バギオの歴史を学ぶコーナー (2ページ目)


CITY OF PINES 「松の都市」
著者: Robert R. Reed

まえがき

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現在<本書の第二版発行は1999年>の在住住民は26万人以上です。 それに、バギオ市には半永続的な学生のコミュニティーや主に臨時労働者からなる浮動人口があって、おそらく12万5千人を超えるものと思われます。 この人口は、バギオ経済の要である観光業が、毎年百万人ほどの人々を魅了していると言う事を付け加えなくても、ということになるでしょう。

1990年7月16日の大地震(マグニチュード7.8)は、死者600人、負傷者数千人、バギオ周辺に甚大な物的被害をもたらし、バギオは停滞と衰退に陥るであろうと思われました。 しかしながら、「松の都市」の市民は楽観主義と懸命な働きと実質的な公共事業や民間企業の投資を伴って、否定的な予測にすぐさま立ち向かったのです。
破滅的な地震に続く数ヶ月間のほとんど「テント村」でしたが、片付け作業はすぐに始まり、修復も2~3年にわたって順調に進みました。 バギオは復旧したにとどまらず、人口は増え、機能的な複雑さも拡大しました。


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1898年にアメリカがフィリピンに到着するとすぐに、北ルソンに高原避暑地を造ろうという<スペインの>アイデアが復活しました。 ディーン C. ウォーセスターと W. キャメロン フォーブスに率いられて、後者は 西欧人とフィリピン人も同様に利用するための高地の拠点を開発することを任され、フィリピン委員会は政府の公文書からスペインの計画を復活させ、計画された高原避暑地<スペインの計画はラ・トリニダッドだった>に最適なところはバギオであるとして、フィリピンにおける健康リゾートとリクリエーション・センターを複合したものの必要性を、ワシントンの当局者に納得させたのでした。
有名な都市プランナーである ダニエル H. バーンハムの協力を得て、叉、フィリピン人および西欧人双方のコミュニティ内部からの激しい、そして長期にわたる反感にもかかわらず、アメリカの植民地総督は広大な高原避暑地を二十世紀の最初の十年の間にバギオに造り上げたのでした。 1910年までに、バギオはフィリピン群島の公式の夏の首都として機能しはじめ、山岳州における先導的ハイランド・タウンとなりました。
現在、バギオはフィリピンのバケーションのメッカおよび北ルソン最大の都市として残っています。 こうして、アメリカ植民地支配の初期に確固たる基礎がつくられたことを物語っているのです。



第一章  東南アジアにおける植民地定住

p3
スペイン人によって築かれた東南アジア植民地の低地の全域に及ぶ戦略的地点での定住とは異なって、バギオはフィリピン人のスペイン化及びキリスト教徒化を促進する目的で創られたものではありませんでした。 さらに、北ルソンの山岳の人々の政治的、経済的そして社会的進歩を育てるために組織されたモデルとなる地方の首都として、フィリピン独自に一番の高地の中心地を創るということでもありませんでした。 そうではなく、初期の計画、建設および推進に携わった植民地管理者たちは、それを本質的に、その当時フィリピンの暑くてムシムシした低地にのみ居住していた裕福なアメリカ人、スペイン人化されたメスティーソ、スペイン人、そして他のヨーロッパ人に提供するものとして設計された典型的な高原避暑地と認識していたのです。  

p19
スペイン人は、フィリピンのすべての主な島々の山岳民族を、征服し、改宗させ、管理することに非常に熱心でしたが、その継続的努力はほとんど効果がありませんでした。 
何度にもわたる遠征は―大規模なものも小規模なものも、軍事的なものや宗教的なものも―北ルソンの反抗的なイゴロット<北ルソンの山岳地帯に住む民族の総称。 スペイン人による蔑称とされる。>やフィリピン群島のその他の様々な高地の人々に対するものでしたが、 マニラの植民地行政府は それらフィリピンの山岳民族を掌握することが出来ませんでした。  実際のところ、19世紀の後半まで、スペイン人の権威は薄弱で、ルソン島やビサイヤ諸島の山岳地帯には及びませんでした。 



