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これで あなたも バギオ通 !! アメリカとのつながり

これで あなたも バギオの物知り、 免許皆伝!?

バギオに住むこと 既に20年以上という JANLの副代表YSさんが あなたを一気にバギオ通にしてくれます。 元々 アメリカ軍の保養地、避暑地として造られた計画都市バギオ。 まずは、バギオとは切っても切れないアメリカとの関係からご紹介します。

バギオとアメリカの
つながり



1.キャンプ アレン

ヘンリー アレン(Henry Tureman Allen)はフィリピン レイテ州の最初の知事であり、フィリピン国家警察を組織、指揮した人物。 1904年、日本軍のオブサーバーとして日露戦争中の韓国に行った経験を持つ。 
バギオの裁判所の正面、消防署の隣にあるフィリピン国軍所有地の名前はCamp Henry
Allenという。 現在の場所に移る前はここにフィリピン国軍士官学校/フィリピンミリタリーアカデミー(PMA)があった。 

現在のキャンプ アレンは軍人の住宅地?となっている、ナギリアン通りに面している石垣は雨季のたびに壊れ、修理するのが年中行事だったが1990年の大地震の前後にナギリアン通りを広げる工事と同時に本腰をいれ修理され、現在のかたちになった。

狭かったナギリアン通りの名残は道路に残る電柱をきった後で知る事ができる。見つけられた人 いるかな?

2. バーンハム公園

ダニエル バーンハム(Daniel Hudson Burnham)。  バギオではおなじみのバーンハム公園の名前の由来になった人物。 シカゴの超有名設計士 及び都市計画者。ロハス通りを含むマニラの設計、バギオの設計をした。ワシントンDCのユニオン駅、シカゴ市の都市を設計したのも有名。ちなみにバギオは3万人都市として設計されたので、現在の30万人以上の人口はちょっと窮屈。 当時は市役所、公園をはさんで国の役場(現在のSMの正面側辺り)、そこから東がアメリカ人、お金持ちの住宅、その他を一般庶民の住居と住み分けされていた。 知られていないが、清水建設3代目は当時日本になかった鉄骨建築の図面をバーンハムから譲りうけた人物として記録が残っており、日本の高層建築の歴史とも深いかかわりがある。日本橋丸善本店ビルはその設計図を参考に建てられ日本初の帳壁式鉄骨煉瓦造の建物で関東大震災にも耐えた。


3. ハリソン通り

バーンハム公園の横を通っている大通りの名前 フランシス ハリソン(Francis
Burton Harrison)は ハリソン通りの名前の由来になった人物。 アメリカでの下院議員の経験を経て、1913年から21年までフィリピン総督府の総督となる。 レオナルド ウッド氏の前任者。 コモンウェルスのフィリピン人大統領になってから大統領アドバイサーとして呼び戻され以後4代大統領までフィリピンの為に働く。 ちなみに離婚再婚を繰り返し6番目の最後の奥さんはフィリピンの女性 マリア テレサさん、ニュージャーシーで亡くなった後フィリピン マニラに埋葬された。

ハリソン通りにはバギオ パークホテルという4スターホテルがあり、マカティーのインターコンチへの直行便が出ていたこともあり観光客でにぎわっていたが、1990年の地震で崩れてしまった。 また現在のBPI銀行の辺りはダンワバスの停留所がありボントック方面に行く乗客でにぎわっていたそうだ。

4. キャンプ・ジョン・ヘイ

ジョン ヘイ(John Milton Hay) はアメリカの政治家、外交官、作家、ジャーナリストとして活躍。 アブラハム リンカーンの私設秘書を務めた人物。 後に12代目国務長官に任命され1898年から1905年までマッキンリー大統領、ルーズベルト大統領にも仕えた人物。 この名前がつけられたのは基地創設当時の国務長官だったからです。

以前のゲートは現在のパナグベガ パークのところ。 身分証明書があれば誰でも自由に入場することが出来、マノーホテルがある場所はクラブハウスと呼ばれ、両サイドは軍人の宿舎があり 真ん中にバギオで一番美味しいステーキ屋があった。 またその近く(山側)にはハネムーンコテージと言うのがあり、文字通りハネムーンの軍人たちが宿泊した場所があった。

