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by janlbaguio | 2013-11-10 21:48 | History バギオの歴史

「図南遊記」 に見る100年前のフィリピン・バギオ市 

「図南遊記」 に見る100年前のフィリピン・バギオ市 

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梶原保人著 民友社 大正2年(1913年)発行の「図南遊記」は、
当時の台湾新聞(日本語新聞)の主筆であった筆者が、植民地経営の実際を
見て廻るために東南アジア諸国を旅した見聞録であるようです.
(尚、同書の本文は当時の古い漢字、文体であるため、下記の引用は
 漢字などがことなる表示となっているものがあります. ご了承ください.)

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なんと この本の「序」には、新渡戸稲造が

「南方経営に着眼するもの輩出するに至らば・・・・」と寄稿しています.
当時の欧米諸国の植民地支配から学ぼうとする世相が見えるようです.
ちなみに、この本の発行の翌年1914年 第一次世界大戦が起こり、日本も参戦しています。
又、日清戦争は1894-1895、日露戦争が1904-1905に起こっています.
なお、日本の植民地として台湾が1895-1945、 韓国は1910-1945と、
この本の当時はすでに日本が統治していました.

ここで、著者が シンガポール、ジャワ、マレー半島、仏領インドシナ、フィリピンを
1912年9月から視察したことが述べてあります.

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この本は台湾から香港へ行くところから始まり、の第七章にフィリピンの記録があって、
その一部にバギオ訪問時の記事がありましたので、ご紹介します.

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第七章の第六節 「比島の大避暑地」というところが バギオ市について書いています.
避暑地というものに対する日本の一般的な考え方は 贅沢であるとの背景が
あったようで、それに対し著者は 植民地経営にとっては なくてはならぬものである
と意見を述べています.



ここからバギオ市関連の部分を拾い読みしてみましょう.
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p414
マニラからダバン迄、約百二十里の間は、西班牙(スペイン?)時代より汽車が
運転したので、呂宋中最も進歩したる地域である・・・

(120哩というのは 193キロ・メートルであるので、ダバンとは ダグーパンのことか?)

パムパンガ州は、呂宋糖の産地で、その製品はネグロス糖に及ばず、
多くは島内需要に供給せらる、
アンゼルス及びフエルナンドは同州の首都にして、砂糖の中央市場たり・・・

(アンゼルスは アンヘルス、フエルナンドは サン・フェルナンドと思われる)


走ること四時間にして、山や岡が近づき、荒蕪地もあったが、
要するに鉄道沿線は、殆んど開墾されて居る・・・・

汽車はパムガシナン州に入ったので、同州の一港サンーファビンより分岐して、
バギオ道に入り、午後三時十五分 キャンプ ワンに着き
、此処で降りた、・・・


(p413に 一月二十五日午前六時二十五分の汽車に塔じ、視察の途に就いた、
 同避暑地は、イゴロットと称する蕃族の生息する山中にありて、
 バギオ避暑地と称す・・・とあるので、 マニラからバギオの麓まで
 9時間ほど掛かっている計算になります.)

(キャンプ・ワンは CAMP1で、ベンゲット道路を建設するときの飯場が山の麓から
 山上のバギオへいたる沿線に キャンプ1から8まであったことの名残です)


p415
弁当売りは現れず、同乗の米人なども土人のパンを買って、・・・僕等も
十銭を投じて、土人パンを買ったが、非常の美味で、頭大のパンを喫し・・・

マニラのトンド停車場から、キャンプ・ワン迄 百四十三哩・・・

(マニラは あのトンドから汽車が出ていたんですねえ・・・143マイル=230キロ)


汽車から降りれば、左側に一等、二等、三等の自動車が、三台、ブッブ・・云って
待っている、僕等二人の外に、米人六名、それに駅長と自動車の運転手、
・・・駅長は米人、運転手は土人である、・・・

川に沿うて、山の麓に設けられた、完美なる道路を疾走し始めた、
是が即ちベンヂット道と称して、比律賓政府が多大の経費を惜しまず、
絶大の困難を排して、開墾した所の有名な道路である・・・・

(ベンヂット道は ベンゲット道のことで、現在はケノン・ロードと呼ばれています)



