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日本の夏、祈りの夏 - カリラヤ日本人戦没者慰霊祭


フィリピン最大の湖ラグナ湖がマニラの南東に広がっています。 マカティから車でおよそ三時間、そのラグナ湖の東岸にあるパグサンハン(Pagsanjan)へ、そしてそこからさらに北東へ10キロばかり行くとブラックバス釣りやウインド・サーフィンで有名な カリラヤ
(Caliraya)
 の人造湖があって、その先にJAPANESE GARDEN(日本庭園)があります。 この地域はマニラやバギオではほとんど感じない鬱蒼とした南国の緑に覆われた「フィリピン」を改めて感じるところです。
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この庭園は日比両国の協力によって昭和51年に造られた庭園で、昭和48年に既に建立されていた 「比島戦没者乃碑」 があります。
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8月15日の終戦記念日にあわせて、在フィリピン共和国 日本大使館主催の日本人戦没者慰霊祭 が例年通りにラグナ湖の東岸にあるカリラヤ(Caliraya)慰霊園にて開かれました。
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日本大使館からの案内には「比島戦没者乃碑」の昭和48年(1973年)建立以来、本慰霊祭は日比両国の戦没者を悼むとともに、両国の平和と友好を記念するため、当館主催の下、毎年8月15日の終戦記念日に実施しています。」とあります。
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運よく日本の暑い夏を思わせるように晴れ、慰霊祭は午前9時半から一時間ほど、滞りなく行われました。
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バギオで北ルソン日本人会(JANL)を結成して初めての祈りの夏。
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バギオそしてさらにルソン島北方山中での激戦、バギオ陥落後の逃避行、悲惨な飢餓地獄の中に倒れて逝った方々を含めフィリピン全土で50万人と言われる日本人の民間人、将兵の霊はもとより、米国人戦没者、そしてその両国の間で国土を蹂躙され無念の内に犠牲となった100万人とも言われるフィリピン人の御霊に深い祈りを捧げます。
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ちなみに、フィリピン戦を指揮した山下奉文大将が正式に降伏文書に署名したのは昭和20年9月3日(1945年)、バギオのジョン・ヘイに於いてとされています。
この 9月3日は バギオではフィリピンが解放された  「山下降伏
記念日」
 となっています。



追記:
慰霊祭の中で、フィリピン人のコーラス隊による日本の唱歌などが歌われましたが、その曲の中でも「千の風にのって」は胸に迫りました。
今でも、人知れずフィリピンの土となっている彷徨える日本人の御霊に「安らかに」と祈らずにはいられません。

 
(2008年8月15日) 
 
 
 
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by janlbaguio | 2008-08-16 21:33 | Neighbers ご近所情報

タクシー: 知らないとトラブルの元



新聞によりますと、この暫定処置は
2008年12月15日(月)から
廃止されています。

10ペソを追加で払う必要はありません。


皆さんはもうご存知だとは思いますが、バギオでもタクシーに乗ると フロント・グラスの右上にこんなステッカーが貼ってあります。

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これは LTFRB(Land Transportation Franchizing & Regulatory Board, 陸運フランチャイズ・調整評議会)が発行したステッカーですが、 何が書かれているかと言いますと、
「メーターの実際の料金に10ペソ追加して料金を払って下さい。」
という事です。
 
英語が出来ない、情報を知らなかったなどの理由で運転手との間でトラブルになるケースもあるとの事ですので、念のためにお知らせいたします。

これは、皆様ご存知のように、原油高騰によるガソリン代の値上げをカバーする目的です。

尚、バギオでの初乗り料金はメーター25ペソですが、これに必ず10ペソを追加して支払うということになります。

ちなみに、マニラでは初乗り料金が35ペソだそうです。
物知りの人に聞いたところ、この10ペソ高いのはエアコン料金だとか。
本当でしょうか?
もしかしたら、マニラの事ですから、渋滞料金とか運転手の生活費がバギオより高いからかもしれません。

ところで、 このステッカーが貼っていないタクシーがあったら、 それは偽タクシーだそうですよ。
 


(この情報は2008年8月現在です。) 
 
 


 
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by janlbaguio | 2008-08-14 07:31 | 生活便利帳inバギオ

