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昭和15年(1940年)に発行された バギオ日本人学校同窓会の会誌 「松籟」創刊号



戦前にバギオにあったバギオ日本人学校は 1924年に創立されたとされていますが、
今回 バギオ日本人学校同窓会の古屋英之助氏より、同窓会の会誌(創刊号)
頂きましたのでご紹介します。

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会誌の名称は 「松籟」(しょうらい)となっており、
「会誌を「松籟」と命名した所以は、バギオ市が比島唯一の松の都として知られて
いる。 これに因んで松の象徴として選んだものであります。」とあります。

「松籟」の意味は、松林を吹き抜ける風の音ということだそうです。
    

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発行は 昭和15年(1940年)となっていますので、創立から16年後、
同窓会の昭和8年の発足からは7年後の創刊です。

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目次の最初のページ

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同窓会の会員である卒業生の作品が掲載されています。

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「バギオ日本人小学校」の校旗

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上の写真は、バギオ市の日本人墓地の横にある ベンゲット道(ケノン・ロード)建設で
犠牲になった日本人の慰霊碑。
下の写真は、バーンハム公園の傍らにあった最初のバギオ日本人学校の校舎。

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上の写真は、バギオ日本人学校の新校舎。 マグサイサイ通りのLUCBANに移転
下は、当時の職員。 前列真ん中が 村井校長。

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上は、新校舎の校門での集合写真。
下は、弁論大会での記念写真。

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同窓会会長 谷水氏の挨拶文。
「皇紀二千六百年・・・」で始まっています。

同窓会については、
「昭和八年十月、本会の創立をみまして・・・」
創立当時は会員も僅かに三十名に過ぎませんでしたが、本日では
百三十三名の会員をなすに至りました。」
とあります。

また、この創刊号が 皇紀二千六百年の奉祝記念事業であると書いてあります。

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上は、村井校長の祝辞ですが、昭和15年当時の戦時下の教育方針が表れています。
ただし、当時のバギオ日本人学校の小学生であった方によりますと、
学校の授業の中では、さほど軍国主義的なものはなく、この後 太平洋戦争が始まって
から変化が出てきたとのお話でした。

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以下に同窓生=卒業生の作品が掲載されています。


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上の詩は 卒業生であり同窓会の副会長であった 東地琢磨氏のものです。

内容を見ますと、「三十年前の犠牲・・・」とありますので、1905年に開通した
ベンゲット道(ケノン・ロード)の工事に携わって難工事の中で犠牲になった日本人移民
の人たちへの追悼の詩であろうと思われます。

これは昭和15年(1940年)の発行ですが、この後太平洋戦争となり
昭和21年(1946年)には琢磨氏は戦犯としてフィリピンで処刑されています。

何故そういうことになったのか。
それは東地琢磨氏が山下奉文大将の通訳であったからでした。
詳しくはこちらのサイトでお読みください。
http://tenhouinaki7.at.webry.info/200903/article_3.html

「もし大田大佐と東地通訳が第14方面軍司令部に勤務していたなら「他のお二方」という扱いではなかっただろう。きっと、面識がなかったから このようになったのだろうと思います。
東地琢磨通訳の遺書は、『世紀の遺書』(巣鴨遺書編纂会 1953)にも掲載されていないばかりか、この書物の最後に不幸にも戦争犯罪人として亡くなられた方の名簿一覧があるのですが、彼の名は「ヒ」行ではなく
「ト行」にあったということで、日本国内でも知られていなかったと思います。」

東地琢磨氏は、まだ23歳の若さで絞首台に上ったのでした。 彼は日本人の父と、フィリピン人の母の間に生まれた、現地の方でした。
『世紀の遺書』には東地通訳が和歌山県出身と書かれていますが、これは、彼の父親が和歌山出身で、大東亜戦争が始まると同時に日本に強制送還された ことによると思います。
一方で、東地琢磨氏は、日本軍の軍属として召集を受けます。」

・・・・ここに23歳で処刑されたとありますので、上の詩を作ったのは6年前の17歳の時であったということになります。

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こちらは、同じく 東地琢磨氏の 俳句と短歌です。
日系人として戦時下のフィリピンに生まれた17歳の心が滲み出た詩であるかと思われます。

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上の作品 「金の世の中」 と 「日曜日の朝」 は、この文集の中が戦時色に覆われて
いる中で 珍しく文学的あるいは日常描写的な作品になっています。

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上の 「少年時代を偲び」 には、いくつか興味深い当時の情報があります。