第二章  フィリピン北部におけるスペインの保養地
        軍隊の序曲


p31
初期の病後療養中の患者の為に元々作られたのは小さな高地定住地ーベンゲット州のラ・トリニダッドーで、現在のバギオの立地場所に近いのですが、例えば、これは ルソン島の山岳地帯の中心に住む非常に反抗的なイゴロットの人々に対する スペイン軍の作戦が引き続いて成功を収めた数十年以内に出来たのです。

19世紀最後の10年に先立ち、実際、植民地の首都から北部へ行く陸路による旅行は、困難を極め、予測が出来ず、叉時間も掛かりました。 その当時の低地の幹線道路は、未舗装の道が分割された状態にすぎず、南西モンスーンの発生とともにぬかるみと化していたのです この状況は1891年にいくぶん改善されました。 その年にマニラとダグーパン間に鉄道が完成したからです。 しかし、さらに次々と西欧人の旅行者が、ベンゲット高原への途中で山岳地帯の山麓の丘陵地帯に到着しても、それからまだ ポニーに乗ってくねくねと曲がった山道を何マイルも進まなくてはならず、長い雨季の時期には 時々通行すら出来ない状態でした。  



ルソン島の山岳地帯では、イスラム教の支配地域と同じように、戦いに応じました。
訓練されたスペインの軍隊によって瞬く間に制圧され、何世代にも渡って スペインの政治・宗教的植民地化の多面的な戦略によって著しく変えられた ほとんどの低地の人々とは違って、そのますます敵対的で妥協のない高地の住人たちは、もっと平和的なスペインの申し入れすらも いつも拒否し、彼らのゴツゴツした領地に入ろうとする軍事的侵略にことごとく抵抗しました。 ほぼ三世紀に渡って、イゴロットは 根本的にスペイン化してしまう手順に屈服するのを頑強に拒否しました。 その手順とは、古典的な形としては 征服、政治的服従、キリスト教化、文化的スペイン化、そして恒久的な都市部への移住を意味していました。 スペイン人当局者にしてみれば、そのような抵抗は違法であるだけでなく、ひどく屈辱的なことでもあったのです。



p36
19世紀の40年代、スペインはついに山岳中心部の征服と植民化を開始し、一部は成功しました。 その長く延期されていた攻撃は1780年に成立した国家のタバコ専売に対するイゴロットの抵抗が盛んになったことによって刺激されたようです。 

p37
・・・彼らは頑強なイゴロットの抵抗の効果を著しく抑え、山岳中心部における進行中のスペインの駐留の開始を記すことになります。 これは1846年の高地における最初の持続的な植民行政単位の創出をもって正式のものとされました、つまり ベンゲットの軍政司令部
(comandancia politico―militar) と呼ばれたものです。


p38
ラ・トリニダッドの現実

スペイン人が出現するずっと前から、ラ・トリニダッドは北ルソンの山々の中では非常に重要な場所でありました。 Galveyが最初に ラ・トリニダッドの谷に着いたとき、彼は500の家屋(2,000人の民)で繁栄する村であり、森の丘陵と、ガベ(タロイモ)、さつまいも、そしてサトウキビがきちんと灌漑された畑に囲まれているのを目の当たりにしたのです。 しかしながら、スペイン軍の駐屯地に成る時までに、叉 頻発した軍事衝突により、残ったのは ほんの100家屋と失意の400人の人々でした。


p39
19世紀の最後の10年の間に、ベンゲットの州都はゆるやかに成長し、スペイン時代の終わりには ほぼ3,000人の小さな町になっていました。 さらには、その住民の人種の構成は近隣の高地定住地とは著しい対照をみせました。 本質的に同質のイゴロットのコミュニティとは異なり、ラ・トリニダッドは人々と文化においてかなりの程度の多様性を示しました。 特に目立つ少数外国人は、スペイン人、いくつかのその他のヨーロッパの一時滞在者、そして 少数の中国人が トップ(cabecera)の政治的、経済的生活を支配し、一方で、それに依存するイゴロットの労働者と 着実に増えていくイロカノ族の移住者が 人口の大多数をしめました。