バギオは東京やシドニーよりも安全? バギオの犯罪率


バギオの地元の人は「マニラは恐い。」「マニラは外国だ。」「マニラのタクシーは乗るのが恐い。」「バギオでは運転手が乗客を恐がる。」「バギオのタクシーはちゃんとメーターで走って、お釣もくれる。」などと言います。

JANLメンバーのブログにバギオの2008年上半期の犯罪率の情報が掲載されましたので、ご参考までにその一部を抜粋します。

このデータは、新聞記事やインターネットでの情報を元にメンバーが計算・編集したものです。

人口10万人当たりの犯罪率
内訳    バギオ   東京  シドニー
窃盗      184  1,606  3,524
傷害      133     58    920
強盗       79    265  1,586
殺人       10      1      1
婦女暴行     7      2     47
不明      203      -      -
合計     616  1,932  6,078

尚、バギオで犯罪が多い時期はフラワー・フェスティバルの2月を中心にした観光シーズンであることが分かります。

詳しくは こちらのサイトへ お願いします。

ところが、フィリピン全体やメトロ・マニラの犯罪率を見るとちょっと首をかしげることが。 殺人件数の率はほぼ正確だと思いますが、その他の犯罪率が東京、シドニー、バギオとは異様に違います。

フィリピン全体:
2006年の犯罪件数 71,227件
内 殺人件数      9,495件
推定人口       88.7百万人
10万人当たりの犯罪率
犯罪全体   80.3
殺人のみ   10.7


メトロ・マニラだけの数字は:
2007年の犯罪件数  17,828件 
内 殺人件数    (データなし)
人口      11,553,427人
10万人当たりの犯罪率 
犯罪全体  154
メトロ・マニラはフィリピン全体平均の2倍ほど犯罪が多い。

後段の詳細は こちらのページへ どうぞ。

データの読み方、分析の仕方は様々出来るかと思いますが、日々用心するに越したことはありませんね。
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by janlbaguio | 2008-08-12 12:17 | 生活便利帳inバギオ

Baguio City Market バギオ市場 コーヒー豆編


「生活便利帳 in バギオ」 コーナー
バギオ市場の地図 第四弾 !!

フィリピン産 コーヒー 
ベンゲット・コーヒー をここで発見 !!
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ちょっと地図が小さくて見にくいですが、  の記号が右下にあります。

A コーヒーはここです  角のお店と2軒?先の2店舗あります。 
ガルシアには カリンガコーヒーサガダコーヒーと種類が豊富で、幻のコーヒーと言われるアラミッドコーヒーもここで買えます。
ちなみにアラミッドコーヒーは野生のジャコウネコの糞から取れたという貴重品

一般にフィリピンで買えるコーヒーはバタンガスコーヒーとして有名なバラコ種ですが、このコーヒーは酸味が強いが香りが弱い、バギオではこの香りが楽しめるアラビカ種を購入できるのでアラビカとバラコのブレンドを楽しむことができます。
アラビカコーヒーはベンゲットコーヒーとして名前が知られています。

面白いのは大豆を炒ったものが売られていて安いので、これをコーヒーとして飲む人も多いです。


<御案内>
「生活便利帳 in バギオ」の全体をご覧になりたい方は、右の「カテゴリ」で 「生活便利帳 in バギオ」を クリックして 下さい。


(この情報は 2008年8月現在です。)
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by janlbaguio | 2008-08-07 16:48 | 生活便利帳inバギオ

Baguio City Market バギオ市場 花屋編


「生活便利帳 in バギオ」コーナー
バギオ市場の地図 第二弾!!
ならここです。
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A 定番の花屋街 結婚式 葬式 お祝い全部ここで解決
B バギオでは珍しいカーネーションを買いました
C バレンタインデーはここで薔薇でも
D 卒業式用首飾り エバーラスティングといいます

フィリピンの中で高原野菜で有名なバギオは「花」も凄い。
フラワー・フェスティバルで全国的に有名なバギオならではの花がたくさん!
バギオで生産された花もマニラへ出荷されています。

アバナオ・スクエアーの前を入っていけば、すぐに可愛い花たちがあなたを迎えてくれるでしょう。
ちょっと奥に入っていけば、花の卸をやっているお店もありますから、バラを山ほど買いたい時などには絶好ですよ。

ちなみに、バギオには トゲのない薔薇 の品種も売られています。
ご存知ですか?