旧校舎(ブラハムパーク公園の近くにあった)に在学当時の懐かしい思い出を!!」

・・・最初に出来たバギオ日本人学校の校舎は、バーンハム公園のすぐ横、
オーキダリウム(蘭などの植木鉢を売っている公園)の斜め前あたりにありました。

「同じ教室で八年間一緒に学び、一緒に遊んだ。」
・・・日本人学校は 8年制度であったようです。

「入学当時は生徒の半分以上は跣足(はだし)で通学した。 学校の規律が
やかましくなって靴を履くようになってからも、跣足の習慣がなかなかぬけず、
学校の行き帰りには腰に靴をぶらさげて歩いたものだ。」

・・・ しかし一方で、映画などを親と一緒に観に行く時などは、正装で行った
という話も聞いています。

三年生の頃までは日本語よりも土人語の方に通じて居たもので、
先生の居ない所では土人語で盛んにペチャクチャ喋ったものだ。
然し年と共に日本語が自由に話せる様になってからは、妙なもので、
土人語を使うと級友の者から軽蔑されるので、誰も土人語で話をする者は
居なくなった。」

・・・ 3年間の学校生活で、日本語の方が優勢になったようです。
学校での遊びは、 かくれんぼ、鬼ごっこ、フットボール、ベースボール、剣劇
などが書かれています。

「六年生の頃マニラへ修学旅行に行った時と、高等二年の時サンフェルナンドの
海岸へ卒業旅行に行った・・・」

「学校を出ると皆それぞれの違った境遇に置かれて、マニラへ行く者、
日本に帰る者、又はバギオに残る者、・・・・」

・・・・小学校6年間と 高等2年間の 合計8年間を過ごしたようです。
これは、尋常小学校6年間と高等小学校2年間の教育制度の時代のようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8B%E5%B8%B8%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1


     
「僕は学校を出ると直ぐにハイスクールに入学した。 然し家庭の事情の為
中途で退学してアンタモック金山へ職業を求めに行った。 其の会社の
支配人はアメリカ人だったが、唯僕が日本人であるという理由一つで、
直ぐに採用してくれた。」

・・・・ バギオ市の周辺にはいくつかの鉱山がありますが、この当時には
アメリカ人経営の鉱山で多くの日本人が働いていたようです。

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バギオ近況と私の所感
ここにも、多くの情報があります。

「四年前我等の母校は、新装なる校舎に移転された。 先生は日本人の先生が
六名、英語の先生として比島人の先生が二名都合八名である。
旧校舎から見ると遥かに大きくて児童の収容力も三百名位は十分であるときく・・・」

・・・1940年の4年前ですから、1935年頃に新校舎に移転したということになります。

「在留同胞は約一千名と思う。 その中これを職業別にすれば
大工さんを筆頭に、百姓、商人、製材業者の順に人数の上から見れば大別せられる。
大工職の人もその腕前並に給料から見ると比島人を遥かに凌駕して多くの人は
一部の監督級に置かれ給料は普通比人の倍額を給与されているときく。・・・・」

「比島各地に於ける支那人の勢力は津々浦々まで根深く入りこんでいて、
遥かに日本人の勢力以上にあるということだが、僕等の住むバギオは日本人
としての優越観
を十分感ぜられる。」

・・・ これに関しては、当時の小学生であった方からも同様の話を聞きました。
セッション通りなどでも日本人経営のお店が多かったとのことでした。



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上の作品 「工夫の力」 は 寺岡石志人氏の作となっています。
この方は 元日本国名誉総領事であった カルロス寺岡氏の兄上です。
しかし、この 寺岡石志人氏も戦時中に悲運な最期と遂げられています。

その詳しい事情は、マニラ新聞の下のリンクで掲載されています。

移民1世紀 第1部・1世の残像
第9回 ・ 比で生きる日本人兄妹
http://manila-shimbun.com/award130089.html


「父宗雄さんは米国人相手の建築業で成功したが、開戦直前の四一年八月に同市で病死。兄二人は戦中憲兵隊と比人ゲリラにそれぞれ殺され、母と弟二人は砲撃で命を落とした。戦争を生き抜いたのは、十四歳の兄と十一歳の妹だけだった。 」