ジョンヘイのなかには19th Teeと言うレストラン、ゴルファーがプレイを終わらせた後一服するところがあり、そこのハンバーガーはまさにアメリカンサイズ、支払いはペソも使えたが基本的にはドルだった。コーラの自動販売機があり中の軍人にペソを50センツに変えてもらいわざわざ自動販売機でコーラを買っていたのは私(著者)です(汗)。


5. ピープルズ パーク ・ マルコム スクエアー

ジョージ マルコム(George A. Malcolm) は1917年、35歳でアメリカ ウィルソン大統領によりフィリピン最高裁判所裁判官に任命された人物。 彼の最大の功績はフィリピン国立大学・法学部の設立、法学部の建物はマルコム ホールと呼ばれる。

現在はピープルズ パークと呼ばれているが 以前はマルコム スクエアーと呼ばれていて、靴磨き、新聞売りとチェスに夢中になっているおじさんたちが共存していた場所であった。 BPIファミリーバンクの隣りに映画館があり、カンフー映画を見るならここ と言う場所だった。


6. レオナルド ウッド通り

レオナルド ウッド(Leonard Wood) は軍人で1903年から1906年までの間、イスラム教の反政府勢力を制圧するのが目的でフィリピン南部のミンダナオ島モロ地区の知事となる。 アッパーセッションからマインズ ビュー パークに行く道の名前。

途中のボタニカルガーデンの奥には日本軍が掘ったとされる洞穴があるので、勇気がある人は懐中電灯を忘れずに。

ちなみにサファリロッジの隣にある家がアロヨ大統領の別荘です。


7. ライト パーク

ルーク ライト(Luke E. Wright) は1904年から1906年までのフィリピン総督。 当時アメリカで一番有名だった設計士バーンハムに フィリピン・バギオを「アメリカ軍人と民間人のレクリエーション施設」というコンセプトを基に都市設計を指示した人物。

フィリピンから日本へ移動1906年から1907年までは駐日大使であった。その後1908年から1909年のアメリカ合衆国陸軍長官(後の国防長官)となる。 なんかバギオってアメリカの偉い人が結構関係してますよね。


8. ガバノール パック通り

ガバノールとは知事のこと、だから日本語だとパック知事通りとなる。この名前はウィリアム パック(William Pack)からつけられた。 彼は1901年ベンゲットの知事として任命され、またマウンテン州の初代知事としても知られる。 この道にはバギオをサマーキャピタル(夏の首都)とした会議(セッション) が行われた場所の跡地がある。
またその会議へ行く途中に使用した道が「会議への道」という意味の「セッション ロード」 です。

ちなみにマウンテン州はフィリピンで唯一の英語名のついた州の名前 って知ってました?


9. メルビン ジョーンズ

メルビン ジョーンズ(Melvin Johns) は子供たちがサッカーをやったり、バギオ市の色々なイベントを行うスタンド付グランド。 実はこの名前は1917年に設立されたライオンズクラブの創立者から取った名前です、シカゴの実業家であったメルビン・ジョーンズの夢は狭い地域に限られたビジネスクラブの活動範囲を、単に事業に関する問題から地域社会や世界全体の福祉の問題にまで拡大するということだった。

このグラウンド、バギオのサッカー少年少女たちの練習場であると共に、バギオでのイベントでは必ず使用されるグラウンドですね。 以前は競馬場もあったことが記録に残っているがはたしてそれはメルビン ジョーンズなのか バーンハムの池の周りなのか? 

ちなみに 日本のライオンズクラブは1952年 フィリピン・マニラのクラブがスポンサーになってあげて認証されたんですよ。先進国フィリピン(遠い昔の話・涙)


10. ブレント通り

インターナショナルスクールであるブレントスクールに行く道は、チャールズ ヘンリー ブレント(Charles Henry Brent)主教からの名前。 ブレント主教は1900年にフィリピンに来 てフィリピン聖公会(Episcopal Church of the Philippines)の初代主教になった人物である。 イギリス国教会としても知られる教会でブレント主教はフィリピンで白人のためのブレントスクール、少数民族のためのイースタースクール(バギオ)を設立し、マニラではセイント ルクス病院(聖路加病院)などを設立した人物。

ちなみにブレントスクール敷地内は電柱がなくすべて地中に埋まっているんですよ、バギオ初 ?