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p416
開墾後も、渓は急流で、山はxxxxとして居るから、一旦雨降らば、渓流は、
猛烈なる威勢を以て、山壁を削り、巨岩を転ばし、橋を流し、道路を損ずるから、
其の維持には、年々多額の経費を投じているが、・・・・・

・・・恰も名門富豪の、奇麗に掃除された門内を歩く如うである、
注視すれば、到る所に掃除人夫が居って、掃除又は修繕を仕て居る・・・・


(当時のベンゲット道路のメンテナンスの難しさを語っている部分ですが、
 地盤がもろいため、現在でも台風や大雨の時には落石や崖崩れなどが
 発生しやすいため、たびたび通行が制限されることがあります)


道路の完美なるは、特に此の避暑地の山道のみならず、比島到る所然りで、
マニラ附近の田舎道でさへ、東京、大阪の道路より、遥かに優良で、自動車でも
馬車でも、ガタっとも音する様な事なく・・・・・


実に難路で・・・運転手がモートルの運転を一分間違ふれば、乗客は自動車と
ともに粉のように砕るるのだから・・・恐ざるを得ぬ

(ベンゲット道路=ケノン・ロードの険しさと運転の難しさを語っています)


此の辺は、全山悉く松林で、恰も日本の山を見る様な思が為る、・・・

(バギオ市は CITY OF PINES 松の都 とも呼ばれていますが、
 ほとんどの日本人が このような感慨を抱くのではないでしょうか)


p417
汽車を降りたキャンプワンから、此所まで三十二基即ち約二十哩半で、
午後六時、松林館と評するホテルに投じた.
パイン・ホテルに着き、僕が便所に行く時、日本の浴衣を着た婦人を、
チラと見たので、嬉しくて堪らず、部屋に帰って、さうと東郷君に告ぐれば
馬鹿云へ、そんな者が此の山奥に居るものか・・・・・


(二十哩半 = 二十・五マイル = 33キロ・メートル)
(当時も バギオに日本人が住んでいるというのは 知られていなかったんですね・・・
 今もバギオという都市の名前すら、日本ではあまり知られていないようですけど)


(ここで松林館と書かれているホテルは、 PINES HOTEL という当時最高級の
 ホテルとして知られ、アメリカ人が建てたそうです.
 第二次大戦当時、日本軍によって統治されていた時代には、
 日本軍の将校などが集うクラブのような場所となったと別の本にありますし、
 当時バギオに住んでいた日本人の記憶によれば、SKDのような日本の少女歌劇団
 が日本軍の慰問に来たこともあるそうです)


(また、このパインズ・ホテルは、戦前は 今のUC大学・選挙管理委員会事務所辺りに
 あったものが 戦争中に焼失し、戦後に 今のSMバギオの場所に再建されたようですが、
 それも火事で失われたそうです)


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p418
該旅館は、客室五十を有し、青々たる松林の際に建てられて下に掌大の平地あり、
向ふには丘陵起伏して、人家点在す、此所は夏期の都なれば、今や旅客少なく、
為に僕等も、上等の部屋に特遇された、山気に冷えた體身を、温湯に温め、
休憩室の椅子にもたれて・・・・


(これは凄いことです・・・・このパインズ・ホテルでは温かいお風呂に入れたという
 ことのようです.  今から10年ほど前であっても バギオのホテルで
 温水が出るお風呂・シャワールームは 特別なことでしたから)

(掌大の平地・・とあるのは、バーンハム・パークのことであろうと思われます.
 向こう側に丘陵があるというのは、おそらく キサド通りやレガルダ通りあたりの
 起伏を指しているのでしょう)

p419
食堂に入れば、メツロボール・ホテルの料理よりも、僕の口に適ひ、
南洋遍歴の疲労、全く醫せられた如うな感がした.