(この情報は 2008年7月現在のものです。)
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by janlbaguio | 2008-07-29 01:22 | 生活便利帳inバギオ

Baguio City Market バギオ市場の地図


生活便利帳 in バギオ
のコーナー

に 初めての情報掲載です。

バギオに生活する方はもちろん、バギオへ観光に訪れる方にも もっともエキサイティングな場所は きっとここなのかもしれません。

バギオ・シティー・マーケット
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これが全体像です。
左下の角が マハルリカ・ビル。 セッション・ロードを真っ直ぐ下った突き当たりのビルです。
一番下を左右に通っているのが マグサイサイ通り。
一番左側を上下に通っているのは アバナオ通りで、マハルリカ・ビルの上の一角にあるのが アバナオ・スクエアーのビルです。

マハルリカ・ビルはこのビルです。
セッション通りを真っ直ぐ下って正面にあります。
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このマハルリカに向って左側に回り込むと、
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ここがアバナオ通り。
正面のビルがアバナオ・スクエアーで、その手前を右に入っていくと バギオ市場が広がっています。


上の地図は縮小して見づらいので ここに左半分をご覧いただきましょう。
第一弾は さん です。
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A 一番大きな魚市場
B マグロがあったりする
C ここら辺にも魚が売ってます
D ここにはなまずがいっぱい売ってます
E 貝類が多いです 牡蠣も売ってます

左にある アバナオ・スクエアーとマルベイ・ビルの間を入っていくのが 一番分かり易いでしょう。 入り口の右側には花屋さんがずらりとならんでいます。 ここから ヒルトップ通りにいたる上り坂の右側に魚介類の市場が広がっています。

これは 上記の全体地図の右半分です。
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C ここら辺にも魚が売ってます
F 歩道橋の上になぜかアンブクラオ湖産のティラピアが売ってます

この地図の一番下側、マグサイサイ通り沿いには みやげ物屋がずらりと並んでいます。
そのみやげ物屋の中に 両替のおばさんたちもいます。

さて、次回はどんな情報が登場するのか・・・
楽しみです。

(この情報は 2008年7月に作成されました。)
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by janlbaguio | 2008-07-25 22:53 | 生活便利帳inバギオ

これで あなたも バギオ通 !! アメリカとのつながり

これで あなたも バギオの物知り、 免許皆伝!?

バギオに住むこと 既に20年以上という JANLの副代表YSさんが あなたを一気にバギオ通にしてくれます。 元々 アメリカ軍の保養地、避暑地として造られた計画都市バギオ。 まずは、バギオとは切っても切れないアメリカとの関係からご紹介します。

バギオとアメリカの
つながり



1.キャンプ アレン

ヘンリー アレン(Henry Tureman Allen)はフィリピン レイテ州の最初の知事であり、フィリピン国家警察を組織、指揮した人物。 1904年、日本軍のオブサーバーとして日露戦争中の韓国に行った経験を持つ。 
バギオの裁判所の正面、消防署の隣にあるフィリピン国軍所有地の名前はCamp Henry
Allenという。 現在の場所に移る前はここにフィリピン国軍士官学校/フィリピンミリタリーアカデミー(PMA)があった。 

現在のキャンプ アレンは軍人の住宅地?となっている、ナギリアン通りに面している石垣は雨季のたびに壊れ、修理するのが年中行事だったが1990年の大地震の前後にナギリアン通りを広げる工事と同時に本腰をいれ修理され、現在のかたちになった。

狭かったナギリアン通りの名残は道路に残る電柱をきった後で知る事ができる。見つけられた人 いるかな?