アバナオ通りから移動してきた50’S DINNERは名前の通り50年代のアメリカン イメージ。 ウェイトレスはローラースケートを履き接客する。 古いものが好きな人は近くにある骨董屋さんがお勧め、地下に降りると宝物が見つかるかも・・・。


11. バデン ポウェル イン (Baden Powell Inn)

ロバート バデン ポウェル(Robert Baden-Powell)と言う人物から来た名前ですがご存知ですか?  SMのすぐ下、バスターミナルが続く道、ダグパン バス ターミナルのすぐ近くにあるのがBaden Powell Innです。

名前になじみがないかもしれませんが、彼はボーイスカウトの生みの親でタイトルとはちょっと異なり(汗)ますがイギリス人。 バギオで唯一のイギリス人の名前がつけられた場所かも知れませんね。 上記のバギオをサマーキャピタルとする会議が行われた場所は、この宿にあり、記念碑みたいなのがあります。

バギオでもボーイスカウトは盛んで、よくジョンヘイにキャンプをしに行きました。 皆本格的で インスタント食品は一切使わず、キャンプを張っていきなり地元式ハムつくり(豚肉を保存する)をはじめたのを覚えています。


12. ニードラー通り Kneedler Road.

ニードラー医師は軍医として1900年ごろフィリピンに来た後フィリピンに住みつき、次々と不動産を購入、不動産で富を築いた人物。 1932年ごろはマニラ ベイビュー ホテルのマネージャーをしていた。  バギオ ジョンヘイの近くにあるその道の名がなぜ彼の名前に基づいて命名されたかは不明だが、バギオに住む人にとってもニードラー通りはなじみがないはず。この道はサウスドライブ(ジョンヘイからパクダルに抜ける道)に入り口がある道で、お金持ちの別荘なんかがあるらしい。

13. バギオ・ロアカン空港

1932年3月11日 ロアカン空港に最初の飛行機が着陸した。 このフライトの乗客はアメリカ人のハルセマ バギオ市長。 実はこの空港が出来る前1919年クリスマスの日にアメリカ空軍兵が飛行場ではないバーンハムに着陸している。 同じ日にトリニダッドにも違うパイロットが着陸を試みたが失敗してしまった。 この事故からちゃんとした飛行場建設が必要となり、当初トリニダッドかポロ フィールド(ネイビー ベース)への建設が浮上したが 霧、人口密度の条件により却下された。 バギオからちょっと遠いが天候がよく乾きが速いラウニオン州ロザリオ、もしくはナギリアンへの計画もあったが、結局 当時田んぼだったロアカンを住んでいたイバロイ族から(無理やり)購入し1932年に開港 3月11日に初着陸、これが「アジア初」 民間航空会社(フィリピン エア ライン)によるマニラ-バギオ間のフライトとなった。


バギオの地図へ =>  リンク 1 
                リンク 2 
               リンク 3


(投稿: JANL副代表 YSさん)
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by janlbaguio | 2008-07-12 15:28 | 会員 エッセイ・コーナー

2008年 いらっしゃ~い!  一緒にやろうね!


2008年 
あけまして おめでとう ございます。

新春早々、JANLは頑張ってます。
「国語分科会」の活動に続き
「日本語分科会」のグループが 1月5日に初めて「日本語教室」を開きました。

国語分科会は 「既に日本語を話せる子供たち」の国語の勉強をサポートしますが、 この日本語分科会は「まだ日本語を話せない子供達」の為の 日本語入門教室です。

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はじめての教室、初めての日本語のお勉強・・・・
子供達 頑張ってます。
ちょっと 緊張してるかな? どこ見てんのかな?

「先生! よろしく お願いします。」
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by janlbaguio | 2008-01-08 11:02 | Activity 活動内容

バギオの歴史を学ぶコーナー(5ページ目)

CITY OF PINES 「松の都市」
著者: Robert R. Reed


第三章  バギオの起源
      フィリピンの環境についてのアメリカの認識

(続きです。)



p75
ウォーセスター・ライト委員会と 二人の医療アドバイザーの 正式な推薦に従って、フィリピン行政長官達は 暫定的にバギオの開発を認可したのです。 それは、この開発に於いては、ほんの二つ目の正式な立法措置に過ぎませんでした。 ウォーセスター、ライト 及び 彼らの一行が北方からマニラに戻って一ヶ月も経たない 1900年9月12日に法律となった 法令第2号を通して、植民地政府当局は 提案された高原避暑地と低地とを最終的に結ぶように計画された鉄道網の調査のために 5千ドルを承認したのでした。