(パインズ・ホテルのレストランの料理は かなり旨かったんでしょうね)


砂漠の様に荒れ果てた、僕の心霊も、何者にか満たされ、嗚々神よと、
首を垂れて訴へざるを得なかった・・・

(かなり大げさな表現ですが、バギオの素晴らしさに魅了されたであろう
ことは私もよく理解できます)


それから、二三十軒から成立した町に行けば、驚いた、日本人の雑貨屋がある、
写真屋がある、大工屋がある、理髪店がある、宿屋がある、半分は日本人の
商店で、聞けば日本人が、此の町に二百五十名も居るそうだ・・・・

(これは驚くべき情報です・・・
 この本が発行されたのが1913年、ちょうど100年前ですが、
 この著者がバギオを訪れた1912年には 日本人が250名ほども
 住んでいたということです・・・
 おまけに、今の目抜きどおりであるセッション通りに20~30軒の店があって、
 その内のおよそ半分は日本人経営である・・ということです)

(戦争直前の1940年ごろにバギオに住んでいた日本人の方の話などを
 今までに伺ったところでは、中国人、インド人、フィリピン人、日本人などの
 経営する店があって、おそらく日本人経営は3割ぐらいだったのではないか
 との情報もあります)

(1940年ごろと思われるセッション通りの地図は こちらでご覧ください)
http://janl.exblog.jp/13504807/

蓋し例の婦女は、楼に六七人で、それも経営難だと・・・

(要するに、パインズ・ホテルで見かけた日本婦人は いわゆる 「からゆきさん」
 だと言うことのようです・・・つまり売春を目的とする商売ですね)



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p420
元来此のベンゲット道路と云ふものは、最初土人を使用して開墾しようと
為たんだが、危険で、困難だから、土人の手では捗取らないから、
是は日本労働者を容るるの外なしと一時に多勢の日本人を入れた
或いは曰く一千人と、或いは曰く四千人と、精確なる事は、官府に聞いたが
不明であった、
兎に角に、明治三十五、六年の間に、多勢の日本人で、
一気呵成に遣つ付け、今は前記のように、自動車で愉快に交通さるる・・・・


(明治35年 = 1902年 ですが、別の本では 日本人が来たのは1903年から
 道路が完成した1905年までとされています. .
 こちらの参考ページをご参照ください)
こちらのページでは、ケノン少佐が1903年から道路建設に就いたことが分かります.
http://janl.exblog.jp/6619636/
こちらのページで、日系人団体が1903年を移民開始の年としています.
http://janl.exblog.jp/7246960/

彼等労働者は、或いはマラリヤに襲われ、或いは負傷して、犠牲となったもの
少なからぬと聞いては、暗涙禁じ難くなった、其の残徒が即ち此の避暑地附近に
居るのだ・・・

(ベンゲット道路の工事が終わった後、多くの日本人労働者は仕事を求めて
 マニラへ向かったものの、その当時には仕事がなく、マニラ麻で有名と
 なったダバオへ移住したものが多かったとされています)

比律賓に於ける、三千人の日本人は、多くは労働者だから、妻を本国より
呼ぶなどは、却々の困難で、土人と雑婚した者が、六十四人ある、
之は帝国領事館に届けた分で、此の外にも少なからずあるだろうが、
此のバギオには、蕃人の娘と結婚した者が十三人ある、
其の中には、イゴロット蕃の頭目の娘と結婚した者もあるが、・・・・

(このバギオの日本人については、日系人団体の北ルソン比日基金が発行した
Japanese Pioneers in the Northern Philippine Highlands という本に詳しく
記録されています)


p421
ベンゲット道路を登る時・・・・痩せた體の小さい犬を連れて、山を登って居る
のに会った、何だと聞けば、明日バギオに催さるる犬市に出すのだと・・・
犬市を見んと、バギオの市場に行けば、市場の裏の空地に、犬の市が
設けられ、約三四百匹の犬が居る・・・・

(この地方には今でも犬を食用とする習慣があります. バギオ市の条例では
一応禁止されているそうですが、実際にはいくつかの店で食べることができます)



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p422
之れは此等に住むイゴロット蕃人の為めに設けた市で、台湾生蕃そっくりの
男女が、三々五々各地より集まり、・・・・
・・・一疋の価は、七十銭から二円まで、蕃人最上の馳走だと.

