JANLファミリーの ご近所情報のコーナー


この「ご近所情報」コーナーでは、 JANL自身の活動ではありませんが、なんらかの形で、メンバーの家族や 関連・友好団体などに関わって、 JANLのメンバーやその家族が活躍している情報を お届けします。

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ML管理人
# by janlbaguio | 2007-10-28 16:36 | Neighbers ご近所情報

バギオの歴史を学ぶコーナー (3ページ目)

CITY OF PINES 「松の都市」
著者: Robert R. Reed

バギオのイメージ



p45
第一に、そして彼らの報告書の前文という形で、その三人の行政長官らは、次のような言葉で高原保養地に対する公共の要求を認め、これを支持したのです。

フィリピンに於いて長い間必要と感じられていたものは保養地の建設であります。 その保養地では、病状を回復させるイベリア半島の気候、叉は日本の気候、そして中国の海岸などを求めて、国を去ることを余儀なくされた数え切れない患者が、彼らの病気を癒し安心することを得られるかもしれないのです。 提案されているフィリピンの保養地は、医療・病院のサービスを補完することになるでしょう。 それは叉、病気の兵士、元気づかせるような気候の特性を必要とする病気の兵士、が完全に回復するでしょうし、長く深刻な病気で弱った者たちが回復期にあって、身体に滋養が必要な者たちが、徐々に蝕まれた力を取り戻すための適切な保護施設を設けることにもなるでしょう。


p47
<第二に・・・・・>
これらの<病気療養などの理由で海外に行かねばならない外貨の損失を減らすことが出来ると言う>高原保養地プロジェクトの予測される利益のほかに、スペイン人行政長官らは、もっと広範囲にわたる重要性から開発を考えていました ― つまり、山の住民のすみやかな近代化です。 ベンゲットと低地の間にしっかりした道路を建設することを通して、スペイン化されたフィリピン人の流入を促し、イゴロットを文化的、社会的、政治的、そして経済的に変えていく効果を期待したのです。  山岳地帯中心部に大規模な保養地兼リクレーション・センターを作ることによって、スペイン人は同時に、忠実な軍人に道徳的負債を返すこと、フィリピンからペソが流出するのを少なくすること、そして、ルソンの高地民族の近代化に資する事を提案したわけです。


第三に、これが一番重要なのですが、ベンゲット委員会が考慮していた問題は、フィリピンの高原避暑地をどこに置くかという選択の問題でした。 ラ・トリニダッドの多くの快適さは認めてはいましたが、その行政長官らは最終的に、究極の開発の可能性という点から、隣接するバギオの村の方がもっと優れた立地であることが証明されたと結論づけたのでした。 大規模な高原保養地の開発可能性にとって重要と考えられるあらゆる観点 - 健康によい気候、充分な水の供給、農業の将来性、燃料の入手可能性、リクレーションの可能性、そして低地との通信の繋がり - から、バギオが第一位にランクされそうでした。 このベンゲットの村の健康によい環境に関する長々とした解説と、多湿な熱帯地方における他の成功を収めた高原保養地との類似性にしたがって、スペイン人の行政長官らは、現在のバギオの立地場所に大規模な政府の病院を早急に建設するよう強く支持しました。



第三章  バギオの起源
      フィリピンの環境についてのアメリカの認識



p57
フィリピンの大多数のアメリカ人が、熱帯地方での帝国の冒険的試みには健康障害は付き物だと充分理解していたことは、ほとんど疑いありません。 実際、初期の植民地の記録 - 公的なものであれ、私的なものであれ - 何度となく、フィリピン群島の自然や病気の分布に関する長々とした解説が、強調されたのです。 
米国の陸軍がマニラの拠点から突然進出し、フィリピン群島の全域を征服しようと軍事作戦を開始して ほんの4ヶ月ほどすると、アーサー・マッカーサー司令官(ダグラス・マッカーサーの父)は、 「私の軍は 体調が崩壊に向っている。」としぶしぶ認めたのでした。  アメリカの兵隊は、赤痢、腸チフス、マラリア、そして他の多くの病気に襲われていたのです。  植民地全域における遠隔地のアメリカ人の病気や死亡率を大幅に減少させた公衆衛生の手法を医師団が開発し始めてから およそ二年後に、米国フィリピン委員会は、次の言葉で島国の健康状況について表明しました。