2. バーンハム公園

ダニエル バーンハム(Daniel Hudson Burnham)。  バギオではおなじみのバーンハム公園の名前の由来になった人物。 シカゴの超有名設計士 及び都市計画者。ロハス通りを含むマニラの設計、バギオの設計をした。ワシントンDCのユニオン駅、シカゴ市の都市を設計したのも有名。ちなみにバギオは3万人都市として設計されたので、現在の30万人以上の人口はちょっと窮屈。 当時は市役所、公園をはさんで国の役場(現在のSMの正面側辺り)、そこから東がアメリカ人、お金持ちの住宅、その他を一般庶民の住居と住み分けされていた。 知られていないが、清水建設3代目は当時日本になかった鉄骨建築の図面をバーンハムから譲りうけた人物として記録が残っており、日本の高層建築の歴史とも深いかかわりがある。日本橋丸善本店ビルはその設計図を参考に建てられ日本初の帳壁式鉄骨煉瓦造の建物で関東大震災にも耐えた。


3. ハリソン通り

バーンハム公園の横を通っている大通りの名前 フランシス ハリソン(Francis
Burton Harrison)は ハリソン通りの名前の由来になった人物。 アメリカでの下院議員の経験を経て、1913年から21年までフィリピン総督府の総督となる。 レオナルド ウッド氏の前任者。 コモンウェルスのフィリピン人大統領になってから大統領アドバイサーとして呼び戻され以後4代大統領までフィリピンの為に働く。 ちなみに離婚再婚を繰り返し6番目の最後の奥さんはフィリピンの女性 マリア テレサさん、ニュージャーシーで亡くなった後フィリピン マニラに埋葬された。

ハリソン通りにはバギオ パークホテルという4スターホテルがあり、マカティーのインターコンチへの直行便が出ていたこともあり観光客でにぎわっていたが、1990年の地震で崩れてしまった。 また現在のBPI銀行の辺りはダンワバスの停留所がありボントック方面に行く乗客でにぎわっていたそうだ。

4. キャンプ・ジョン・ヘイ

ジョン ヘイ(John Milton Hay) はアメリカの政治家、外交官、作家、ジャーナリストとして活躍。 アブラハム リンカーンの私設秘書を務めた人物。 後に12代目国務長官に任命され1898年から1905年までマッキンリー大統領、ルーズベルト大統領にも仕えた人物。 この名前がつけられたのは基地創設当時の国務長官だったからです。

以前のゲートは現在のパナグベガ パークのところ。 身分証明書があれば誰でも自由に入場することが出来、マノーホテルがある場所はクラブハウスと呼ばれ、両サイドは軍人の宿舎があり 真ん中にバギオで一番美味しいステーキ屋があった。 またその近く(山側)にはハネムーンコテージと言うのがあり、文字通りハネムーンの軍人たちが宿泊した場所があった。

ジョンヘイのなかには19th Teeと言うレストラン、ゴルファーがプレイを終わらせた後一服するところがあり、そこのハンバーガーはまさにアメリカンサイズ、支払いはペソも使えたが基本的にはドルだった。コーラの自動販売機があり中の軍人にペソを50センツに変えてもらいわざわざ自動販売機でコーラを買っていたのは私(著者)です(汗)。


5. ピープルズ パーク ・ マルコム スクエアー

ジョージ マルコム(George A. Malcolm) は1917年、35歳でアメリカ ウィルソン大統領によりフィリピン最高裁判所裁判官に任命された人物。 彼の最大の功績はフィリピン国立大学・法学部の設立、法学部の建物はマルコム ホールと呼ばれる。

現在はピープルズ パークと呼ばれているが 以前はマルコム スクエアーと呼ばれていて、靴磨き、新聞売りとチェスに夢中になっているおじさんたちが共存していた場所であった。 BPIファミリーバンクの隣りに映画館があり、カンフー映画を見るならここ と言う場所だった。


6. レオナルド ウッド通り

レオナルド ウッド(Leonard Wood) は軍人で1903年から1906年までの間、イスラム教の反政府勢力を制圧するのが目的でフィリピン南部のミンダナオ島モロ地区の知事となる。 アッパーセッションからマインズ ビュー パークに行く道の名前。

途中のボタニカルガーデンの奥には日本軍が掘ったとされる洞穴があるので、勇気がある人は懐中電灯を忘れずに。

ちなみにサファリロッジの隣にある家がアロヨ大統領の別荘です。


7. ライト パーク

ルーク ライト(Luke E. Wright) は1904年から1906年までのフィリピン総督。 当時アメリカで一番有名だった設計士バーンハムに フィリピン・バギオを「アメリカ軍人と民間人のレクリエーション施設」というコンセプトを基に都市設計を指示した人物。