「寺岡理事長は振り返る。「大島町に帰り、父の送金で建てられた立派な家にも住みました。今の日本人は『比は貧しい国』と言うが、当時の日本はすごく貧しかった。バギオでは靴をはいていたのに日本ではわら草履でした。私は日本の教育を受けていましたから、入籍されていれば日本にとどまったと思う。無国籍はつらいので、五二年に比へ戻ってきたのです。二十一歳でした」。妹も三年後の五五年「兄がいなければ私は生きていなかった。たった一人の家族で、生き別れになった後は寂しくてたまらなかった」と後を追った。 」

寺岡理事長とは カルロス寺岡氏のことで、バギオにある日系人会 北ルソン比日基金の理事長もされています。(現在は、北ルソン日本人会の相談役でもあります。)

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バギオ日本人学校同窓会の役員および会員の名簿
役員の皆さんは卒業生ですので、この当時は17歳から20代前半かと思われます。

会員名簿には、卒業後 昭和15年時点での進路、学校や就職先などが記載されています。
進学先としては セントルイス・ハイスクール、 シティー・ハイスクール、ツリニダード・アグリーコーチュア・スクール(現在のベンゲット州国立大学の前身の農業学校)、ホーリー・ファミリー・カレッジ、サントトマス大学医学部、日本本土では、鹿児島高等商業学校、東京美術学校、福岡八女工業学校、山梨県立都留高等女学校、広島市山中女学校、熊本県八代成美高等女学校、山梨高等女学校、神戸市灘高等小学校、東京市調布高等女学校などの名前が見えます。

就職先には、大日本陸軍兵器廠本部、バギオ市セッションバザー、神戸市丸吉商会、マニラ市マヨン印刷商、バギオ本願寺、満州国奉天市楠原店、バギオ市パインズ・グロセリ 等の名前が記載されています。

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以上、戦前のバギオ日本人学校の文集の一部をご紹介しました。

もし、この文集を研究などの目的でご覧になりたい方がいらっしゃいましたら、
バギオ市にございます日系人団体 北ルソン比日基金(通称:ABONG)で大切に保管されていますので、直接同団体にお問い合わせください。

(尚、北ルソン日本人会のメンバーの方の場合は、代表が一部保管していますので、貸出可能です。)

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by janlbaguio | 2017-03-31 19:18 | History バギオの歴史

フィリピン・バギオ市の歴史とその周辺の日本人・日系人に関する論文、記事、小説など

Japanese community in the History of Baguio City, Philippines



バギオ市の歴史は、1901年に始まったケノン・ロード(当時のベンゲット道)
という山岳道路の建設に始まったと考えても良いでしょう。
1903年には日本人労働者が工事に参加し、その後の戦前・戦中・戦後の
日本人、日系人の歴史が刻まれています。

ここでは、バギオ市と日本人・日系人の歴史を踏まえ、インターネットで
検索できた論文やメディアの記事、推薦したい書籍などをリストアップ
してみます。

皆様のお役に立てば幸いです。



(1) Japanese Pioneers in the Nothern Philippine Highlands
http://nbdb.xeozone.net/national-book-award/japanese-pioneers-in-the-northern-philippine-highlands/

敢えて訳せば「北部フィリピン高地に於ける日本人開拓者たち」でしょうか。

1903年の日本人移民開始から2003年までの、日本人・日系人の
100年間の歴史を集大成した貴重な書籍です。
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(2) 大学などの研究者による論文


京都大学 小島勝
南方関与の多重性と教育の論理
- フィリピンとバギオ日本人学校の混血二世教育 -
1996-11-30
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/187643/1/ias_027_075.pdf



九州産業大学 森谷裕美子
フィリピン・北部ルソン社会における日系人のアイデンティティ
2014年
http://repository.kyusan-u.ac.jp/dspace/bitstream/11178/99/1/kokubun57-3.pdf



上智大学 飯島真里子
九州大学 大野俊 
フィリピン日系「帰還」移民の生活・市民権・アイデンティティ
2010年?
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/16966/p035.pdf
日本には現在、40万人前後の外国籍の日系人とその家族が暮らしているが、この中には近隣アジア諸
国から「帰還」した日系人もいる。その中でも近年、急増したフィリピン日系人(戦前期フィリピンへ
の日本人移民の子孫) について、筆者たちは2008年12月から2009年3月にかけて、彼らの生活・市民権・
アイデンティティなどを探る質問票配布による全国実態調査を実施した。


九州産業大学 森谷裕美子
フィリピン北部ルソンにおける日系人と「イゴロット」の関係性
2013年
http://repository.kyusan-u.ac.jp/dspace/bitstream/11178/73/1/kokubun55-6.pdf