これらの島々において、整備された公衆衛生部門が出来れば、衛生条件の総合的な改善が図れることは自信をもって予測出来るかもしれないが、 湿地の低地で作戦を強いられる部隊や、あるいは 駐屯地を作るべきではない状況の中で出来た駐屯地の部隊は、 多かれ少なかれ、下痢、赤痢そしてマラリアにひどく悩まされるのは、疑いのない事実として残るだろう。



p63
残念なことに、頻繁に休暇を取るというのは、大抵は、裕福なビジネスマン、陸軍や海軍の仕官、そして地位の高い植民地官僚に限られていました; ほとんどの熱帯地域の西欧人はただ単に、ヨーロッパやアメリカに長期帰省する膨大な費用を払えなかったのです。
それに、植民地政府も、定期的に家族連れで西欧に帰省したいと願っている何千人もいる平均的公務員や軍人に、交通費や給料を支払うだけの財源を持ってはいなかったわけです。
有給休暇は、実際にほとんどのビジネスマンや政府職員に認められてはいたのですが、これらの休暇の頻度や報酬の形態は、常に、その地位、雇用年数、そしてもちろん、個々人の健康状態によって決まっていたのです。 しかしながら、植民地政府がいかに良く取り扱おうとしても、戦争中や伝染病が蔓延している間は、本土での休暇を取ることが認められる病人であっても、その膨大な人数を支援する充分な財源を確保することは出来ないことがしばしばあったのです。
アメリカがマニラを占領してほんの2年後に、米国フィリピン委員会は、この長引く苦境に関して、次のような論評をしたのです:

熱帯地域では、ひどい負傷や衰弱する疾病からの回復というのは、ゆっくり起こります。
これまでに、膨大な数の傷病兵を日本叉はアメリカへ療養のために送り出さなくてはならないと判明しました。 これには、極めて多くの費用と生命が頻繁に失われることも含まれます。 なぜなら、最も完璧な輸送船と病院船であったとしても、荒波の中での航海では、陸上では可能な病人への看護は 不可能だからです。

結果的にアメリカ人は、熱帯アジアのどこにでも居る西欧人と同じように、健康のための第五番目の処方 - 高原保養地 - を採用したのです。
# by janlbaguio | 2007-10-08 00:19 | History バギオの歴史

バギオの歴史を学ぶコーナー (2ページ目)


CITY OF PINES 「松の都市」
著者: Robert R. Reed

まえがき

xxviページ
現在<本書の第二版発行は1999年>の在住住民は26万人以上です。 それに、バギオ市には半永続的な学生のコミュニティーや主に臨時労働者からなる浮動人口があって、おそらく12万5千人を超えるものと思われます。 この人口は、バギオ経済の要である観光業が、毎年百万人ほどの人々を魅了していると言う事を付け加えなくても、ということになるでしょう。

1990年7月16日の大地震(マグニチュード7.8)は、死者600人、負傷者数千人、バギオ周辺に甚大な物的被害をもたらし、バギオは停滞と衰退に陥るであろうと思われました。 しかしながら、「松の都市」の市民は楽観主義と懸命な働きと実質的な公共事業や民間企業の投資を伴って、否定的な予測にすぐさま立ち向かったのです。
破滅的な地震に続く数ヶ月間のほとんど「テント村」でしたが、片付け作業はすぐに始まり、修復も2~3年にわたって順調に進みました。 バギオは復旧したにとどまらず、人口は増え、機能的な複雑さも拡大しました。


xxxviiページ 
1898年にアメリカがフィリピンに到着するとすぐに、北ルソンに高原避暑地を造ろうという<スペインの>アイデアが復活しました。 ディーン C. ウォーセスターと W. キャメロン フォーブスに率いられて、後者は 西欧人とフィリピン人も同様に利用するための高地の拠点を開発することを任され、フィリピン委員会は政府の公文書からスペインの計画を復活させ、計画された高原避暑地<スペインの計画はラ・トリニダッドだった>に最適なところはバギオであるとして、フィリピンにおける健康リゾートとリクリエーション・センターを複合したものの必要性を、ワシントンの当局者に納得させたのでした。
有名な都市プランナーである ダニエル H. バーンハムの協力を得て、叉、フィリピン人および西欧人双方のコミュニティ内部からの激しい、そして長期にわたる反感にもかかわらず、アメリカの植民地総督は広大な高原避暑地を二十世紀の最初の十年の間にバギオに造り上げたのでした。 1910年までに、バギオはフィリピン群島の公式の夏の首都として機能しはじめ、山岳州における先導的ハイランド・タウンとなりました。
現在、バギオはフィリピンのバケーションのメッカおよび北ルソン最大の都市として残っています。 こうして、アメリカ植民地支配の初期に確固たる基礎がつくられたことを物語っているのです。