フィリピンから日本へ移動1906年から1907年までは駐日大使であった。その後1908年から1909年のアメリカ合衆国陸軍長官(後の国防長官)となる。 なんかバギオってアメリカの偉い人が結構関係してますよね。


8. ガバノール パック通り

ガバノールとは知事のこと、だから日本語だとパック知事通りとなる。この名前はウィリアム パック(William Pack)からつけられた。 彼は1901年ベンゲットの知事として任命され、またマウンテン州の初代知事としても知られる。 この道にはバギオをサマーキャピタル(夏の首都)とした会議(セッション) が行われた場所の跡地がある。
またその会議へ行く途中に使用した道が「会議への道」という意味の「セッション ロード」 です。

ちなみにマウンテン州はフィリピンで唯一の英語名のついた州の名前 って知ってました?


9. メルビン ジョーンズ

メルビン ジョーンズ(Melvin Johns) は子供たちがサッカーをやったり、バギオ市の色々なイベントを行うスタンド付グランド。 実はこの名前は1917年に設立されたライオンズクラブの創立者から取った名前です、シカゴの実業家であったメルビン・ジョーンズの夢は狭い地域に限られたビジネスクラブの活動範囲を、単に事業に関する問題から地域社会や世界全体の福祉の問題にまで拡大するということだった。

このグラウンド、バギオのサッカー少年少女たちの練習場であると共に、バギオでのイベントでは必ず使用されるグラウンドですね。 以前は競馬場もあったことが記録に残っているがはたしてそれはメルビン ジョーンズなのか バーンハムの池の周りなのか? 

ちなみに 日本のライオンズクラブは1952年 フィリピン・マニラのクラブがスポンサーになってあげて認証されたんですよ。先進国フィリピン(遠い昔の話・涙)


10. ブレント通り

インターナショナルスクールであるブレントスクールに行く道は、チャールズ ヘンリー ブレント(Charles Henry Brent)主教からの名前。 ブレント主教は1900年にフィリピンに来 てフィリピン聖公会(Episcopal Church of the Philippines)の初代主教になった人物である。 イギリス国教会としても知られる教会でブレント主教はフィリピンで白人のためのブレントスクール、少数民族のためのイースタースクール(バギオ)を設立し、マニラではセイント ルクス病院(聖路加病院)などを設立した人物。

ちなみにブレントスクール敷地内は電柱がなくすべて地中に埋まっているんですよ、バギオ初 ?

アバナオ通りから移動してきた50’S DINNERは名前の通り50年代のアメリカン イメージ。 ウェイトレスはローラースケートを履き接客する。 古いものが好きな人は近くにある骨董屋さんがお勧め、地下に降りると宝物が見つかるかも・・・。


11. バデン ポウェル イン (Baden Powell Inn)

ロバート バデン ポウェル(Robert Baden-Powell)と言う人物から来た名前ですがご存知ですか?  SMのすぐ下、バスターミナルが続く道、ダグパン バス ターミナルのすぐ近くにあるのがBaden Powell Innです。

名前になじみがないかもしれませんが、彼はボーイスカウトの生みの親でタイトルとはちょっと異なり(汗)ますがイギリス人。 バギオで唯一のイギリス人の名前がつけられた場所かも知れませんね。 上記のバギオをサマーキャピタルとする会議が行われた場所は、この宿にあり、記念碑みたいなのがあります。

バギオでもボーイスカウトは盛んで、よくジョンヘイにキャンプをしに行きました。 皆本格的で インスタント食品は一切使わず、キャンプを張っていきなり地元式ハムつくり(豚肉を保存する)をはじめたのを覚えています。


12. ニードラー通り Kneedler Road.