これは、しかし、アメリカ支配の最初の10年間に米比委員会によって立法化された バギオ関連のおびただしい法律の最初のものでした;  彼らは マニラにある植民地政府当局の目から見れば主要な山岳都市の無視できない重要性に対して まとまって意見を述べたということになります。
これらの法令によって、行政長官達は 不可欠な道路建設プロジェクトに数百万ドルを投入しました;  健康に良いとされる高地の気候であることを確認する為に測候所を建て; ベンゲット州とバギオ市の両方に 行政機関を組織し; 新しい高地の拠点のための 下水、給水、そして電力のシステムを認可し; ラ・トリニダッドに農業研究所を造り、町の境界内で 数百もの住宅および建物用の土地を公売に出し; 数多くの政府機関の建物や関連する基盤施設を建設し; 健康とリクリエーション増進のために軍用の特別保留地を確保し; バギオの総合的な都市設計を準備するために 著名なアメリカ人都市プランナーである Daniel H. Burnham を雇い入れました。
このようにして、二十世紀の初期に、フィリピンの行政長官達は 東南アジアにおけるもっとも優れた高原避暑地のひとつと言うだけではなく、北ルソンに於いて第一の都市となるべき都市の確固たる基礎を築いたのです。



第三章 <つづき>
ベンゲット道路: その葛藤と成功
p80
ウオーセスター・ライト委員会がマニラに戻って2週間も経たない内に、フィリピン行政長官達は ベンゲットに入る鉄道の建設を推進することを 彼らの中で非公式には 明らかに合意していたのです。  
彼らは -前述の法令第2号―の具体化を 9月の第二週まで実行に移していませんでしたが、面白いことには 少なくとも1900年8月28日頃には鉄道網の調査のための調整は始まっていたのです。
そして、その当日、Charles W. Mead大佐は Arthur MacArthur将軍から、当時のマニラに於ける都市エンジニアの任務を解除し、暫定的に彼を 米比委員会に任命するという命令を受けました。


p82
1900年12月14日に提出された調査隊に関する報告書の中で、ミード大佐は 最短距離で一番安い鉄道のルートは 正に Bued<ブエド>河沿いであると述べています。
<注: この最短ルートは 掲載された地図によれば、ラ・ウニオン州の アゴオとバウアンの間に位置するアリンガイの町から ほとんど真っ直ぐ東へバギオまで向うルートです。>

ミード大佐は、いくつかの短いトンネルが必要であるし、山の支脈に多くの深い切り込みを入れる必要もあると、かなり困難な建設作業の可能性を認めてはいたものの、これらの問題は簡単に乗り越えられるものと信じていました。
実際に、大佐は一年以内なら 鉄道路床のせいぜい3パーセント程度しか完成出来ないだろうと判断していました。 

労賃、建設資材、公道用地購入、鉄道レール、店舗、及び 所有車両の総コストを およそ2百6十万ドルと見積もった後に、ミードは 次のように提案したのです。
計画されている鉄道路線の全線に渡って 普通乗用車向けの仮の道路を建設することを通じて、高価ですぐに必要となる鉄道建設の費用を先送りできるのではないかと。 そしてその見積コストは ほんの7万5千ドルであると。
フィリピン行政長官たちは、植民地政府の他の分野においても重い財政的責任に直面していましたので、 そのような好都合な情報は 渡りに舟だったのです。

行政長官たちは、すぐにベンゲット鉄道延長の開発を数年間延期することを決定し、破格に安い自動車道路を代わりに選んだのです。

p83
建設作業は1901年1月中旬に ベンゲット道路の北と南の両端で急ピッチに開始されました。 総監督は ミード大佐でした。 同年の7月までに、その頃アメリカは雨季の間はすべての建設工事を停止する必要があると分かったのですが、たったの10マイル、つまり 当初計画されていた道路全線の三分の一以下しか完成できなかったのです。
それどころか、この10マイルというのは、ブエド河渓谷の入り口に到る低地の既存の小道を改良したに過ぎなかったのです。
その上、ミード大佐が 建設期間とコストの両方で膨大な過少見積りをしていたことが明白になってしまったのです。  その結果、大佐は以前のポストであったマニラでの都市エンジニアとして戻されてしまいました。