第一章  東南アジアにおける植民地定住

p3
スペイン人によって築かれた東南アジア植民地の低地の全域に及ぶ戦略的地点での定住とは異なって、バギオはフィリピン人のスペイン化及びキリスト教徒化を促進する目的で創られたものではありませんでした。 さらに、北ルソンの山岳の人々の政治的、経済的そして社会的進歩を育てるために組織されたモデルとなる地方の首都として、フィリピン独自に一番の高地の中心地を創るということでもありませんでした。 そうではなく、初期の計画、建設および推進に携わった植民地管理者たちは、それを本質的に、その当時フィリピンの暑くてムシムシした低地にのみ居住していた裕福なアメリカ人、スペイン人化されたメスティーソ、スペイン人、そして他のヨーロッパ人に提供するものとして設計された典型的な高原避暑地と認識していたのです。  

p19
スペイン人は、フィリピンのすべての主な島々の山岳民族を、征服し、改宗させ、管理することに非常に熱心でしたが、その継続的努力はほとんど効果がありませんでした。 
何度にもわたる遠征は―大規模なものも小規模なものも、軍事的なものや宗教的なものも―北ルソンの反抗的なイゴロット<北ルソンの山岳地帯に住む民族の総称。 スペイン人による蔑称とされる。>やフィリピン群島のその他の様々な高地の人々に対するものでしたが、 マニラの植民地行政府は それらフィリピンの山岳民族を掌握することが出来ませんでした。  実際のところ、19世紀の後半まで、スペイン人の権威は薄弱で、ルソン島やビサイヤ諸島の山岳地帯には及びませんでした。 



第二章  フィリピン北部におけるスペインの保養地
        軍隊の序曲


p31
初期の病後療養中の患者の為に元々作られたのは小さな高地定住地ーベンゲット州のラ・トリニダッドーで、現在のバギオの立地場所に近いのですが、例えば、これは ルソン島の山岳地帯の中心に住む非常に反抗的なイゴロットの人々に対する スペイン軍の作戦が引き続いて成功を収めた数十年以内に出来たのです。

19世紀最後の10年に先立ち、実際、植民地の首都から北部へ行く陸路による旅行は、困難を極め、予測が出来ず、叉時間も掛かりました。 その当時の低地の幹線道路は、未舗装の道が分割された状態にすぎず、南西モンスーンの発生とともにぬかるみと化していたのです この状況は1891年にいくぶん改善されました。 その年にマニラとダグーパン間に鉄道が完成したからです。 しかし、さらに次々と西欧人の旅行者が、ベンゲット高原への途中で山岳地帯の山麓の丘陵地帯に到着しても、それからまだ ポニーに乗ってくねくねと曲がった山道を何マイルも進まなくてはならず、長い雨季の時期には 時々通行すら出来ない状態でした。  



ルソン島の山岳地帯では、イスラム教の支配地域と同じように、戦いに応じました。
訓練されたスペインの軍隊によって瞬く間に制圧され、何世代にも渡って スペインの政治・宗教的植民地化の多面的な戦略によって著しく変えられた ほとんどの低地の人々とは違って、そのますます敵対的で妥協のない高地の住人たちは、もっと平和的なスペインの申し入れすらも いつも拒否し、彼らのゴツゴツした領地に入ろうとする軍事的侵略にことごとく抵抗しました。 ほぼ三世紀に渡って、イゴロットは 根本的にスペイン化してしまう手順に屈服するのを頑強に拒否しました。 その手順とは、古典的な形としては 征服、政治的服従、キリスト教化、文化的スペイン化、そして恒久的な都市部への移住を意味していました。 スペイン人当局者にしてみれば、そのような抵抗は違法であるだけでなく、ひどく屈辱的なことでもあったのです。



p36
19世紀の40年代、スペインはついに山岳中心部の征服と植民化を開始し、一部は成功しました。 その長く延期されていた攻撃は1780年に成立した国家のタバコ専売に対するイゴロットの抵抗が盛んになったことによって刺激されたようです。 

p37
・・・彼らは頑強なイゴロットの抵抗の効果を著しく抑え、山岳中心部における進行中のスペインの駐留の開始を記すことになります。 これは1846年の高地における最初の持続的な植民行政単位の創出をもって正式のものとされました、つまり ベンゲットの軍政司令部
(comandancia politico―militar) と呼ばれたものです。


p38
ラ・トリニダッドの現実

スペイン人が出現するずっと前から、ラ・トリニダッドは北ルソンの山々の中では非常に重要な場所でありました。 Galveyが最初に ラ・トリニダッドの谷に着いたとき、彼は500の家屋(2,000人の民)で繁栄する村であり、森の丘陵と、ガベ(タロイモ)、さつまいも、そしてサトウキビがきちんと灌漑された畑に囲まれているのを目の当たりにしたのです。 しかしながら、スペイン軍の駐屯地に成る時までに、叉 頻発した軍事衝突により、残ったのは ほんの100家屋と失意の400人の人々でした。