帝京大学 佐々木靖
コルディリエラの日系人
2011年?
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/tandai32-02.pdf
筆者はかつてバギオで、本稿第1 章に登場するシスター海野からフィリピン日
系人の話を聞いたことがある。青年海外協力隊の隊員としてフィリピンに赴任し
ていた1986 年に、ルソン島北部を任地とする隊員たちにより開催された「北部
ルソン大会」に参加したときのことである。


東京財団研究報告書 河合弘之
フィリピン日系人の法的・社会的地位向上に向けた
政策のあり方に関する研究
2005ー6年
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2005/01028/pdf/0001.pdf
フィリピン日系人とは、19世紀末頃から太平洋戦争終結までの間に
フィリピンにわたった日本人移民の子で、戦争によって父あるいは
両親と離れ離れになり、現地に残された人びと、およびその子孫の総称である。



JFE21世紀財団
九州産業大学  森谷裕美子
フィリピンにおける北部ルソン日系人社会の歴史的経験に関する研究

Historical Experiences of Japanese Immigrants and Their Descendants in
Northern Luzon, Philippines
http://www.jfe-21st-cf.or.jp/furtherance/pdf_hokoku/2015/a14.pdf
これまでの日系移民研究のほとんどはアメリカやブラジル、ハワイに
関するものであり、戦前、フィリピン各地にいくつもの日本人の
コミュニティが形成され、その多くが現地の人々と結婚した
り、そこで豊かな生活を送っていたりした。しかし、こうした事実を
知る者はきわめて少ない。





(3) 新聞社などメディアによる記事


マニラ新聞 シリーズ・連載
移民1世紀 第一部・1世の残像
第一回・ 「優しい道」は祖父の道
2003.01.02
http://www.manila-shimbun.com/award/%B0%DC%CC%B1%A3%B1%C0%A4%B5%AA%A1%A1%C2%E8%A3%B1%C9%F4%A1%A6%A3%B1%C0%A4%A4%CE%BB%C4%C1%FC/award130000.html


日経アジア・ギャラリー
フィリピンの高原都市バギオ
日本人街の面影

[文・写真] 澤田公伸 [古写真] 古屋英之助氏提供
https://www.nikkei.asia/gallery/vol79/79_tokushu2.pdf


マニラ新聞 NAVIマニラ
バギオ物語 第2回
フィリピンのスカイランド 高原リゾート バギオ
戦前のバギオに生きた邦人写真師
古屋正之助氏 ~アギナルド将軍とも親交~

http://www.manila-shimbun.com/navi_manila/navi_pdf/vol3/navi0309.pdf


講談社 現代ビジネス
陛下の前で涙を流した彼らは何者か
~放置され続けたフィリピン「無国籍邦人」という問題

北島純
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47673
もともとフィリピンは日本人にとって、最大の移民先の一つであった。
1903年(明治36年)、当時フィリピンを植民地としていたアメリカに
よってルソン島北部にあるバギオが避暑地として開発されることになり、
そこに至る「ベンゲット道路」(ケノンロード)の開発に従事する
ために、2000人以上にものぼる日本人が労働者として移住したのが
その先駆けである。


ヒューライツ大阪
国際人権ひろば
50周年を迎えた「日比国交正常化」の内実を問うフィリピン日系人

大野 俊
http://www.hurights.or.jp/archives/newsletter/section2/2006/09/50.html
日本軍の圧制に苦しむフィリピン人にとっては「ジャパニーズ・
メスティーソ」(日本人の混血)も敵視の対象となった。戦後の
日系人迫害につながるフィリピン人の反日感情は、住民虐殺を含む
日本軍の占領中の行為に起因していることを確認しておきたい。




(4) 取材や体験に基づく小説・回顧録など


バギオ周辺の歴史を知る為の推薦図書です。
(古書の場合は絶版もあります)


バギオの虹―シスター海野とフィリピン日系人の一〇〇年
2003/2
鴨野 守 著
https://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%E3%83%90%E3%82%AE%E3%82%AA%E3%81%AE%E8%99%B9


思い出はマニラの海に 単行本 –
1993/8
郡司 忠勝 (著)
http://janl.exblog.jp/11457127/
https://www.amazon.co.jp/%E6%80%9D%E3%81%84%E5%87%BA%E3%81%AF%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%B5%B7%E3%81%AB-%E9%83%A1%E5%8F%B8-%E5%BF%A0%E5%8B%9D/dp/478260145X/ref=la_B001I7J140_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1489541242&sr=1-1