服装は、台湾生蕃よりも、少し上等で、上には多くxx衣又は古洋服を纏い、
下には反物を其儘巻いて居る、刺墨は男子に見ず女子は手に刺墨して居る、


彼等は豚を飼い、馬を養うて居るそうで、・・・・・犬の外に、或いは毛布、木綿、
其他種々の買い物をしていたが・・・


p423
彼等の経済状態は、余程進歩して居る、・・・・既に全く農業時代に進んでいる・・・
此のイロゴットは、往時は兇猛な蕃族であったが、今は従順になった


マニラの総督府は、三月から六月迄、此所に移り上は総督より下は重なる
書記まで、此の仮の都に雪崩れ来て、官吏の数のみで約二千と称す

(少なくともアメリカ統治時代には、バギオがまさに夏の首都とされていたことが
 わかります. マンション・ハウスは今は観光施設となっていますが、
 総督や大統領の官邸とされていました)


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p424
・・・官吏の住宅も設けてある、而して毎年全島の教師の夏期講習会が
此地で開催さるるが、彼等は総て天幕生活である・・・・

(これは今 Teachers' Camp と呼ばれる地区のことだと思われます.
 今でも公務員や様々な人々の為の研修の会場となっています.
 この当時は フィリピン人教師はテント合宿だったのですね)

一月下旬で、最も良好の節、米人は暖炉を焚き、其の周囲に団座して、
談笑xxxxなりしが、熱帯に於いて、暖炉の辺の趣味に飽くなど、
羨ましき次第である.


(これは正に、一大避暑地での醍醐味とでも言うべきことでしょう.
 私も1992年頃、初めて出張でバギオに来た時には、キャンプ・ジョンヘイの中にある
 アメリカ式のコテッジで、暖炉に薪を焚いて皆で酒を酌み交わしたものです)

p425
政府は、マニラ鉄道会社をして、登山鉄道を敷設せしむる事となり、同会社は既に工事に着手したるが、新線路は、マニラ鉄道、現時の終点たる
サン・ファビアンよりアリンガイに出て、バギオに達するものにして
此の方面に、今も人道は存し、バンゲット道路に比すれば、行程却て短しと云ふ・・・

(この登山鉄道は、結局は出来なかったのですが、
 今のバギオ市からアシン温泉に下るアシン道路が予定されていた路線だと
 聞きました. 又、今のバギオとマニラを結ぶビクトリー・ライナーのターミナルの
 付近が この鉄道路線の終着点として敷地も用意されていたそうです)


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p427
比律賓に来りて、最も旅行家の耳目をxx動するは、其の土人教育の盛大なる
にあり、爪哇、印度支那に於いては、吾人は容易に学校を見ず、学童に接せず、
馬来半島でも・・・・比律賓に来りて、吾人は学校と学生の多きに、今更の如く感じたり・・・

(爪哇=インドネシア・ジャワ島、印度支那=インドシナ、馬来半島=マレー半島)
 

p428
十五歳より二十五歳まで位の女子の学校に、往来する事なるを聞き、
一驚三嘆せざるを得さりき・・・・


比律賓を自治国たらしめんと欲せば、自治国民たるの資格を比律賓人に
与へざる可からず、・・・・

(この当時の日本の教育制度がどのようなものだったかはわかりませんが、
 アメリカがフィリピンで実施していた教育のありように、驚きを隠せない記述と
 なっています.
 考えてみると、現在でも、女性大統領を出したフィリピンと、女性の社会進出が
 世界の中でも大幅に遅れている日本は、フィリピンから学ぶべきことも
 ありそうですね)


p429
右の如き政策を樹てて、占領早々より、米国より一千名の教師を招聘し、
学務部を置き、全島を三十七学区に分かち・・・

小学校は四学年にして四千四百校、中等学校は三学年にして百九十三校、
高等学校は四学年にして三十七校、・・・・・又 大学もありて、・・・・
此の外に宗派に依りて設立されたる数多の大学あり・・・・
サンタイサベル大学の如きは、1594年の創立にして・・
アテネオ大学の博物館は、熱帯の貝殻類を蒐集したるを以て、その名宇内に
輝けり・・

(100年前に 4-3-4制の教育があって、大学もあった・・・)

(1594年と言えば・・・・
 1594 秀吉が全国にわたり検地を行う(太閤検地) という時代なんですねえ)


その教師は、米人百十八人、比律賓人七千六百九十六人にして、・・・・
九割以上は比律賓の教師にして・・・・

(これらの米人教師が おそらくバギオの Teahers' Camp の宿舎に泊まり、
 テント合宿のフィリピン人教師たちをトレーニングしたんでしょうね)

