日本カルチャー・デー 2月10日(日)及び11日(月) 開催


JANL (北ルソン日本人会)主催の 
JAPANESE 
CULTURE DAY 
 
が SMバギオのイベント広場で開催されます。

2月10日(日) と 11日(月) には 是非 ご家族連れで ご参加下さい。
詳しい 日程と内容は 近日中に このサイトや 日比文化交流情報ネットワーク 「あじさい」 などでお知らせいたします。

バギオのミッドランド・コリア紙にて フラワー・フェスティバル関係のイベントの予定が 掲載され、 JANLのイベントも 下記のとおり紹介されています。

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このイベントには、 日本からの応援団 南国暮らしの会 の皆様も参加されます。

生け花ワークショップ、 折り紙ワークショップ、 きもの着付けワークショップ、 日本舞踊や盆踊り、 日系人100年写真展、 アニメ キャラクターの コスプレや着ぐるみ、そして 日本の歌などを紹介する映像と音響も楽しみです。

そして、なによりも、 このイベントが目指すところは、 地元 イゴロット文化との共演です。
イゴロットダンスと盆踊りの共演、 イゴロットの地元の織物で製作された「きもの」は 日本文化とフィリピン文化との交流の目玉です。  是非 ご参加下さい。

お待ちしております。
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# by janlbaguio | 2008-01-30 23:57 | Activity 活動内容

JANL Logo Contest  ロゴ・コンテスト 会員限定


JANL ロゴ コンテスト 開催中 !!
JANLメンバーの皆様、 JANLのロゴを決定するための、最終コンテストです。
下の応募作品の中から あなたが一番良いと思うデザインの作品に ご投票ください。

メンバーお一人につき 投票権は2票あります。
メールでの投票が出来ない方は 1月19日(土) 蕎麦打ち・試食会の席で ご投票をお願いします。 (担当は副代表の佐々木さんです。)

あなたの一票で JANLの将来が決まります・・・・!?

各デザインの上に書いてある 記号を ふたつ選んで 投票してください。

1A
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1B
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2A
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2B
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2C
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2D
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6A
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6B
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注意:
1Aー1B、 2Aー2D、6Aー6B は デザインが似ていますので、投票は 番号ごとに合計して 他の 3、4、5 の得票数と 比較することに致します。
1,2,6のいずれかの得票が多い場合は、 その中で A,B,C毎の得票数で最高得票のものを選ぶことにしたいと思います。 ご了解下さい。


皆様、 投票の締め切りは 1月19日です。

よろしく。
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# by janlbaguio | 2008-01-15 20:54 | Activity 活動内容

1月12日(土) 第三回総会 「イベント準備」の集まり !

 
2008年1月12日(土) JANLの第三回総会、 「初春総会」が 開かれました。
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今回の総会の議題は 満載でした:
ー 規約の改定で 「準会員」が追加されました。
  一定の条件の下に 国籍を問わず アソシエイト・メンバーを
  受け入れることになりました。
ー JANLの非営利団体としてのSEC登録が 近日中に申請されます。
ー 2007年の決算報告、監査報告
ー 2008年の予算案承認
ー 分科会からの報告
ー 2月10日・11日の「ジャパン・カルチャー・デー」の打ち合わせ
ー 2月23日・24日の「フラワー・フェスティバル」参加の検討
ー 2月25日から一週間の セッション・ロード テント村への出店検討
等など、
2月の盛りだくさんのイベント企画の打ち合わせが行われました。

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特に 「ジャパン・カルチャー・デー」 JAPAN CULTURE DAY の企画は 2月10日(日)・11日(月)の二日間に渡って SMバギオでの 日本文化紹介と現地イゴロット文化などとの コラボレーションを目指すイベントです。

JANLの発足後、初めての そして 最大のイベントに メンバーは燃えています。
日本から 踊り、生け花、独楽回しなど、日本の文化の香りをひっさげて 応援に来て頂く皆様にも ご参加・ご協力をいただき、 地元の方がたとの交流を深めたいと思っております。

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そして、上の写真は JANLの旗頭となる ロゴ・マークの コンテストです。
「これが いいねえ~」と 皆様に 投票いただきました。
追加の作品も含めて 近日中に 決定される予定です。

皆様、 ご参加いただき 有難う御座いました。
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# by janlbaguio | 2008-01-13 12:52 | Activity 活動内容

2008年 いらっしゃ~い!  一緒にやろうね!


