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バギオの歴史 :   郡司忠勝著より その5

「思い出はマニラの海に」郡司忠勝著 三月書房より抜書き

(注:はブログ管理人のコメントです。)


この抜書きは 戦争当時のバギオの歴史と地理の関係を振り返る為の
資料としております。
本書は 既に絶版となっているようですが、古書としては購入可能です。

今回は戦中のバギオ在留邦人はどこを彷徨ったのかを読んでみます。

p178
1945年(昭和20年)
1月3日  山下大将方面軍戦闘司令部をバギオに置く。
1月7日  米艦隊 北・サンフェルナンド一帯を砲爆撃。
1月9日  米軍リンガエン湾上陸。
1月12日 米軍機バギオ初空襲。
1月23日 米軍機バギオ大空襲。
(注: 北サンフェルナンドは ラ・ウニオン州のサンフェルナンド市である。)
(注: バギオの当時を知る地元の人たちは カーペット・ボンビング
    絨毯爆撃があったと言います。)


p180
バヨンボンから北へ二キロ、ソラノから南に三キロの地点に
ボンハルがある。 ボンハルでは総領事館指揮のもとに在留邦人が
疎開村をつくっていた。
・・・主にマニラ方面からの邦人であるが、後になってバギオ落ち
した邦人
が朝日村をつくって加わったとのことである。
・・・各村は食糧の自給生産に力を尽くしていた。
(注: バヨンボン付近は 6月7日に米軍に占領されたとの資料がある。)

p217
<景山隊の陣中日誌によると、キャンガン入りは6月13日22時とある。>
去る1月14日のカバナツアンのB24のじゅうたん爆撃では沢山の
市民が犠牲になったが、ここキヤンガンでは祖国の兵隊の死体が散乱した。
五、六歩も歩くと、すぐ新しい死体があった。
(注: キャンガンは 山下大将が降伏する為に下りてきた町で、
    当時は桜町と呼ばれ、今は山下大将降伏の記念館がある。)

p220
景山隊は、狭く険しい土人道をバクダンへと向った。 バクダンは
キャンガンから4キロほどのシェレネバダ山脈の山襞のなかにあって、
キヤンガン・イゴロット族の居住域である。 そのバクダンの西方
の渓谷にはキヤンガンを逃がれ出た在留邦人や傷病兵が居るという。
戦闘司令所も近くに来ていて、・・・・
(注: キヤンガンから北へ行くとバクダン、キヤンガンから
    西に山脈を越えた辺りに 当時「大和基地」と呼ばれた
    最後の砦があった。 今は ワンワン村と呼ばれる村の
    辺りで、地元の人も入らないような場所であるそうだ。)

p221
バクダンへの崖道で邦人のひと群れに出会う。 邦人は狭い道の
山側を掘って、雨露をしのぐ簡単な萱の差し掛けをして半地下の
生活をしていた。 バギオで薬局を経営していた・・・・の方たち
がともに寄り合っているとのことで、・・・
近くには多数の邦人の姿が見えたが、・・・

かつてはその名を恐れられた首狩り族の部族である。 ・・・ミイラ
として秘密の洞穴に安置する風習があり、・・・・
バギオの邦人はこの埋葬地の近くに居るらしく、ところどころに
洞穴の入り口が見え、・・・

p222
「ウォーッ、郡司さん」
カーキ服に巻脚絆の、杖を手にした一人の初老の人の咆えるような
声である。 懐かしい声だ。 戦闘帽の下でくぼんだ目がじーっと
私を見つめて立ち止った。 北部ルソン日本人会長の早川豊平さんだ
邦人の生活状況視察の道らしく伸びた髭の顔に疲れが見えていた。

p229
山道から見える芋畑では蔓が裏返り、小石の地肌が露出していた。
芋を探したあとの蔓伏せをする兵隊が少なく、それがまた敵機の
恰好の目標となった。 空からガソリンを投下して、山を一つずつ
焼き上げては、蜂が群がるように敵機は攻撃した。

p230
バクダン方面にいた在留邦人は二手に分かれて山岳深くマゴックへと、また
ひと手は遠くアンチポロホヨ方面に移動して行ったとの
ことだった。
(注: アンチポロは バクダンから南へキヤンガンへ戻り、
    それからさらに20キロぐらいの道を南の山奥へ入った
    ところにある。  ホヨはアンチポロから山脈を越えて
    やや西北へ大和基地よりに入ったところである。
    現在も この辺りへ入る道はかなりの困難を伴うそうだ。)
by janlbaguio | 2011-02-05 11:57 | History バギオの歴史
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