(日本の教育制度の歴史については、こちらをご参照ください)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%88%B6%E5%BA%A6%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7
「師範学校令(1886年)、実業学校令(1899年)、中学校令(1899年)、専門学校令(1903年)、
小学校令改正(1907年)、高等学校令(1918年)、大学令(1918年)によって確立された学制
が以下のものである。戦前の教育課程は、概ね以下の4段階からなる。現在の学制とは異なり
複線型教育の特色がかなり強い。」

(ちなみに、現在の日本は 6-3-3-4制ですが、
 フィリピンでは 6-4-4制だったものが現在 6-6-4制に変更されつつあります)

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p434
比律賓政府の歳出は・・・・其の教育費は ・・・約四分一は教育費たり・・


p435
愛国心の盛なる、南洋随一にして、而して南洋人としては、気骨あり、
慷慨悲歌の情あり、且つ相当の思慮あり、技術あり
、何れの役所に於いても、
米人は少数にして、大多数は土人なれば、若し将来南洋に於いて、自治的
国家を建設し得るものありとすれば、第一は、正に比律賓なるべし.

(おおお~~、物凄い褒めようですね. 東南アジアをあちこち見聞して
 廻った新聞社の主筆たる著者が このように褒めちぎっているんですからね・・・・
 いつからフィリピンは政治不信の国になってしまったのでしょうか.
 アメリカ統治時代の話とは言え、同時は多くをフィリピンから学ばなくては
 ならない日本だったようです.
 もちろん、日本から多くの出稼ぎ者がフィリピンに渡っていた時代であった
 ことも記憶しておかなければなりません.)

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=====

この書籍の存在については、東南アジアでの調査研究をされている
中部大学の青木澄夫教授に教えていただきました.
貴重な資料をいただきましたことを、ここに感謝申し上げます.

尚、この書籍は 極一部で「古書」としての取り扱いがあるようです.

=====

上記は100年前に発行された本ですが、
その当時から戦前までのフィリピンと日本の関係の中でもっと客観的な視点から
バギオにも触れてある本も紹介していただきました. 

早瀬 晋三 著
「フィリピン近現代史のなかの日本人 植民地社会の形成と移民・商品」
東京大学出版会

JANLメンバーの個人サイトに記事がありますので、ご参照ください.

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-8c54.html




「世紀転換期における日本・フィリピン関係」
池端雪浦, 寺見元恵, 早頼晋三
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所

「第2章マニラの初期日本人社会とからゆきさん」 寺見元恵 著
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-be3f.html



金ケ江清太郎 著 
昭和43年4月10日発行 国政社
「歩いて来た道 -ヒリッピン物語」  から フィリピン・バギオの昔を垣間見る
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-d022.html


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by janlbaguio | 2013-11-09 15:28 | History バギオの歴史

Sumio Aoki Collection - Postcards of Baguio City

These Postcards are the Collection of
Professor Sumio Aoki
Department of International Relations
College of International Studies
CHUBU UNIVERSITY
Aichi prefecture, Japan

この絵葉書コレクションは
愛知県にある中部大学の国際関係学部で教鞭をとられている
青木澄夫教授の所有であり、同教授の御提供を受けて ここに掲載しております:

これらの絵葉書は、戦前のフィリピン・バギオ市の写真館で印刷あるいは販売をされて
いたもので、1900年代初期のバギオ市の様子を垣間見ることができます.

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1923年 ミス・ベンゲットの候補者
背景にあるのは ベンゲット道路(現在のケノン・ロード)

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バギオ・マーケット
現在のバギオ・シティー市場から セッション通り方面を望んでいるものと思われます.

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バギオ・マーケット
建物の向こう側にセッション通り、そして左上に バギオ大聖堂が見えます.

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ベンゲット道路 23キロ地点
この山岳道路は、1903年から1905年まで日本人労働者が導入され、難工事で多くの
犠牲者が出たことで有名です.
http://janl.exblog.jp/7076729


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ベンゲット道路は 現在はケノン・ロードと呼ばれていますが、
このとおりのジグザグ道路です.

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セント・ルイス・カレッジの建物
現在のSt. Louis University の当時の様子です.

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OBSERVATORY(展望台)と書いてあります.
現在は ローデス・グロットと呼ばれ、マリア像を参拝する場所として、観光スポットとなっています.
http://www.cityofpines.com/lourdesgrotto.html


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ワシントン・ホテル の 写真と絵葉書
セッション通りにあったホテル
現在のプライム・ホテルから少し上った右側に このホテルと青い屋根の映画館があったそうです.