2008年 
あけまして おめでとう ございます。

新春早々、JANLは頑張ってます。
「国語分科会」の活動に続き
「日本語分科会」のグループが 1月5日に初めて「日本語教室」を開きました。

国語分科会は 「既に日本語を話せる子供たち」の国語の勉強をサポートしますが、 この日本語分科会は「まだ日本語を話せない子供達」の為の 日本語入門教室です。

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はじめての教室、初めての日本語のお勉強・・・・
子供達 頑張ってます。
ちょっと 緊張してるかな? どこ見てんのかな?

「先生! よろしく お願いします。」
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# by janlbaguio | 2008-01-08 11:02 | Activity 活動内容

バギオの歴史を学ぶコーナー(5ページ目)

CITY OF PINES 「松の都市」
著者: Robert R. Reed


第三章  バギオの起源
      フィリピンの環境についてのアメリカの認識

(続きです。)



p75
ウォーセスター・ライト委員会と 二人の医療アドバイザーの 正式な推薦に従って、フィリピン行政長官達は 暫定的にバギオの開発を認可したのです。 それは、この開発に於いては、ほんの二つ目の正式な立法措置に過ぎませんでした。 ウォーセスター、ライト 及び 彼らの一行が北方からマニラに戻って一ヶ月も経たない 1900年9月12日に法律となった 法令第2号を通して、植民地政府当局は 提案された高原避暑地と低地とを最終的に結ぶように計画された鉄道網の調査のために 5千ドルを承認したのでした。

これは、しかし、アメリカ支配の最初の10年間に米比委員会によって立法化された バギオ関連のおびただしい法律の最初のものでした;  彼らは マニラにある植民地政府当局の目から見れば主要な山岳都市の無視できない重要性に対して まとまって意見を述べたということになります。
これらの法令によって、行政長官達は 不可欠な道路建設プロジェクトに数百万ドルを投入しました;  健康に良いとされる高地の気候であることを確認する為に測候所を建て; ベンゲット州とバギオ市の両方に 行政機関を組織し; 新しい高地の拠点のための 下水、給水、そして電力のシステムを認可し; ラ・トリニダッドに農業研究所を造り、町の境界内で 数百もの住宅および建物用の土地を公売に出し; 数多くの政府機関の建物や関連する基盤施設を建設し; 健康とリクリエーション増進のために軍用の特別保留地を確保し; バギオの総合的な都市設計を準備するために 著名なアメリカ人都市プランナーである Daniel H. Burnham を雇い入れました。
このようにして、二十世紀の初期に、フィリピンの行政長官達は 東南アジアにおけるもっとも優れた高原避暑地のひとつと言うだけではなく、北ルソンに於いて第一の都市となるべき都市の確固たる基礎を築いたのです。



第三章 <つづき>
ベンゲット道路: その葛藤と成功
p80
ウオーセスター・ライト委員会がマニラに戻って2週間も経たない内に、フィリピン行政長官達は ベンゲットに入る鉄道の建設を推進することを 彼らの中で非公式には 明らかに合意していたのです。  
彼らは -前述の法令第2号―の具体化を 9月の第二週まで実行に移していませんでしたが、面白いことには 少なくとも1900年8月28日頃には鉄道網の調査のための調整は始まっていたのです。
そして、その当日、Charles W. Mead大佐は Arthur MacArthur将軍から、当時のマニラに於ける都市エンジニアの任務を解除し、暫定的に彼を 米比委員会に任命するという命令を受けました。


p82
1900年12月14日に提出された調査隊に関する報告書の中で、ミード大佐は 最短距離で一番安い鉄道のルートは 正に Bued<ブエド>河沿いであると述べています。
<注: この最短ルートは 掲載された地図によれば、ラ・ウニオン州の アゴオとバウアンの間に位置するアリンガイの町から ほとんど真っ直ぐ東へバギオまで向うルートです。>

