フィリピン・バギオに住むなら知っておきたいこと - 日系人とシスター海野

バギオ市に滞在するのであれば、是非とも知っておきたいこと。

それがシスター海野と日系人の話です。


ここでは、2018年3月25日に開かれる勉強会で使われる資料の一部をご紹介します。



「バギオの虹 - シスター海野とフィリピン日系人の100年」

鴨野守著 2003年初版

..

第三章「神の使い」シスター海野

..

1972年1月19日。 六十歳の定年を迎えたシスター海野は修道会の許可を

得て、マニラの地に降り立った。 三か月近く、ケソン州で身体

障害者の世話をしてすごしたのだが、マニラの灼熱は酢スター海野

の体にこたえた。避暑地として有名なバギオ市で、しばらく静養

してはどうかと周囲は勧めた。

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ベンゲット道路を走るバスの車中で、シスター海野は見知らぬ人から、

「あなたは日本の方ですか。 この道路は、かつて日本人労働者

が出稼ぎに来て、尊い犠牲を払いながら建設したものですよ」と

話しかけられたという。

・・・「その日本人の子孫は今、どうしているのだろうか」と

いう疑問を持つ。

..

シスター海野はこんな言葉を残している。

「ここ(フィリピン)に来る前に、戦争の残した傷のことは知

っていました。だから、この国に来ました。物質のためだけではな

くて、心のために来ました」と。


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「或日私の小さいラジオが悪くなったので一つの小さな店に入

って聞いた。その人は、カタリを照介してくれた。・・・・」

私は、シスター海野と最初に会った日系人、大久保さだえ(カタ

リナ・プーカイ)をバギオ市内の自宅に訪ねた。 さだえは、

小学校の教師をして戦後を過ごした。

..

父大久保登は1894年、広島県に生まれた。三十二歳の時に来比。

・・・七人の子をもうけた。全員が戦前に生まれたが、幸い誰も

戦争で亡くなることはなかった。父が家の近くに造った防空壕が、

彼らの命を守った。バギオ日本人学校の三年生まで通っていた

さだえには、バギオに残っている日系人だけで約三十人ほどの見当

はついていた。

..

・・・さだえが最初にシスターに引き合わせたのが、オセオ浜田

だった。オセオ浜田もまた戦後、日系人であることを隠さずに生

きていた例外的な存在だった。 戦後すぐに印刷所を経営し、

週刊の新聞も発行していた。彼が迫害を受けなかった一つの要因は、

結婚した女性が地元で影響力のある家系であったということが大きい。


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シスター海野のもとに集まった日系人は二十八人。 

・・・二か月後の会合には百二十五家族が参加。 五年後には

約一千人日系人がシスターの手で探し出されたのであった。

1973年6月2日、再び日系人がバラバラにならないよう

にと組織化されたのが、「北ルソン比日友交協会」である。

初代会長にオセオが就任した。

..

二世は口々に、自分は父親から「正直でありなさい」とよく

言われましたと答えた。 そして、父がしばしば口にした言葉

「誠実」「勤勉」だったという。

..

「・・・どういう援助をしてほしいですか」

二世らの発言はシスターの予想を見事に裏切った。

「シスター、私たちは貧しさには慣れています。私たちのこと

は心配しないでください。 しかし、私たちはたくさんの子ども

を持っております。貧しさから抜け出すために子どもたちに教育

を授けてください

..

シスター海野が、バギオの日系人たちに約束した奨学金制度は、

その後見事に開花し、今日なお多くの善意が日本から送られて

継続されているが、その発端はシスター海野の遺骨収集にある

..



「この方々の生活状態、戦前、戦後、戦時中に起こった事等

云い知れぬ苦しみ貧しさを知り強く生き抜いてきた事、日系

たるがゆえに不利な立場に置かれた事、各家庭の悲しい歴史等を

聞いて歩いて私の感じたのは、終戦を迎えたが、戦後の片付けは

終わっていない

..

「本当に道のないところではシスターを引っ張ったり、高い所

へはシスターのお尻を押して上りました。・・・」・・・一緒に

遺骨収集に同行した東地初子は・・・・懐かしそうに当時を語った。

..