ルソン戦記―ベンゲット道〈上〉 (文春文庫) 文庫 –
1989/8/10
高木 俊朗 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3%E6%88%A6%E8%A8%98%E2%80%95%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%88%E9%81%93%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%AB%98%E6%9C%A8-%E4%BF%8A%E6%9C%97/dp/416715109X



イフガオの墓標〈続〉 (1980年) - – 古書,
1980/1
宍倉 公郎 (著)
http://library.main.jp/index/jst00025.htm
http://janl.exblog.jp/10620882/
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%AC%E3%82%AA%E3%81%AE%E5%A2%93%E6%A8%99-%E7%B6%9A-1980%E5%B9%B4-%E5%AE%8D%E5%80%89-%E5%85%AC%E9%83%8E/dp/B000J6MZDA/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1489541417&sr=1-1&keywords=%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%AC%E3%82%AA%E3%81%AE%E5%A2%93%E6%A8%99



図南遊記 単行本(ソフトカバー) – 古書,
1913/1/1
梶原保人 (著)
http://janl.exblog.jp/18939480/
https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%B3%E5%8D%97%E9%81%8A%E8%A8%98-%E6%A2%B6%E5%8E%9F%E4%BF%9D%E4%BA%BA/dp/B00G442QK8/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1489541791&sr=1-2&keywords=%E5%9B%B3%E5%8D%97%E9%81%8A%E8%A8%98



BAGUIO PRECIOUS MEMORIES
published by Leonides and Aurora Bautista
(published in 2012 ? )
http://janl.exblog.jp/17573251/
http://janl.exblog.jp/17888942/

 
A Century of Being Baguio
バギオ100年祭委員会 
http://janl.exblog.jp/9348137/


City of Pines
The Origins of Baguio
as a Colonial Hiss Station and Regional Capital

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(「松の都市 
  ― 植民地の高原避暑地及び地域の主要都市としてのバギオの起源」)
Robert R. Reed 著
http://janl.exblog.jp/6223626/



北ルソン日本人会のサイトの内「バギオの歴史」の索引はこちらです:
過去の記事の一覧
http://janl.exblog.jp/i10/8/


==ご注意==

この情報は 2017年3月15日現在のものですので、
リンク切れの場合はご容赦下さい。

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by janlbaguio | 2017-03-15 11:27 | History バギオの歴史

フィリピン・バギオで 久しぶりの 雛祭り「桃の節句」 子供会

Hina Matsuri, Dolls' Festival in Baguio city

北ルソン日本人会の子供会が、久し振りに「雛祭り」と「お料理教室」を実施しました。
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前回雛祭りをやったのは2013年。 4年ぶりに戻ってきました。
http://janl.exblog.jp/17432389/


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さて、上のリンクの2013年の子供たちと、今の子供たち。
随分皆さん大きくなりました。

今までの3年間雛祭りが出来なかったのは、夏休みに日本へ一時帰国する
子供たちが多かったことが大きな理由でしたが、フィリピンの教育制度の
改革で、夏休みの時期が後ろにずれたことが 今回の雛祭り実施につながりました。

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会場はJANLメンバーの方の日本料理店。
そこで、子供たちや親も含めての「お料理教室」も。

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子供たちは 「おはぎ」(あるいは「ぼた餅」)に挑戦。

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もち米を突いて、そして餡子で包みます。

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とても美味しそうに出来ました。

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親たちの興味は、こちらに集中。

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ロースト・ビーフの作り方。

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じっくり、こんがり、そして美味しく出来上がり、つまみ喰いが続きました。

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こちらでは、サンドイッチづくり。

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お魚のフライ・サンドイッチ。

どれもこれも美味しそうに出来上がり、会食。
皆さんで子供たちの成長に感謝し、雛祭りをお祝いしました。

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ちなみに、この雛飾りセットは、日本在住の方から、
「娘たちも結婚して家を出たので、ひな人形にも第二の人生を送らせたい」と、
縁あって、ご寄贈いただいたものです。
改めて御礼を申し上げます。

いただいた当初の「雛祭り」の様子はこちらでご覧下さい。
http://janl.exblog.jp/8044073/

2009年3月、フラワーフェスティバルの最中に実施していました。

皆様、ご協力いただき有難うございました。


   


   

   


   

    

   
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by janlbaguio | 2017-03-07 17:29 | Activity 活動内容