ミード大佐は、いくつかの短いトンネルが必要であるし、山の支脈に多くの深い切り込みを入れる必要もあると、かなり困難な建設作業の可能性を認めてはいたものの、これらの問題は簡単に乗り越えられるものと信じていました。
実際に、大佐は一年以内なら 鉄道路床のせいぜい3パーセント程度しか完成出来ないだろうと判断していました。 

労賃、建設資材、公道用地購入、鉄道レール、店舗、及び 所有車両の総コストを およそ2百6十万ドルと見積もった後に、ミードは 次のように提案したのです。
計画されている鉄道路線の全線に渡って 普通乗用車向けの仮の道路を建設することを通じて、高価ですぐに必要となる鉄道建設の費用を先送りできるのではないかと。 そしてその見積コストは ほんの7万5千ドルであると。
フィリピン行政長官たちは、植民地政府の他の分野においても重い財政的責任に直面していましたので、 そのような好都合な情報は 渡りに舟だったのです。

行政長官たちは、すぐにベンゲット鉄道延長の開発を数年間延期することを決定し、破格に安い自動車道路を代わりに選んだのです。

p83
建設作業は1901年1月中旬に ベンゲット道路の北と南の両端で急ピッチに開始されました。 総監督は ミード大佐でした。 同年の7月までに、その頃アメリカは雨季の間はすべての建設工事を停止する必要があると分かったのですが、たったの10マイル、つまり 当初計画されていた道路全線の三分の一以下しか完成できなかったのです。
それどころか、この10マイルというのは、ブエド河渓谷の入り口に到る低地の既存の小道を改良したに過ぎなかったのです。
その上、ミード大佐が 建設期間とコストの両方で膨大な過少見積りをしていたことが明白になってしまったのです。  その結果、大佐は以前のポストであったマニラでの都市エンジニアとして戻されてしまいました。

p84
1902年1月1日、ベンゲット道路の仕事は N.M.Holmes主任技師の指揮の下に再開されました。 ホルメスは ブエド河の砕け易い渓谷の壁に路盤をゆっくりと削っていくという報われない任務を引き継ぐことになったのです。
ほんの6ヶ月後に、ホルメスはプロジェクトの完成をあきらめてしまいました。
その後3年間に渡って道路建設プロジェクトを悩まし続ける深刻な問題が既に露呈していたのです。

p85
ホルメスと彼の直属スタッフ、そして およそ2千人の労働者たちの真剣な努力にもかかわらず、道路建設者たちが報告できたのは、1903年6月までに 通行可能な道路をやっと18マイル完成出来たというものでした。

p86
行政長官たちやそのアドバイザー達の第一の、そしておそらく最大の、判断ミスは、ミード大佐の最初のプランを真面目に審査せずに受け入れたこと、あるいは、フィリピンで経験を積んだ技術専門家による二次評価をしなかったことでしょう。
それと同時に、アメリカ人技術者 ―ミードとホルメス― が直接の道路建設の責任者であったため 彼らが工事を行った環境と文化的背景の中で、すべての現実を把握することに単に失敗したと言う事です。

技術的設計における明らかな大失敗に加えて、彼らは 長々と続く雨季の間のタイム・ロスを考慮することを無視し、アメリカ人の労働倫理が必ずしも他の人々には適用出来ないことを理解せず、たった一日の間に何十インチもの大雨をもたらす台風の 路盤や橋梁に及ぼす潜在的影響について判断ミスをしたのです。
そのような河の氾濫時には、渓谷道路の主要な区間は 大きな泥流に文字通りかき消され、 高価な鉄の橋梁も あっと言う間に上昇するブエド河の水流によって 瞬く間に構脚と橋げたがもつれあった固まりに変えられてしまうのです。  


p88
1903年夏、バギオとベンゲット道路開発に対する抗議の声がますます大きくなり、米比委員会は 高原避暑地開発計画をすべて投げ捨てるか、激しい論争をくぐり抜けて推し進めるかの二者択一を迫られることとなりました。


p89
膨らみ続けるコストと抗議の声にもかかわらず、フィリピン委員会は バギオの辺鄙なイゴロットの村は フィリピン群島で最高の山岳都市に必ずや変容し、ベンゲット道路によってマニラと結ばれるであろうと宣言したのです。
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# by janlbaguio | 2007-12-30 16:52 | History バギオの歴史