骨がバラバラに散乱しているのを見るのが辛かったですね。

これを日本に戻してやりたい、その一心でした。好きで兵隊

さんになったわけでもない人もいれば、この地で餓死したり、

病死された方も多いことでしょう。それをそのまま、野ざらしに

して置いたのではあまりにも亡くなられた方が惨めです」


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病院の跡地と思われる場所では、たくさんの遺骨がびっしりと

重ね合わさって発見された。 そこが、遺体の安置された場所

だったのだろう。時には靴やボタン、メダルの着いた軍服が発見

された。名前の刻まれた服が日本の遺族の手に届けられたこともある。

..

元軍人たちにとって、亡き戦友の遺骨を探し、弔ってくれることほど

ありがたいことはないのだ。

そのお礼に何かをしたい、と申し出があれば、シスター海野は

日系人たちの戦後の窮状を語り、その子らへの教育支援を要望した。

こうして1974年、4人の大学生が初めて奨学金を受けること

ができた。

...

農協づくりの目的を「貧しい農民を援助するには、彼らに組織が必要であり、

彼らに助け合うことの大切さ、自立心を植え付けたい」との考え

からだと説明している。

..

時を同じくして進められたのが、農業の基盤整備だった。つまり

農作物を運ぶ農道の整備、灌漑用のため池の設置、飲料水用井戸、

洪水対策などである。

..

正式調印の話を病床のシスターに報告すると、シスターは

「早く工事が完成し、皆が喜ぶ顔が見たいです。これが完成する

まで私はしねません」と話した。

だが、シスター海野は工事の完成を見ることなく1989年の12月31日、

永遠の眠りにつく

..

..

1983年2月20日。 ベンゲット道路建設のために日本人が出稼ぎに来て

から80周年を祝う式典が行われた。

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同じくこの日はバギオの日本人墓地の一角に建てられた納骨堂の

落成式が行われた。 納骨堂には、戦前戦中にバギオで亡くなった

日本人の名前刻まれている。

..

1986年11月には、日比親善友交会館・アボンが開設した。

・・・かつて修道院だったこの施設はその後増築し、日本から

訪問した人たちが宿泊できる施設も備えている。

1989年11月18日。 シスター海野がオセオ浜田らと日本の関係者の

支援を得て強力に推し進めてきたベンゲット道路展望台

(ビューポイント)落成式が行われた。


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「これが最後の仕事になるかもしれない」と周囲にもらして

いたベンゲット道路ビューポイントの完成を見届けてから40日

後、1989年12月31日午後10時50分頃、シスター海野

は永遠の眠りにつく。

...

生前、「第二の人生を喜びに満ちたものにしてくれたフィリピン

が大好きです。フィリピンの土になりたい」と語っていたシスター

海野のお墓は、日本人墓地の納骨堂の向かいにひっそりと立っている。


===========



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filipino japanese foundation of northern luzon inc. baguio city, philippines
filipino japanese friendship association of northern luzon
a book about sister Unno
abong






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# by janlbaguio | 2018-03-21 23:41 | History バギオの歴史

3月25日(日)「バギオと日本人・日系人の歴史」の勉強会を開催します


北ルソン日本人会主催の勉強会についてのご案内です。

以下のような勉強会・セミナーを開きます。
ご興味をお持ちの方がいらっしゃいましたらどなたでも是非ご参加下さい。

勉強会・セミナー・タイトル:「バギオと日本人・日系人の歴史」
  
趣旨:  バギオと日本人・日系人に関する歴史を3冊の本から学ぶ

- City of Pines - The Origins of Baguio
    as a Colonial Hill Station and Regional Capital
(「松の都市 ― 植民地の高原避暑地及び地域の
        主要都市としてのバギオの起源」)
   著者: Robert R. Reed

- JapanesePioneers in the Northern Philippine Highlands

 ( 北部フィリピン高原に於ける日本人開拓者たち)

  著者: パトリシア O. アファブレ ほか


- 「バギオの虹-シスター海野とフィリピン日系人の100年」

  鴨野守著 2003年初版


日時:  3月25日(日) 2pm-4pm

会場:  アボン会館・シスター海野記念ホール(日系人会館)
     (レガルダ・ロードのプリンス・プラザ・ホテルとパレス・ホテルの
      前の路地を入り、徒歩1分、Vホテルの前)

対象:  JANLのメンバー及び英語学校関係者、留学生など一般の方
     (バギオのことを基礎知識として知りたい方向けの内容です。)
     
ファシリテーター: 北ルソン日本人会の代表が
          3冊の本や見聞きしたことを含めてお話します。

参加費: 無料
   
懇親会: 勉強会終了後 徒歩圏にある居酒屋で懇親会を致します。
     (参加自由、お一人200ペソ見当)
   