ニードラー医師は軍医として1900年ごろフィリピンに来た後フィリピンに住みつき、次々と不動産を購入、不動産で富を築いた人物。 1932年ごろはマニラ ベイビュー ホテルのマネージャーをしていた。  バギオ ジョンヘイの近くにあるその道の名がなぜ彼の名前に基づいて命名されたかは不明だが、バギオに住む人にとってもニードラー通りはなじみがないはず。この道はサウスドライブ(ジョンヘイからパクダルに抜ける道)に入り口がある道で、お金持ちの別荘なんかがあるらしい。

13. バギオ・ロアカン空港

1932年3月11日 ロアカン空港に最初の飛行機が着陸した。 このフライトの乗客はアメリカ人のハルセマ バギオ市長。 実はこの空港が出来る前1919年クリスマスの日にアメリカ空軍兵が飛行場ではないバーンハムに着陸している。 同じ日にトリニダッドにも違うパイロットが着陸を試みたが失敗してしまった。 この事故からちゃんとした飛行場建設が必要となり、当初トリニダッドかポロ フィールド(ネイビー ベース)への建設が浮上したが 霧、人口密度の条件により却下された。 バギオからちょっと遠いが天候がよく乾きが速いラウニオン州ロザリオ、もしくはナギリアンへの計画もあったが、結局 当時田んぼだったロアカンを住んでいたイバロイ族から(無理やり)購入し1932年に開港 3月11日に初着陸、これが「アジア初」 民間航空会社(フィリピン エア ライン)によるマニラ-バギオ間のフライトとなった。


バギオの地図へ =>  リンク 1 
                リンク 2 
               リンク 3


(投稿: JANL副代表 YSさん)
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by janlbaguio | 2008-07-12 15:28 | 会員 エッセイ・コーナー

2008年 いらっしゃ~い!  一緒にやろうね!


2008年 
あけまして おめでとう ございます。

新春早々、JANLは頑張ってます。
「国語分科会」の活動に続き
「日本語分科会」のグループが 1月5日に初めて「日本語教室」を開きました。

国語分科会は 「既に日本語を話せる子供たち」の国語の勉強をサポートしますが、 この日本語分科会は「まだ日本語を話せない子供達」の為の 日本語入門教室です。

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はじめての教室、初めての日本語のお勉強・・・・
子供達 頑張ってます。
ちょっと 緊張してるかな? どこ見てんのかな?

「先生! よろしく お願いします。」
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by janlbaguio | 2008-01-08 11:02 | Activity 活動内容

バギオの歴史を学ぶコーナー(5ページ目)

CITY OF PINES 「松の都市」
著者: Robert R. Reed


第三章  バギオの起源
      フィリピンの環境についてのアメリカの認識

(続きです。)



p75
ウォーセスター・ライト委員会と 二人の医療アドバイザーの 正式な推薦に従って、フィリピン行政長官達は 暫定的にバギオの開発を認可したのです。 それは、この開発に於いては、ほんの二つ目の正式な立法措置に過ぎませんでした。 ウォーセスター、ライト 及び 彼らの一行が北方からマニラに戻って一ヶ月も経たない 1900年9月12日に法律となった 法令第2号を通して、植民地政府当局は 提案された高原避暑地と低地とを最終的に結ぶように計画された鉄道網の調査のために 5千ドルを承認したのでした。

これは、しかし、アメリカ支配の最初の10年間に米比委員会によって立法化された バギオ関連のおびただしい法律の最初のものでした;  彼らは マニラにある植民地政府当局の目から見れば主要な山岳都市の無視できない重要性に対して まとまって意見を述べたということになります。
これらの法令によって、行政長官達は 不可欠な道路建設プロジェクトに数百万ドルを投入しました;  健康に良いとされる高地の気候であることを確認する為に測候所を建て; ベンゲット州とバギオ市の両方に 行政機関を組織し; 新しい高地の拠点のための 下水、給水、そして電力のシステムを認可し; ラ・トリニダッドに農業研究所を造り、町の境界内で 数百もの住宅および建物用の土地を公売に出し; 数多くの政府機関の建物や関連する基盤施設を建設し; 健康とリクリエーション増進のために軍用の特別保留地を確保し; バギオの総合的な都市設計を準備するために 著名なアメリカ人都市プランナーである Daniel H. Burnham を雇い入れました。
このようにして、二十世紀の初期に、フィリピンの行政長官達は 東南アジアにおけるもっとも優れた高原避暑地のひとつと言うだけではなく、北ルソンに於いて第一の都市となるべき都市の確固たる基礎を築いたのです。