p84
1902年1月1日、ベンゲット道路の仕事は N.M.Holmes主任技師の指揮の下に再開されました。 ホルメスは ブエド河の砕け易い渓谷の壁に路盤をゆっくりと削っていくという報われない任務を引き継ぐことになったのです。
ほんの6ヶ月後に、ホルメスはプロジェクトの完成をあきらめてしまいました。
その後3年間に渡って道路建設プロジェクトを悩まし続ける深刻な問題が既に露呈していたのです。

p85
ホルメスと彼の直属スタッフ、そして およそ2千人の労働者たちの真剣な努力にもかかわらず、道路建設者たちが報告できたのは、1903年6月までに 通行可能な道路をやっと18マイル完成出来たというものでした。

p86
行政長官たちやそのアドバイザー達の第一の、そしておそらく最大の、判断ミスは、ミード大佐の最初のプランを真面目に審査せずに受け入れたこと、あるいは、フィリピンで経験を積んだ技術専門家による二次評価をしなかったことでしょう。
それと同時に、アメリカ人技術者 ―ミードとホルメス― が直接の道路建設の責任者であったため 彼らが工事を行った環境と文化的背景の中で、すべての現実を把握することに単に失敗したと言う事です。

技術的設計における明らかな大失敗に加えて、彼らは 長々と続く雨季の間のタイム・ロスを考慮することを無視し、アメリカ人の労働倫理が必ずしも他の人々には適用出来ないことを理解せず、たった一日の間に何十インチもの大雨をもたらす台風の 路盤や橋梁に及ぼす潜在的影響について判断ミスをしたのです。
そのような河の氾濫時には、渓谷道路の主要な区間は 大きな泥流に文字通りかき消され、 高価な鉄の橋梁も あっと言う間に上昇するブエド河の水流によって 瞬く間に構脚と橋げたがもつれあった固まりに変えられてしまうのです。  


p88
1903年夏、バギオとベンゲット道路開発に対する抗議の声がますます大きくなり、米比委員会は 高原避暑地開発計画をすべて投げ捨てるか、激しい論争をくぐり抜けて推し進めるかの二者択一を迫られることとなりました。


p89
膨らみ続けるコストと抗議の声にもかかわらず、フィリピン委員会は バギオの辺鄙なイゴロットの村は フィリピン群島で最高の山岳都市に必ずや変容し、ベンゲット道路によってマニラと結ばれるであろうと宣言したのです。
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by janlbaguio | 2007-12-30 16:52 | History バギオの歴史

バギオの歴史を観る写真展 と バギオ・カレンダー2008


Baguio Then/Now
「バギオ 当時そして今」
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Photo Exhibition at SM Baguio   SMバギオで写真展
Open 4p.m. Dec.20 12月20日(木)4時開場

This exhibition was informed by Rudy Furuya (Einosuke Furuya), Japanese photographer who is participating the event.
この写真展の情報は イベントに参加される日本人写真家 ルディー古屋(古屋英之助)さんよりいただきました。 古屋さんはJANLのメンバーでもあります。

The below is the information extracted from Baguio Midland Courier issued on Sunday, December 16, 2007.
下記の情報は、2007年12月16日付の バギオ・ミッドランド・コリア紙からの抜書きです。

Quote:

These photographs form part of the exhibition Baguio Then/Now that opens on Dec.20, 2007 at 4p.m., Parkview Terrace, SM City Baguio. The first of a series of exhibitions produced by the BaguioBenguetStudies and hosted by SM, this show features images of Baguio in the early 1900s and of 2007 re-photography by 12 Baguio photographers. The show will move to the Gallery, Lower Basement on Dec. 22 and will run till Jan. 30, 2008. – E.R. Alcantara

Featured in the exhibition are early Baguio photographs from the Baguio Benguet Studies Digital Archive culled from various archival sources and private collections.

The 2007 re-photography is by Robbie Casas, Elicon Consul, Caesar Paul Garcia, JT Gonzales, Rudy Furuya, Tommy Hafalla, Ric Maniquis, Julius Mendoza, Mark Perez, Rudi Tabora, Ompong Tan, and Boy Yniguez. Exhibit curator is Erlyn Ruth Alcantara.