以上、お友達をお誘いの上 ご参加ください。
ご案内まで。

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# by janlbaguio | 2018-03-19 10:47 | Activity 活動内容

ある日系二世と山下奉文大将 - 河崎明彦著「或る英雄」


知人からお借りした本をご紹介します。

河崎明彦著「或る英雄」の副題は

「日本軍に見捨てられた日系二世」とあります。

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この著者の略歴は下に写真で掲載することにしますが、

1938年から1942年まで兵役を務め、本文には次のような

記載があります。

・・・・

「私と馬の付き合いは、昭和十四年(1939)の新春があと十日

という忙しいときに入隊、機関銃隊に配属されたからである・・・」

「四月、我々初年兵も一通りの戦闘訓練は終了、北支・山西省・

聞喜県に駐留する派遣軍に追及した。」

・・・とありますので、大戦中にフィリピンでの戦争経験が

ある方ではないようです。

・・・・

この本はプロの文筆家が書いたものではなく、自分史として

書かれているものですので、個人的な内容がほとんどで、

過去にバギオ周辺の歴史などを様々な資料で読んだものに

照らしてみると、書いてある内容がやや異なっている部分が

あるのですが、ここにこの本を敢えて紹介するのは、バギオ市

の日系二世の悲惨な人生を取り上げてあるからです。

それは、この本の著者がマニラのキリスト教会・フランシスコ

修道院との交流があって、そこを通じての日系人との接触が

契機になったようです。

・・・

ここには二人の日系二世の戦中・戦後のことが書かれています。

ひとりは「スパイの娘」とされた テレシータ・グスマン

(日本名 椿タツ子)で、タツ子の父は1909年に

フィリピンに渡り北部ルソンのバヨンボンに住んでいた。

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もう一人は、バギオ生まれの日系二世である東地琢磨。

彼は軍属の通訳としてバヨンボンの憲兵隊に配属され、

後に山下奉文大将の通訳となっています。

・・・・

バヨンボンという町は穀倉地帯であり、一時期には

マニラなどからの邦人避難民が農作物をつくり、

日本軍への食糧供給基地としても機能していたようで、

バギオ市の北にあるハルセマ・ハイウエイの21キロ地点

から「山下道」と呼ばれる山岳道路でつなぐ計画でした。

・・・・

椿の家の生活は「裕福で七人の子女に恵まれ平和な家庭を

営んでいた。タツ子もミッション・スクールを卒業し

美しく成長していた」とあります。

・・・

しかし、「ある夜、顔見知りの現地人に父は呼び出された。

父は何の疑いもなくすぐ帰ると言って出かけたまま、

その夜は帰宅しなかった。 翌朝父は惨殺死体で発見された」

これは抗日ゲリラによるものと思われますが、

戦時中の日系人の立場は微妙なもので、フィリピン人の中

でも、米軍寄りと日本軍寄りのグループがあって

フィリピン人同士での憎しみにも繋がった事例があります。

・・・・

「・・・やむなくタツ子は幼い弟妹を連れて人目を避ける

ように山中徘徊がはじまった。」

「東地琢磨はこんな子供達に同情し夜陰に紛れて衣食を

運んでくれるようになった。」

..

・・・・その後、琢磨とも音信不通になるのですが、

その琢磨の方にはさらに悲惨な運命が待っていました。

フィリピンでの戦犯処刑の立会人だったとされる日本人の

方の手紙の文面が紹介してあります。

・・・

「1946年(昭和21)2月23日午前3時、山下大将

(第十四方面軍司令官陸軍大将山下奉文)の処刑が始まり、

三人目の方が東地琢磨さんでした。 私は山下大将の処刑に

立ち合ったのですが、東地さんは、カトリックの信者なので

米軍の従軍牧師が立ち合いました。 刑場の模様、絞首刑の

方法がどんなものであったかはお話できます、無論遺族の

方々にお話しできるようなことではありません」


・・・

では、ここで 東地琢磨さんのことが書いてある部分を

引用します:

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「東地琢磨の故郷バギオは1945年(昭和20)4月23日