第三章 <つづき>
ベンゲット道路: その葛藤と成功
p80
ウオーセスター・ライト委員会がマニラに戻って2週間も経たない内に、フィリピン行政長官達は ベンゲットに入る鉄道の建設を推進することを 彼らの中で非公式には 明らかに合意していたのです。  
彼らは -前述の法令第2号―の具体化を 9月の第二週まで実行に移していませんでしたが、面白いことには 少なくとも1900年8月28日頃には鉄道網の調査のための調整は始まっていたのです。
そして、その当日、Charles W. Mead大佐は Arthur MacArthur将軍から、当時のマニラに於ける都市エンジニアの任務を解除し、暫定的に彼を 米比委員会に任命するという命令を受けました。


p82
1900年12月14日に提出された調査隊に関する報告書の中で、ミード大佐は 最短距離で一番安い鉄道のルートは 正に Bued<ブエド>河沿いであると述べています。
<注: この最短ルートは 掲載された地図によれば、ラ・ウニオン州の アゴオとバウアンの間に位置するアリンガイの町から ほとんど真っ直ぐ東へバギオまで向うルートです。>

ミード大佐は、いくつかの短いトンネルが必要であるし、山の支脈に多くの深い切り込みを入れる必要もあると、かなり困難な建設作業の可能性を認めてはいたものの、これらの問題は簡単に乗り越えられるものと信じていました。
実際に、大佐は一年以内なら 鉄道路床のせいぜい3パーセント程度しか完成出来ないだろうと判断していました。 

労賃、建設資材、公道用地購入、鉄道レール、店舗、及び 所有車両の総コストを およそ2百6十万ドルと見積もった後に、ミードは 次のように提案したのです。
計画されている鉄道路線の全線に渡って 普通乗用車向けの仮の道路を建設することを通じて、高価ですぐに必要となる鉄道建設の費用を先送りできるのではないかと。 そしてその見積コストは ほんの7万5千ドルであると。
フィリピン行政長官たちは、植民地政府の他の分野においても重い財政的責任に直面していましたので、 そのような好都合な情報は 渡りに舟だったのです。

行政長官たちは、すぐにベンゲット鉄道延長の開発を数年間延期することを決定し、破格に安い自動車道路を代わりに選んだのです。

p83
建設作業は1901年1月中旬に ベンゲット道路の北と南の両端で急ピッチに開始されました。 総監督は ミード大佐でした。 同年の7月までに、その頃アメリカは雨季の間はすべての建設工事を停止する必要があると分かったのですが、たったの10マイル、つまり 当初計画されていた道路全線の三分の一以下しか完成できなかったのです。
それどころか、この10マイルというのは、ブエド河渓谷の入り口に到る低地の既存の小道を改良したに過ぎなかったのです。
その上、ミード大佐が 建設期間とコストの両方で膨大な過少見積りをしていたことが明白になってしまったのです。  その結果、大佐は以前のポストであったマニラでの都市エンジニアとして戻されてしまいました。

p84
1902年1月1日、ベンゲット道路の仕事は N.M.Holmes主任技師の指揮の下に再開されました。 ホルメスは ブエド河の砕け易い渓谷の壁に路盤をゆっくりと削っていくという報われない任務を引き継ぐことになったのです。
ほんの6ヶ月後に、ホルメスはプロジェクトの完成をあきらめてしまいました。
その後3年間に渡って道路建設プロジェクトを悩まし続ける深刻な問題が既に露呈していたのです。

p85
ホルメスと彼の直属スタッフ、そして およそ2千人の労働者たちの真剣な努力にもかかわらず、道路建設者たちが報告できたのは、1903年6月までに 通行可能な道路をやっと18マイル完成出来たというものでした。

p86
行政長官たちやそのアドバイザー達の第一の、そしておそらく最大の、判断ミスは、ミード大佐の最初のプランを真面目に審査せずに受け入れたこと、あるいは、フィリピンで経験を積んだ技術専門家による二次評価をしなかったことでしょう。
それと同時に、アメリカ人技術者 ―ミードとホルメス― が直接の道路建設の責任者であったため 彼らが工事を行った環境と文化的背景の中で、すべての現実を把握することに単に失敗したと言う事です。