p39
19世紀の最後の10年の間に、ベンゲットの州都はゆるやかに成長し、スペイン時代の終わりには ほぼ3,000人の小さな町になっていました。 さらには、その住民の人種の構成は近隣の高地定住地とは著しい対照をみせました。 本質的に同質のイゴロットのコミュニティとは異なり、ラ・トリニダッドは人々と文化においてかなりの程度の多様性を示しました。 特に目立つ少数外国人は、スペイン人、いくつかのその他のヨーロッパの一時滞在者、そして 少数の中国人が トップ(cabecera)の政治的、経済的生活を支配し、一方で、それに依存するイゴロットの労働者と 着実に増えていくイロカノ族の移住者が 人口の大多数をしめました。



p41
好奇心の強い人たちが中緯度で出来る色々な野菜やいちご類を実験的に作るにしたがって、スペイン人や他のヨーロッパ人たちも真剣にベンゲットの高地で大規模なコーヒー、カカオ、そしてお茶のプランテーションの開発を試みるようになりました。
確かに、すばらしいとまでは言えませんでしたが、その結果は注目に値するものでした。
アメリカがフィリピンを占領する時までに、ベンゲットの西欧人もイゴロットの農民も、すでにキャベツ、エンドウ豆、トマト、アイリッシュ・ポテト、そして いくつかの他の 涼しい気候に合う野菜を生産し始めていたのです。
これはかなり多様性のある作物ではありましたが、しかし、生産高はまだまだ限られていました。 いくつかのコーヒーや相当数の優れたポテトは、実際に、スペイン支配の後年にはかなり定期的にマニラへ出荷されました。
しかし、高地生産品のほとんどは、ラ・トリニダッドに住むヨーロッパ人や他のトップの人々に消費され、叉、新興保養地を長期に渡って訪れ始めた、増加する低地の人々によっても消費されたのです。
# by janlbaguio | 2007-10-06 07:18 | History バギオの歴史

JANLの会員と組織について



会員
   会員は原則としてフィリピン・北ルソンに在住する日本人とその家族とする。
   会員は、正会員(世帯単位)と賛助会員に区分する。
   尚、賛助会員はその在住地を問わないものとする。
   又、国籍を問わず、一定の条件を満たす者を特別な会員として認める場合がある。
   (2010年7月改定)


組織
   北ルソン日本人会には 以下の組織を置く。
   - 発起人会(本会設立時に発起人として署名した者・叉はその後任の者)
   - 世話人会(代表・副代表・財務会計・書記)
   - 分科会 (分科会チーフおよびそのメンバー)
   - 総会  (正会員全員による)
   - 監査人 (世話人会は 毎年12月に 会員の中から監査人二名を選任する。)
   - 相談役 (外部相談役: 2010年7月より カルロス寺岡様)
# by janlbaguio | 2007-09-30 00:57 | Org 会の組織

目的は?  方針は?  どんなことをやるの?

「北ルソン日本人会」の目的・方針は以下のとおりです: 

目的: 
フィリピン・北ルソン在住日本人家族の情報交換・相互扶助と、フィリピン国民との友好関係を推進するため、日比交流の歴史を踏まえて、日本の伝統・文化・芸術などを紹介し、フィリピンとのコラボレーションを喚起して一緒に楽しみ、地域に貢献する諸企画を実践する。

方針:

一、フィリピン・北ルソンに在住の日本人に最大限に開かれた、個性を尊重する堅苦しくない日本人の会であること。

二、地元において、対外的に良好な関係をつくり、フィリピンに「住まわせていただいている」という気持ちを忘れない日本人の会であること。

三、フィリピン永住者、リタイヤ滞在者、留学滞在者、長期出張者などの滞在理由を問わず、相互の情報交換、相互の助け合い等が楽しく出来る自由闊達な雰囲気であること。

四、バギオを中心とする北ルソンにおける、各種イベントの企画・参画について、会員の自由な発想、多才な才能、活動への積極性を最大限に尊重し、地元及び日本からの協力を得ながら、日比文化交流・友好推進に前向きであること。

五、日本とフィリピンの歴史をふまえ、フィリピンから学ぶとともに、日比交流図書資料センター設置、戦没慰霊碑の課題、日系人・新日系人への教育支援などについても取り組むこと。

六、「知・労・金・経」
メンバーは、知恵のある人は知恵を、時間のある人は労力を、お金のある人は寄付を、経験のある人は経験を、その状況に応じて無理なく、会の発展のために持てる才能を発揮すること。

七、 本会には 政治、宗教などの活動を持ち込まないこと。 ただし、個人の思想・信条・信仰はこれを尊重すること。














フィリピン バギオ 歴史 日本人 日系人 観光 旅行 退職者 PRA 戦没者
# by janlbaguio | 2007-09-30 00:45 | 会の目的・方針