陥落した。 それよりさき、戦況を危惧した琢磨は、日系住民

に対し避難を勧めて歩いた。」

「6月に入って第十四方面軍司令部は、アシン川付近の

山岳地帯に集結、複廓陣地を構築し各兵団ごとに自活自戦

を命じ永久抗戦に入った。」

・・・・

「銃火器、弾薬、食糧の尽きた状態は戦うこと自体すでに

限界だった。山岳地帯に辛うじて辿り着いた数万の将兵と

一般邦人の老幼男女はいずれも栄養失調による疫病に罹り

風土病に冒され、つぎつぎ斃れていった。」

・・・

「一方前線では軍司令部左正面陣地を確保する警戦隊

第三大隊に琢磨はいた。・・・・琢磨はバギオ陥落の際、

任務を解いてもらいたかったが上官から「日本軍の敵に

なるのか」といわれ、辞めると殺されると思った。

と後の裁判中に証言をしている。」

・・・

「8月31日、山下大将は副官を帯同して降伏調印の

ため山を下りていった。」

「連合軍法廷は重要戦犯容疑者を指名して来た。

比島憲兵隊バヨンボン分隊通訳、軍属東地琢磨はその内

の一人として指名された。」

・・・

「東地琢磨は1923年(大正12)2月、ルソン島

ほぼ中央にあるバギオ市で、日本人を父、フィリピン人を

母として生まれた。 バギオの日本人小学校を卒業後、

カトリック私立校セントルイス校を働きながら勉学、卒業した。」

...

「憲兵隊での彼は、語学の優秀さを認められ、バヨンボン分駐所

が設立されるや軍通訳としてバギオ分隊から転出していった。

彼の悲運のスタートである。琢磨十九歳の6月だった。」

・・・

「ある日、米比軍ゲリラ三人を捕らえた。 ・・・当然処刑

という問題が生じたが彼は三人の助命を願い、その条件として

彼らを逆スパイとして使うことを具申・・・・」

・・・

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「たった一枚の遺書は父の手に渡った、2月20日付けの

トイレットペーパーに託されている。「大親分(山下大将)

と親分(太田大佐)を案内して行くから自分は満足であるが、

テレシータ(椿タツ子)の行く末が心残りである」

琢磨の遺書は父の手により、彼が見ることのなかった日本の

故郷の墓所に納められた。」

・・・

「バヨンボン分駐所で起訴されたのは二名のみである。

即ち松田分隊長と東地である。 ・・・・(松田分隊長は

無罪の宣告を受け帰国した)。」

・・・

「なぜ? 東地は黙して語らなかった。それは自分に不利に

なることを承知で、彼らを戦犯にしてはならない、故郷へ

帰さねばならなかったからである。 ・・・・

マニラ法廷で東地は松田分隊長と逢ったとき、「隊員の名前は

一切出していません、ご安心下さい」との証言を分隊長に

告げている。」

・・・

・・・

=== 合掌 ===

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# by janlbaguio | 2018-03-10 02:29 | History バギオの歴史

45年目の「バギオ戦没者慰霊祭」が開催されました。WWII Memorial Service in Baguio city


2018年2月20日、毎年恒例となっている「バギオ戦没者慰霊祭」が
バギオ市の戦没者慰霊日本庭園(通称:ジャパニーズ・ガーデン)で開催されました。

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今回の慰霊祭では、主催者である「日比国際友好協会」より、このような小冊子をいただきました。


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この資料によりますと、
「昭和46年8月、バギオライオンズクラブの発起によりバギオ市内に
日比両国の戦没英霊を慰めるとともに日比親善、世界平和のシンボルとして、
両国友愛の公園建立の議が起こり・・・・」
となっており、

「昭和48年(1973年)2月11日・・・バギオ市長・・・
バギオライオンズクラブ・・日本国大使館・・・協賛会・・・
生還者、遺族・・・羽生市長・・・日蓮宗本長寺・・・
除幕式が終了いたしました。」

ここにこの戦没者慰霊日本庭園が完成したと記録されています。

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この <比島戦没者慰霊会の歩み> には、昭和48年(1973年)2月11日の
公園の完成に際しては、日本側180名、フィリピン側400名の参加があり
式典が執り行われたとあります。
そして、2018年の今回は45年目の慰霊祭ということになりました。


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主催者の連絡先などは、上のとおりです。

会場となっている「ジャパニーズ・ガーデン」の場所は、


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「ガバナー・パック・ロード」と「ユーピー・ドライブ」が交差している三角形の公園です。
(ユーピーとは、U.P.=フィリピン大学バギオ校のことです。)

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日比国際友好協会会長、大阪の本長寺から毎年慰霊団を引率されている瀬川住職。