技術的設計における明らかな大失敗に加えて、彼らは 長々と続く雨季の間のタイム・ロスを考慮することを無視し、アメリカ人の労働倫理が必ずしも他の人々には適用出来ないことを理解せず、たった一日の間に何十インチもの大雨をもたらす台風の 路盤や橋梁に及ぼす潜在的影響について判断ミスをしたのです。
そのような河の氾濫時には、渓谷道路の主要な区間は 大きな泥流に文字通りかき消され、 高価な鉄の橋梁も あっと言う間に上昇するブエド河の水流によって 瞬く間に構脚と橋げたがもつれあった固まりに変えられてしまうのです。  


p88
1903年夏、バギオとベンゲット道路開発に対する抗議の声がますます大きくなり、米比委員会は 高原避暑地開発計画をすべて投げ捨てるか、激しい論争をくぐり抜けて推し進めるかの二者択一を迫られることとなりました。


p89
膨らみ続けるコストと抗議の声にもかかわらず、フィリピン委員会は バギオの辺鄙なイゴロットの村は フィリピン群島で最高の山岳都市に必ずや変容し、ベンゲット道路によってマニラと結ばれるであろうと宣言したのです。
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by janlbaguio | 2007-12-30 16:52 | History バギオの歴史

バギオの歴史を観る写真展 と バギオ・カレンダー2008


Baguio Then/Now
「バギオ 当時そして今」
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Photo Exhibition at SM Baguio   SMバギオで写真展
Open 4p.m. Dec.20 12月20日(木)4時開場

This exhibition was informed by Rudy Furuya (Einosuke Furuya), Japanese photographer who is participating the event.
この写真展の情報は イベントに参加される日本人写真家 ルディー古屋(古屋英之助)さんよりいただきました。 古屋さんはJANLのメンバーでもあります。

The below is the information extracted from Baguio Midland Courier issued on Sunday, December 16, 2007.
下記の情報は、2007年12月16日付の バギオ・ミッドランド・コリア紙からの抜書きです。

Quote:

These photographs form part of the exhibition Baguio Then/Now that opens on Dec.20, 2007 at 4p.m., Parkview Terrace, SM City Baguio. The first of a series of exhibitions produced by the BaguioBenguetStudies and hosted by SM, this show features images of Baguio in the early 1900s and of 2007 re-photography by 12 Baguio photographers. The show will move to the Gallery, Lower Basement on Dec. 22 and will run till Jan. 30, 2008. – E.R. Alcantara

Featured in the exhibition are early Baguio photographs from the Baguio Benguet Studies Digital Archive culled from various archival sources and private collections.

The 2007 re-photography is by Robbie Casas, Elicon Consul, Caesar Paul Garcia, JT Gonzales, Rudy Furuya, Tommy Hafalla, Ric Maniquis, Julius Mendoza, Mark Perez, Rudi Tabora, Ompong Tan, and Boy Yniguez. Exhibit curator is Erlyn Ruth Alcantara.

A set of images in the exhibition appears in a Baguio 2008 Calendar that will be launched at Cordillera Coffee, patio , upper ground floor, SM City Baguio at 5p.m. also on Dec.20.

Unquote


この写真展は、バギオ・ベンゲット・スタディーズという団体によるもので、1900年代初期の当時のバギオの古い写真と 2007年に12名のバギオの写真家によって撮影された同じアングルの写真を公開するものです。
12名の写真家の中に 日本人写真家の RUDY FURUYA(古屋英之助)さんがいらっしゃいます。
2008年のバギオ・カレンダーに これらの写真が使用されるとのことです。


写真展の日時・場所

12月20日(木)午後4時―12月21日(金)
    SMバギオ パークビュー・テラス
    (正面入り口から入ってバーンハム公園側テラス)

12月20日(木)午後5時
    SMバギオのパティオ(正面一階外側左奥)にある CORDILLERA COFFEE
    にて これらの写真を掲載した「2008年バギオ・カレンダー」の紹介。

12月22日―1月30日 
    SMバギオ ローワー・ベースメント
    (駐車場の出入り口・地下2階)

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このカレンダーが買えると嬉しいですね。
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by janlbaguio | 2007-12-19 13:13 | AJISAI 文化交流 network