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バギオの歴史 - 日系人 人物録2 セシル・アファブレ


BAGUIO PRECIOUS MEMORIES
published by Leonides and Aurora Bautista

(published in 2012 ? )


フィリピン・バギオ市のバウティスタ夫妻によって発行された
「バギオ・プレシャス・メモリーズ」という本の中から、
日本人移民の歴史に関係する記事の一部を抜き出して
翻訳してみました。


Cecile Afable :
A woman like no other

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セシル・アファブレはバギオ市の過去100年の中で、
最も教養のあるイゴロットの女性です。

彼女はフィリピン大学に入った最初のイゴロット女性でした。
また、フルブライト奨学生としてアメリカに渡った初めての
イゴロットの女流著述家でもありました。

2007年のフィリピン書籍賞を受賞した Japanese Pioneers
in the Northern Philippine Islands (訳者注: この書籍名は
Islands となっていますが、正しくは Highlands ですので
和訳すれば 「北部フィリピン高地における日本人開拓者たち
ということになります。)の出版を手がけた人でもあります。

彼女は過去25年間に渡ってバギオ・ミッドランド新聞の
編集者でもありました。
その新聞は、傑出した地方紙として様々な賞を受賞しました。

彼女はコーディリエラ(山岳地帯)の人々を連帯させた組織である
BIBAKの主要な創設者でもあります。 さらに、彼女は
バギオのマウンテン州博物館(訳者注:現在のバギオ博物館)を
組織した人でもあり、バギオ市でのガール・スカウト活動をも
組織しました。


テルジ・オオクボ と ジョセファ・カリニョ の娘として生まれました。
彼女の父は、ジグザグ・ロード(訳者注: 建設当時は「ベンゲット・
ロード
」と呼ばれ、その後「ケノン・ロード」と呼ばれている道路)
の建設の仕事で日本からやってきました。
その父は、大工でしたが、その後家屋やビルを建て、イゴロットや
イロカノ族の部下から「マエストロ」(巨匠)とか「カパタス」(親方)
として知られました。

テルジは、マンション・ハウスの仕事をし、カトリック教会のために
修道院や保養所や学校などを建てました。又、バギオ大聖堂の祭壇も
手がけました。
さらに、彼は、バギオ・セントラル・スクール、キャンプ・ジョン・ヘイ
の中のコテッジ、ティーチャーズ・キャンプのいくつかの建物も
建てたのです。

母ジョセファは、イバロイ族として彼女を育てました。
これは、いたる所に精霊がいるという信仰をも含んでいました。

流れている水に唾を吐くのはタブーでした。
小鳥や蛇を殺すことも、木を切ることもタブーでした。
それは、そこに精霊がいるからでした。

彼女はどこにでも精霊がいるということを信じて育ちました。
そして、それが彼女と自然との関係を決めたのです。

彼女の父親は仏教を信じていましたが、宗教での軋轢はありませんでした。


セシルには4人の兄弟がいました。
異父兄弟の オセオとシナイ、そして同じ父親の兄弟 ポリカルピオ
と ベルナルド です。
一人娘であったため、両親から特別扱いされました。
食事に関して言えば、彼女の分だけ別に取り分けてありました。

彼らの家は、バーンハム池の上にあるキサド・ロードの上にあって、
Apdiと呼ばれていました。

彼女はバーンハム池で泳いでから、兄弟と一緒に学校へ歩いていきました。

彼女はバギオ・セントラル・スクールで勉強しました。
若いうちにドーナッツを作ることを学び、注文に応じて作り、
兄弟のバーニーが集金係をしていました。

アメリカ時代の初期のバギオには、イバロイ人、パンガシナン人、
そしてイロカノ人などが住んでいました。

最初に市役所の経営に入ったのは、イロカノ人でした。
彼等はスペイン語を学び、タイピングが出来たので、アメリカ人に
とって役に立ったのです。

彼女は、フィリピン大学で哲学を学び、インド人と英国人の
哲学者には満足していました。
ドイツの哲学者ニーチェの人生哲学は彼女にぴったりでした
ーー 自分に自由であれ。

彼女は、16歳でフィリピン大学を卒業し、教員免許を取得しました。


メディアの仕事に関わる一方で、彼女は バギオ・カレッジ財団
(訳者注: 今のコーディリエラ大学、UCです)の教授陣に加わり、
英文学を教授しました。

彼女は、アメリカで環境を守り、育てることを学びました。

バギオ市の環境が悪化していることを見て、バギオの主要な人物
たちと一緒に、1988年にバギオの緑再生運動を始めました。
それ以来、バギオを苦しめる課題についての効果的なロビー活動
団体となりました。

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以上の翻訳は、全文の翻訳ではなく、日本人、日系人の歴史に関わる部分を
抜き出して一部の翻訳としております。
ご了承ください。

バギオの歴史 - 日系人 人物録2 セシル・アファブレ_a0109542_23272843.jpg


(訳者注: 上記にある Japanese Pioneers in the Northern
Philippine Highlands
という本の中では、
      プロジェクト・ディレクターとして
      セシル・アファブレの名があり、
      編集者として娘であるパトリシア・オオクボ・アファブレの
      名前が記されています。 )


こちらのサイトに上記の書籍に関する記事があり、その中に
以下のように紹介してあります。
http://referencematerials.blogspot.com/2004/11/cordillera-crossover-japanese-legacy.html

Patricia's mother, the legendary Baguio journalist Cecile Afable,
serves as the book's project director.


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by janlbaguio | 2013-06-03 23:23 | History バギオの歴史
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