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日本からの慰霊団の皆様、日系人会・アボンの皆様、北ルソン日本人会の皆様、
バギオライオンズクラブの皆様、そしてバギオ訪問中の日本人の皆様なども
参列されました。

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在フィリピン日本国大使館より、河内参事官が大使名代で参列されました。

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日系人会・北ルソン比日基金(アボン)からはカルロス寺岡理事長が献花されました。


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日本からの慰霊団の方々や、北ルソン日本人会のメンバーなどが、献花と焼香を行いました。

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戦前・戦中・戦後の困難な時代を乗り越えてこられた日系二世の女性。
そして、熊本からは、「バギオで死亡」の公報だけで、他の情報がなにもないと
おっしゃる遺族の男性も急遽参加されました。

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日系人会アボンのスタッフの皆様などが中心になって、公園の管理、慰霊祭会場設営などをされています。

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今後も恒久平和を祈って毎年皆さんが集う慰霊祭となっていくでしょう。


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式典には参列が叶わなかった ドモガン・バギオ市長も、夕刻の懇親会に
参加され、日本国大使館の河内参事官、アボンの寺岡理事長、慰霊団の皆様などと
親しく言葉を交わされました。


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ご参列いただいた皆様に御礼を申し上げます。


    














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# by janlbaguio | 2018-02-21 18:54 | History バギオの歴史

ベンゲット州ATOK町Paoay地区の「桜パーク」Benguet-Kochi Sisterhood(Sakura, cherry blossom)Park

2018年2月17日にJANLメンバー4名で

ベンゲット州ATOK町にある

Benguet-KochiSisterhood(Sakura)Park

(高知県・ベンゲット州姉妹交流(桜)公園)を見学に行ってきました。

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まずは、こちらの「高知県・ベンゲット州友好新聞」の記事を

ご覧ください。

・・・

「2016年6月6日、当推進会議会長の吉川浩史をはじめとする

有志一行8名が、ベンゲット州アトック町にある姉妹交流公園の

予定地を訪問し、フィリピン政府及び州町の関係者、在フィリピン

日本国大使館の職員、公園予定地の地主、帰国農業実習生らと

ともに桜や地元の樫の苗木を植樹しました。」

http://www.kochi-kia.or.jp/organ/benguet/no19.pdf


・・・・

今回の見学会は、場所を見に行くことが目的で、植樹後2年ですの

で、桜の花は時期的にも開花していないだろうと思っていましたが、

幸運にも3本の木に数房の可憐な花を見ることができました。

通常は、桜の木の成長は花が十分につくまでには5年から10年を

要するそうですので、2020年以降にならないと見ごたえのある

桜の木を期待することは出来ないかもしれません。

・・・

この見学会では、土地の所有者のお孫さんにご案内いただき

説明を聞くことができました。

植樹された桜は34本ですが、品種としては「椿寒桜(雪割桜)」と

「センダイヤ(仙台屋)」の二種類だそうです。

・・・

しかし、残念なことには、センダイヤはこの土地に十分に根付く

ことができず花も咲いていません。

今回見ることが出来た花は「椿寒桜(雪割桜)」だけでした。

では、その数少ない 高知県からはるばるやってきた桜の花を

ご覧ください。


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公園の敷地の一番奥にある この木には 一番多くの花が咲いていました。

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クローズアップしますと・・・

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角度を変えると・・・・なかなか可憐で美しい 雪割桜です。

    

・・・

高知県の雪割桜については、このような記事がありました。

2月中旬~3月中旬に、濃い桃色の美しい花をつける雪割り桜。

正式にはツバキカンザクラ(椿寒桜)と言いますが、2月の

まだ雪のある頃に咲くことから、雪割り桜と地元の人々に

親しまれています。」


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桜公園には 休憩所やトイレも準備されています。

ただし、駐車場は2~3台分ぐらいしかありません。

そして、この牛さんは 敷地内の雑草の管理人だそうです。

・・・・


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公園の入口、休憩所の近くの一本。


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近づいてみると 今から満開になるところです。


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休憩所の屋根には 小鳥たちが遊んでいました。


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残るもう一本は こちらの小さい木です。

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やっと咲いているという雰囲気です。

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角度を変えて見ますと・・・・


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公園の入口近くから奥の方、右側の様子。


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これが 入口近く左側方向。

事務所兼休憩所の小屋があります。


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2018年2月現在は、まだ町の条例が出されて

いないため、入場料がありませんが、この休憩所に 

DONATION BOX(寄付金箱)が用意されています。

桜パークの維持と桜の手入れの為に 宜しくお願いします。

・・・

また、訪問客の記録簿も用意されていますので、

記念に記帳をされてはいかがでしょう。

特にマニラからの観光客が多いようです。

  