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ガバメント・センター
バーンハム公園を挟んで、バギオ市役所の反対側、現在のコンベンション・センターや
フィリピン大学バギオ校辺りに 政府機関の建物があったようです.

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バギオ病院
現在のBaguio General Hospital (BGH) バギオ総合病院.
マルコス・ハイウエイ沿いの FIL-AM地区辺りから撮影したものだろうとのことです.

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バーンハム公園周辺
現在のフィリピン大学バギオ校あたりから、バギオ市役所方面を望む.
右の方が セッション通りの方角になります.

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絵葉書の裏側には、

ゴルフ・コース及びラグーン と書いてあります.
当時を知る日本人の方によれば、バーンハム公園で日本人学校の生徒たちは遊んだり、ゴルフをやったりしていたそうです.
この絵葉書の左奥に最初の日本人学校があって、現在の中華のファスト・フード・レストラン、チョーキンがある場所だったそうです.

又、 Commonwealth of the Philippines 独立準備政府のフィリピンと書いて
ありますので、1935年ー1941年ごろと考えられます.
1942年ー1945年は 日本軍による軍政となりました.

さらにハガキの裏側の左に縦書きで Japanese Bazar という名前がみえます.
セッション通り一番の百貨店と言われた 日本人経営の商店が販売していたことが分かります.
又、別の絵葉書の裏には、 PINEスタジオや MOUNTAINスタジオなどの名もあります.

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マンション・ハウス
当時の「夏の大統領官邸」です.
今は 観光施設となっていますが、時折 現在の大統領もここに来るようです.

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中部大学の 青木澄夫 教授

青木教授は、100年ほど前の1900年代初期における日本人が 東南アジアの各国で、どのように日本人コミュニティーを形成していたのかを 調査研究されています.
その研究対象の都市のひとつとして、バギオ市を選ばれたそうです.
http://www.chubu.ac.jp/news/detail-2293.html


注意:  ここに掲載されている画像の転載、無断使用は固くお断りいたします.
      必要な場合は直接 青木教授の承諾を得ていただくようお願いします.



又、同教授からご紹介いただいたフィリピン、バギオ関連の資料の一部を掲載したページもご覧ください:



梶原保人 著
「図南遊記」 1913年発行
http://janl.exblog.jp/18939480/

1935年ごろの資料
http://janl.exblog.jp/18946247/


早瀬 晋三 著
「フィリピン近現代史のなかの日本人 植民地社会の形成と移民・商品」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-8c54.html



寺見元恵 著
「第2章マニラの初期日本人社会とからゆきさん」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-be3f.html



戦前のバギオの様子については、
こちらのページにも 「歴史探訪シリーズ」として掲載しておりますので、ご参照ください.
http://janl.exblog.jp/13538369/




   




     



       


     



    
history of baguio city philippines photo postcard before world war II early 1900s
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by janlbaguio | 2013-11-07 22:43 | History バギオの歴史

1909-1941年のバギオの写真と絵葉書展 11月17日まで


VINTAGE BAGUIO
PICTURE-POSTCARDS 1909-1941
MARYKNOLL ECOLOGICAL SANCTUARY
CAMPO SIOCO, BAGUIO CITY

マルコス・ハイウエイからすこし入った MARYKNOLLエコロジカル・サンクチュアリで
「ビンテージ・バギオ」と題して、1909年から1941年までの 戦前のバギオの光景を
今に伝える 写真と絵葉書の展示会が開催されています.

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会場の名前は CAMPO SIOCO の メルノール と言えば分ります.

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会場の入り口にはこの案内があります.
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バギオの市制が始まってから戦前までの古いバギオの町の様子を見ることができます.


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この展示の中には、戦前のバギオ日本人学校で小学生として学んでいらした
バギオ・ボーイの写真家 古屋氏が保存されていた貴重な写真などもあります.

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また、こちらでは、バギオの歴史に関する書籍なども販売されています.
特に 日系人の歴史をつぶさに記録した ジャパニーズ・パイオニアの本は 必見です.

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この展示会は 2013年11月17日までとなっています.
お見逃しなく・・・・・




  



    



    



       

 
 
 
 
 
 
 
      
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by janlbaguio | 2013-11-07 22:29 | History バギオの歴史