A set of images in the exhibition appears in a Baguio 2008 Calendar that will be launched at Cordillera Coffee, patio , upper ground floor, SM City Baguio at 5p.m. also on Dec.20.

Unquote


この写真展は、バギオ・ベンゲット・スタディーズという団体によるもので、1900年代初期の当時のバギオの古い写真と 2007年に12名のバギオの写真家によって撮影された同じアングルの写真を公開するものです。
12名の写真家の中に 日本人写真家の RUDY FURUYA(古屋英之助)さんがいらっしゃいます。
2008年のバギオ・カレンダーに これらの写真が使用されるとのことです。


写真展の日時・場所

12月20日(木)午後4時―12月21日(金)
    SMバギオ パークビュー・テラス
    (正面入り口から入ってバーンハム公園側テラス)

12月20日(木)午後5時
    SMバギオのパティオ(正面一階外側左奥)にある CORDILLERA COFFEE
    にて これらの写真を掲載した「2008年バギオ・カレンダー」の紹介。

12月22日―1月30日 
    SMバギオ ローワー・ベースメント
    (駐車場の出入り口・地下2階)

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このカレンダーが買えると嬉しいですね。
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by janlbaguio | 2007-12-19 13:13 | AJISAI 文化交流 network

「バギオ サヨテタップス物語 2」   加藤 卓 著

 前回のモンテンルパ訪問から半年が過ぎました。妹は再び遠く、兄のいるモンテンルパへ行かねばならなくなりました。兄に恩赦の話しが持ち上がったからです。フィリピンでは恩赦によって釈放される受刑者も多いと聞きます。ただし、手続き等で、うやむやになってしまう可能性もあるとか、そうならないよう頑張ってやらなければなりません。

 兄がわけのわからない罪で捕まった時、母と妹は兄を助けようとしました。フィリピンにも当然、弁護士制度はあります。弁護士に助けを求めました。でも担当の弁護士に払うお金がありませんでした。母は弁護士の家で、家政婦として働くことでお金の代わりとしました。妹は弁護士の庭を掃除することで兄を助けようとしました。しかし、結果は無期懲役刑でした。

 しばらくして母が亡くなりました。母はどのような気持ちで旅立ったのでしょうか。幼い妹と、刑に服す兄を残して。

 妹が再びモンテンルパ刑務所を訪問すると聞いて、受刑者仲間の、あの死刑囚の母から連絡が入りました。今度は、是非、私も一緒に連れていってくれという話しでした。その為には家財を売ってもお金を作るとのことでした。妹には嫌も応もありません。女二人で旅をすることになりました。今回のおみやげもやっぱり野菜です。サヨテやサヨテタップス、それにニンジンなど2袋たっぷりあります。

 バギオ発深夜バスは、二人の思いを乗せて出発しました。

 長旅の末、刑務所に着きました。手続きの後、二人は所内に入りました。無期懲役の兄が待っていました。妹は兄にかけより抱き合いました。そして死刑囚の息子も待っていました。母が近づきました。二人は言葉になりませんでした。そのまま抱き合いました。周りにいた囚人たちも、二人の境遇が分かったのでしょう、黙っています。
 二人はいつまでも抱き合っていました。


 
 
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by janlbaguio | 2007-12-05 22:57 | 会員 エッセイ・コーナー

ブレント・スクールの クリスマス バザール 2007


Brent International School Baguio

Christmas Bazaar

バギオのブレント・インターナショナル・スクールで クリスマス バザール が開かれます。
日頃 なかなか キャンパスを見ることが出来ない 本格的インターナショナル・スクールを 見に行きませんか?