p41
好奇心の強い人たちが中緯度で出来る色々な野菜やいちご類を実験的に作るにしたがって、スペイン人や他のヨーロッパ人たちも真剣にベンゲットの高地で大規模なコーヒー、カカオ、そしてお茶のプランテーションの開発を試みるようになりました。
確かに、すばらしいとまでは言えませんでしたが、その結果は注目に値するものでした。
アメリカがフィリピンを占領する時までに、ベンゲットの西欧人もイゴロットの農民も、すでにキャベツ、エンドウ豆、トマト、アイリッシュ・ポテト、そして いくつかの他の 涼しい気候に合う野菜を生産し始めていたのです。
これはかなり多様性のある作物ではありましたが、しかし、生産高はまだまだ限られていました。 いくつかのコーヒーや相当数の優れたポテトは、実際に、スペイン支配の後年にはかなり定期的にマニラへ出荷されました。
しかし、高地生産品のほとんどは、ラ・トリニダッドに住むヨーロッパ人や他のトップの人々に消費され、叉、新興保養地を長期に渡って訪れ始めた、増加する低地の人々によっても消費されたのです。
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# by janlbaguio | 2007-10-06 07:18 | History バギオの歴史

JANLの会員と組織について



会員
   会員は原則としてフィリピン・北ルソンに在住する日本人とその家族とする。
   会員は、正会員(世帯単位)と賛助会員に区分する。
   尚、賛助会員はその在住地を問わないものとする。
   又、国籍を問わず、一定の条件を満たす者を特別な会員として認める場合がある。
   (2010年7月改定)


組織
   北ルソン日本人会には 以下の組織を置く。
   - 発起人会(本会設立時に発起人として署名した者・叉はその後任の者)
   - 世話人会(代表・副代表・財務会計・書記)
   - 分科会 (分科会チーフおよびそのメンバー)
   - 総会  (正会員全員による)
   - 監査人 (世話人会は 毎年12月に 会員の中から監査人二名を選任する。)
   - 相談役 (外部相談役: 2010年7月より カルロス寺岡様)
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# by janlbaguio | 2007-09-30 00:57 | Org 会の組織

目的は?  方針は?  どんなことをやるの?

「北ルソン日本人会」の目的・方針は以下のとおりです: 

目的: 
フィリピン・北ルソン在住日本人家族の情報交換・相互扶助と、フィリピン国民との友好関係を推進するため、日比交流の歴史を踏まえて、日本の伝統・文化・芸術などを紹介し、フィリピンとのコラボレーションを喚起して一緒に楽しみ、地域に貢献する諸企画を実践する。

方針:

一、フィリピン・北ルソンに在住の日本人に最大限に開かれた、個性を尊重する堅苦しくない日本人の会であること。

二、地元において、対外的に良好な関係をつくり、フィリピンに「住まわせていただいている」という気持ちを忘れない日本人の会であること。

三、フィリピン永住者、リタイヤ滞在者、留学滞在者、長期出張者などの滞在理由を問わず、相互の情報交換、相互の助け合い等が楽しく出来る自由闊達な雰囲気であること。

四、バギオを中心とする北ルソンにおける、各種イベントの企画・参画について、会員の自由な発想、多才な才能、活動への積極性を最大限に尊重し、地元及び日本からの協力を得ながら、日比文化交流・友好推進に前向きであること。

五、日本とフィリピンの歴史をふまえ、フィリピンから学ぶとともに、日比交流図書資料センター設置、戦没慰霊碑の課題、日系人・新日系人への教育支援などについても取り組むこと。

六、「知・労・金・経」
メンバーは、知恵のある人は知恵を、時間のある人は労力を、お金のある人は寄付を、経験のある人は経験を、その状況に応じて無理なく、会の発展のために持てる才能を発揮すること。

七、 本会には 政治、宗教などの活動を持ち込まないこと。 ただし、個人の思想・信条・信仰はこれを尊重すること。














フィリピン バギオ 歴史 日本人 日系人 観光 旅行 退職者 PRA 戦没者
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# by janlbaguio | 2007-09-30 00:45 | 会の目的・方針

JANL 第一回(創立)総会 


2007年8月26日に発起人によって設立した北ルソン日本人会(JANL)が 9月29日に 広くメンバーを求めて第一回の創立総会を ABONG(アボン)会館で 開きました。