・・・・

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この地区は、野菜農場が広がっている中にありまして、

公園の土地の所有者の話によれば、ベンゲット州を

始めフィリピン観光省などもこの桜パークの周辺の整備

には意欲を持っているとのことです。

・・・

ちなみに、様々なマスコミで報道がされています:

CNN フィリピンの報道。

この記事では、高知県とベンゲット州の姉妹提携40周年

記念事業であることが書かれています。

Officials of Atok, Benguet, along with officials from the

Kochi prefecture and Japanese embassy planted over

30 cherry blossoms and other kinds of trees from Japan

on Monday to celebrate the 40th anniversary of sister

hood ties between Japan’s Kochi prefecture and

Benguet province.

http://cnnphilippines.com/regional/2016/06/07/sakura-park-cherry-blossom-benguet.html

・・・

こちらは地元紙サンスター・バギオの記事です。

こちらで書かれている桜の品種の名称は微妙に

間違っています。

正しくは Yukiwari sakura と Sendaiya sakura です。 

BENGUET. A lady appreciates a Japanese Yakiwari Sakura

(commonly called cherry blossom) at the Sakura Park in Paoay, Atok,

Benguet, where more than 30 trees of Yakiwari and Sindaya Sakura varieties had been planted.

http://www.sunstar.com.ph/baguio/local-news/2017/05/07/sakura-trees-start-blooming-benguet-540568


・・・・


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さて、それでは、この桜パークへの行き方をご案内しましょう。


ー バギオ市からベンゲット州アトック町パオアイ地区

  までは およそ50キロメートルあります。

ー バギオ市から ラ・トリニダッド町を抜け、 

  ハルセマ・ハイウエイを利用します。

ー 乗用車の場合は片道2~2.5時間、

  バス利用の場合は3時間前後かかります。


― Atok Municipal Hall アトック町の町役場が

  ハルセマ・ハイウエイ沿いにあります。

ー 町役場の数百メートル先にこのようなバスの停留所

があります。


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ー バギオ市からサガダやボントック方面に向かうバスで

  あればどこのバス会社でも大丈夫とのことです。

  GL TRANSなど数社が運行しているようです。

ー このバス・ストップからさらにハルセマ・ハイウエイを

  数百メートル先まで歩くと、このような標識が道路

沿いに出ています。


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ー 桜パークは、この標識から左の農道に入って、

  1.6キロメートルのところにあります。

ー 農道の入口はこのような感じです。

  

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ー ちなみに、この地点をうっかり見逃して通り過ぎると、

  車で数分先のところ(約1キロメートル)に 

  Highest Point という観光スポットがあります。

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ー この「ハイエスト・ポイント」と言うのは、

  フィリピンの国道の中で、一番標高が高い所という

  意味です。 看板にあるように7千4百フィート、

  (=2,255メートル)だそうです。


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ー 観光客やバイク族で賑わっています。

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ー 桜パークに行く時には、是非この展望台へも足を

  延ばしてはどうでしょう。


・・・・・


さて、桜パークへの入口の看板に戻ります。

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この看板の前にあるV字の入口を入ります。


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この農道に入ったら、あとは道なりに真っすぐ進みます。


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素晴らしい山並みが見えています。


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農道の途中に このような案内板が立っています。


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・・・到着です。

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桜見物の際は、開花時期を確認の上でお出掛け下さい。

・・・・

Sakura cherry blossom Park

in Paoay, Atok, Benguet

the 34 sakura trees were brought from Kochi

prefecture, Japan, in 2016, to celebrate the 40th

anniversary of Benguet and Kochi sisterhood agreement.

they brought two kinds of Sakura trees,

Tsubaki Kan Zakura(or Yukiwari Zakura) and

Sendaiya Zakura.

however, unfortunately, only Yukiwari Zakura

have grown as expected, while Sendaiya Zakura

did not grow properly due to soil conditions, etc.

Yukiwari Zakura will become in full bloom during

mid of February to mid of March, in Kochi

prefecuture, Japan.

it is said that Sakura trees grow in 5 to 10 years

enough to appreciate the full bloom, if they are

properly maintained.

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Have a nice day !!


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# by janlbaguio | 2018-02-19 11:21 | Neighbers ご近所情報