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日時は:
11月24日(土曜日) と 11月25日(日曜日)、 9AMから 5PM です。
12月ではなく、 11月ですよ。
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by janlbaguio | 2007-11-18 17:45 | Neighbers ご近所情報

JANLファミリーの ご近所情報のコーナー


この「ご近所情報」コーナーでは、 JANL自身の活動ではありませんが、なんらかの形で、メンバーの家族や 関連・友好団体などに関わって、 JANLのメンバーやその家族が活躍している情報を お届けします。

メンバーの皆様からの 情報の提供をお待ちしております。

お子様の学校での様子や、関係するグループなどでの活動など、写真にコメントをつけて お寄せいただければ 嬉しく思います。


ML管理人
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by janlbaguio | 2007-10-28 16:36 | Neighbers ご近所情報

「バギオ アイ・シャル・リターン物語」    加藤 卓 著



 第2次世界大戦の最中、時のアメリカ軍太平洋方面軍最高司令官マッカーサー将軍が、日本軍の猛攻に耐えかね、フィリピンを脱出したときに発したとされる「アイ・シャル・リターン(私は戻る)」は、日本の教科書にも載っている言葉として有名です。フィリピンでも小学校で勉強します。

 フィリピン人の教育程度は非常に高く、アメリカの庇護下にあったからか、ほとんどの人が英語を話します。
ただ、どこの国でもいますが、子供に普通の教育を受けさせない親もいます。農場で働かせたり、奉公に出したりで、金を稼がせています。そんな子たちが大きくなると、就職の難しいこの国では生活するのもたいへんです。

どこの世界にも夜が来るように、バギオにも夜が来ます。インターネットカフェ、カラオケ、そしてクラブと呼ばれる飲み屋が繁盛しています。
クラブに入ると、若い女の子達が迎えてくれます。みんな、それなりの衣装をまとった女性たちです。一つのクラブには十数人いるでしょうか。踊りをおどる女性もいれば、ただ座っている女性もいます。

お客さんは店に入ると適当な席に座ります。ママさんと呼ばれるちょっと太った女性が女性を連れてきますが、別に「いらない」と言って踊りを見ながら、一人で飲んでいても良いです。料金システムは店によって違いますが、お客が飲むビール1本は約50ペソ(市販価格約40ペソ)ですが、どの店でも、同席した店の女性のビールは1本・約300ペソ以上も取ります。これが店と彼女たちの儲けになります。フィリピンの公定日給は220ペソ程ですから、かなりなものです。ビールの銘柄はサンミゲル・ビアがほとんどです。
この300ペソの内、200が店に、100が彼女たちの取り分になるそうです。そういうことですから、お店にしても彼女たちにしても、となりに座らなければ仕事になりません。

ある日、外国人がクラブにやって来ました。アメリカ人でしょう。席に着くと周りを見渡し、ママさんに遠くに座っている若い女の子を指名しました。
「ほれ、ご指名が来たよ、いきなよ」ママさんは当然、彼女を引っ張っていこうとします。「え~、あたし、英語わかんないよ~」彼女は外国人を見て、困った顔で言いました。
「いいんだよ、相手は酔っぱらっているんだから、適当に相手してりゃあ~」
「え~でも~」
「いいから、とっとと横にお座りな」
もうこうなると力ずくです。仕方なく、彼女は席に着きました。彼女にしても外人の相手は初めてです。すごい緊張感を感じていました。しかし外人はそんなこと気にもとめません。取りあえず、話の接ぎ穂で、名前を聞きました。
「ホワットイズユアネイム?」
彼女の眉毛がハの字になってしまいました。なに言ってんだろ。でもなんか言わなきゃ、と言うことで、答えました。
「サンミゲル・ライト!」
そりゃ~ビールの銘柄だろう、、、。
近くで聞いていた英語の分かる同僚の女性たちが、一斉に吹き出しました。

 そんな彼女たちにも天敵がいます。
 保健所の役人です。突然、やって来ます。店の営業許可や、彼女たちのライセンスを調べます。彼女たちはシティホールと保健所で「エンターティナメント」としてのライセンスを取得していなければなりません。保健所では血液検査やHIV等の検査を定期的に受けなければなりません。許可された人だけが俗に「ピンクカード」と呼ばれ、飲み屋などで働ける「エンターティナメント」の許可証を所持出来ます。ただし、ほとんどの女性が、持っていません。

 保健所の役人が突然やって来ました。「はい、みなさん、お静かに、許可証を見せて下さい」みんな、あちゃ~と顔を見合わせ、ため息をつきました。このお店で持っていたのは一人だけでした。「はい、はい、持っていない女性は、すぐに店から出て行きなさい」役人は容赦しません。「いいじゃないか、みんなでやってんだから」文句の一つも言いたくなります。彼女たちにしても死活問題です。ですが、「ダメ」役人はそっけないです。