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会議では、JANLの目的・方針・活動計画、規約、会計方針などが説明され、決定されました。
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会議の後には、昼食会が開かれ、JANLメンバーのお手製の おでん、カレーライス、納豆料理、お寿司などで、日本料理を日頃口にすることが少ないメンバーも大満足。
おまけに、これもメンバーお手製の 饅頭まで並んで 子供達も殺到!
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高知県からのお客様や、日頃は「人と話するのも苦手」とおっしゃる方も・・・
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留学中の大学生、針灸師の先生や、日本語学校の先生・・・
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日系人会館の理事長さんや、スタッフの皆さんもご参加いただき・・・
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皆さんの歓談はいつまで続くのかと心配になるくらい 話が盛り上がって・・・
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代表は いつ片付けに入ろうかと 思案する始末となりましたが、
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名残惜しげに無事閉幕。 余韻が残る人たちは 大雨の中、メンバーのご自宅へと二次会になだれ込みました。

皆様、ご参加いただき 本当に有難う御座いました。
楽しい会、自由闊達な会を みんなで作っていきましょう。



(ここに掲載の写真は 古屋様にご提供いただきました。)
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# by janlbaguio | 2007-09-30 00:08 | Activity 活動内容

バギオの歴史を学ぶコーナー


このコーナーは バギオの歴史を書籍から学ぶコーナーです。
JANLの会員の一人である佐世たもつが 暇でしょうがない時に ぽつりぽつりと英語で書かれている書籍から 興味のあるところだけをつまみ喰いしながら 英語の勉強だと思って翻訳をしていきたいと思っています。 気長にお付き合い下さい。
尚、翻訳の間違いにお気付きの方は、是非ご指摘下さい。 

まず最初にご紹介するのは 次の本です:
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CITY OF PINES  
The Origins of Baguio
as a Colonial Hill Station
and Regional Capital
(「松の都市 
  ― 植民地の高原避暑地及び地域の主要都市としてのバギオの起源
」)
著者: Robert R. Reed

初版発行: 1976年3月 
発行者: Center for South and Southeast Asia Studies,
       University of California,
       Berkeley, California, USA
第二版発行: 1999年9月
発行者: A-Seven Publishing
       P.O.Box 274
      2600 Baguio City, Philippines

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<<<ご注意: 翻訳文中< >内の解説は翻訳者の調査による注釈です。>>>


まえがき

xxivページ
二十世紀の夜明けに造られて、バギオはすぐに典型的な高原避暑地となりました。 本当に、このアメリカによる植民定住は、南アジアの山岳地域とオランダ領東インドにおけるイギリスとオランダのリゾート地に直接影響され、それらをモデルとしたように思えます。
実際、バギオの創設者達は、ベンゲットにおける新しい夏の首都を、シムラ<Simla,インド北部>、ボイテンゾルグ<Buitenzorg,現在のインドネシアのボゴール>、ダージリン<Darjeeling,インド東部>やその他の主要な避暑地と比較して、その自然の美しさ、健康によい気候、すばらしいスポーツ施設、投資のチャンス、それに将来の見通しなどについて賞賛したものです。


xxvページ
個人的な手紙や、公式のレポートや、出版された記事などで、アメリカの管理者達は何度も、高原保養地の一般的有用性を訴え、バギオに於ける高くつく基盤整備投資を進めながら、アメリカ人、ヨーロッパ人、そして、マニラや他の低地の都市の裕福なフィリピン人のエリート層の中で、高地でのバケーションの健康上の利点を宣伝しました。

最初はフィリピン人やアメリカ人の反対もありましたが、「松の都市」と言う巧みに付けられた名称が、フィリピンの公式な首都として、第一次世界大戦前の十年以上にわたり役立ちました。 そして、リゾート、行政府、及び商業機能を組み合わせた力強いコミュニティーとなります。

1920年代と1930年代には、バギオは急速に成長し、すぐに 大きな健康・リクリエーション・センター、主要なマーケットの町、教育や宗教活動の拠点、広域の行政複合体、軍事訓練と休暇の舞台、そしてダイナミックな社交センターへと発展を遂げました。

第二次世界大戦の勃発によって、バギオは疑いも無く東南アジアで最高の高原避暑地の地位をしめ、年間に十万人の滞在者を魅了しました。 バギオは叉、交通の要所、医療および教育の複合体、山岳州の州都、軍の宿営地、そして製材業、鉱業、ツーリズム、野菜生産で知られる高地領域の管理本部として貢献することになりました。

そのような機能的多様性に応じるように、都市部人口は、1913年の3,500人から 1940年までには25,000人へと増加したのです。




(コーナーの2ページへ続く)
 
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# by janlbaguio | 2007-09-26 12:13 | History バギオの歴史