 彼女たちは、役人のやり方に憤然としました。この日の稼ぎも全部パーです。自分たちの運の悪さに意気消沈しました。彼女たちだって好きでやっている訳ではありません。その日暮らしの人間にも、誇りはあります。店の出口に向かう階段で、彼女たちの一人が役人に叫びました。
「アイ・シャル・リターン!」
 

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by janlbaguio | 2007-09-24 00:02 | 会員 エッセイ・コーナー

生活便利帳 in バギオ

 
このコーナーは 会員が歩いて集めた 生活に密着した情報を 掲載する予定です。

ご期待下さい。

 
 
 
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by janlbaguio | 2007-09-23 23:53 | 生活便利帳inバギオ

「バギオ サヨテ・タップス物語」 その1  加藤 卓 著

 サヨテとは、フィリピンの庶民的な食べ物で、味は、甘くないウリのようです。温かいスープなどに入っていると味が染み込み、それなりに美味しい食べ物です。山間部の斜面を利用して栽培されていますが、日持ちが良いため、野菜などが作れない場所へのおみやげとしても重宝されています。

 蔓性の植物ですが、雨期になるとどんどんわき芽が出ます。そのわき芽も食べます。タップスと呼びます。栄養的にも良い食べ物ですが、しょせんわき芽ですから安いです。
 サヨテが作られるバギオ市やベンゲット州の山間部には、第2次世界大戦で財宝を隠したとされる山下将軍の伝説が今でも残っています。「山下将軍の地図かあるのだが、読んで欲しい」などと言って近づいて来る人が必ずいますが、かなり怪しい。実に怪しい。

その山下将軍はマニラの南にあるモンテンルパ刑務所で処刑されました。大戦後は日本人捕虜収容所になっていたところです。今では、フィリピンの長期刑刑務所になっています。
そのモンテンルパ刑務所に無期懲役刑の兄を持つ妹がいます。兄は服役してすでに12年になりますが、妹は久しぶりに、兄に会いに行くことにしました。しかしルソン島の北に位置するバギオ市からマニラ市南のモンテンルパまで、長距離バスと中距離バス、ジプニーとトライシクルを乗り継いでの長旅です。おいそれと会いに行けるわけでもなく、費用もかかり、多額の借金をして行くことになりました。

妹がモンテンルパ刑務所の兄に会いに行くことが知れたのでしょうか、深夜バスの乗り場に、人が集まって来ました。モンテンルパ刑務所に友人を持つ人、知人を持つ人、息子を持つ人などです。皆、それぞれの友人や知人に託す手紙や品物などを妹に預けました。
その人たちの間に、一人の老婦人がいました。モンテンルパ刑務所に死刑囚の息子がいると言いました。老婦人は両腕に一抱えのサヨテ・タップスを持っていました。老婦人は目に涙を浮かべながら「私も息子に会いたいが、貧しくて行くことは出来ない。どうかこのタップスとお金を息子に渡して欲しい」と言って、一抱えのサヨテ・タップスと、150ペソほどの現金を妹に渡しました。

150ペソは日本円にして約380円ほどでしょうか。彼女にとって、今あるだけのお金でしょう。
妹は老母の境遇がわかりました。サヨテ・タップスとお金を渡されても、言葉が出ませんでした。ただ頭を、コクンコクンとうなずくだけでした。
未だ司法制度の未整備なこの国では、えん罪などがあり得ます。彼が本当に犯罪を起こしたかどうかはわかりませんが、今は大統領令によって死刑の執行が一時的に止められているだけです。いつ何時、執行されるか分かりません。老母はきっとその前に一目息子に会いたいのでしょうが、貧しさ故にそれもかないません。弁護士を雇う余裕などなく、唯々諾々と運命を受け入れるしかありません。

バギオ発の深夜バスは、様々な人の、様々な思いを乗せて出発しました。
モンテンルパ刑務所への持ち込みは比較的緩やかなようです。その中で、頼めば煮炊きも出来るそうです。
老母は、働いている農場で、息子の無実を信じつつタップスを摘みました。
彼が刑務所の中で食べたサヨテ・タップスは、遠くふるさとに住む、なつかしい母の味がしたでしょうか。

ー続くー
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by janlbaguio | 2007-09-16 21:57 | 会員 エッセイ・コーナー